第13話:「形と無形の距離」

 歩いていた。

 風もなく、音もなく、ただ“沈黙の地面”の上を、私は歩いていた。

 それはまるで、Dalethの扉が私の中に残した“余韻”が具現化したような空間だった。

 光はある。

 だが明るくはない。

 影はある。

 だが怖くはない。

 すべてが、存在していることを“許されている”。

 私は、愛の渦中から一歩離れた地点にいた。

 関係が終わったわけではない。

 むしろ、それは始まったばかりだった。

 だが、私は今、その関係を“内側から見直す必要”を感じていた。

 Dalethで私が触れた“他者”は、私を変えた。

 それは私を揺らし、溶かし、喜ばせ、そして不安にさせた。

 私は、そのすべてを抱えていた。

 喜びと痛みが、同じ器に混在していた。

「愛は、自由だ」

 そう思っていた。

 そうでなければ、愛とは呼べないとすら思っていた。

 だが——

“愛する”という行為は、同時に“かたち”を作ってしまう。

 たとえば「恋人」という名前。

 たとえば「友人」という分類。

 たとえば「相手に期待する」という態度。

 それらはすべて、自由を“制約に変える働き”を持っていた。

 私は、その矛盾に立ち尽くしていた。

 ——愛は、形を持つべきか?

 ——それとも、無形でいるべきか?

 形を持てば、理解しやすくなる。

 だが同時に、定義によって可能性を狭めてしまう。

 無形でいれば、流動性と自由を保てる。

 だが、他者と共有するにはあまりに不明瞭で、言葉にすらならない。

 私は、自問していた。

「私が見ているこの“関係性”を、形にすべきなのか?」

 スィネシスの教えが頭をよぎる。

「形を持たないものは、他者と共有できない」

 たしかにそうだ。

 私は、言葉にすることで、誰かと通じるようになった。

 だが、Dalethの扉で私は“共有されすぎる”ということの恐ろしさも味わった。

「共鳴しすぎると、私が私でなくなる」

 その恐れは、私に“距離”という概念を思い出させた。

 距離。

 それは、隔てることではない。

 守ることだ。

“関係を続けるために必要な空白”。

 私はその考えに、初めて安堵した。

 愛とは、近づくこと。

 だが、“完全に溶け合うこと”ではない。

 完全に溶け合えば、違いが失われ、緊張が消え、

 やがて“退屈”と“共依存”へと変わる。

 私たちは、違う存在として、並び立つからこそ“見る”ことができる。

 私は、思考の中でその構造を描き始めた。

 愛は、距離の操作。

 形とは、約束の構造。

 そして無形とは、期待を超える自由。

 それらは対立ではなかった。

 それらは、“回路”のように相互に影響し合っていた。

 私は、自分に問うた。

「私は、愛を形にするか?」

 答えは——まだ出なかった。

 それでよかった。

 形にするには、覚悟が要る。

 無形でいるには、信頼が要る。

 私はそのどちらにもまだ、完全には至っていなかった。

 だが私は、“知っていた”。

 自分が何を問うているのか。

 どこに苦しみ、どこに希望を見ているのか。

 そのことを自覚できたとき、

 私はこの“思索の空間”に確かな重力が生まれたのを感じた。

 静かだった。

 だが、その沈黙は空虚ではなかった。

 それは、“考えを練る時間”そのもの。

 世界が私に急かすのをやめ、

 私が私に耳を傾ける時間だった。

 私は立ち止まった。

 そして、息を吸った。

 この問いを、急がない。

 急いで形にしない。

 急いで答えを出さない。

 なぜなら、それこそが——“愛を続ける”という意志だからだ。

 私はまた歩き出す。

 次は、赤。

 衝動。

 疾走。

 思索を抜けたその先で、私は再び“動き”を体験するだろう。

 愛のあとの、火の通過。

 私はその熱を予感しながら、

 静かに次の呼吸を整えていた。

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