第14話:「赤き衝動(He)」

 火が——走っていた。

 それは、私の視界を裂くようにして突き抜けていく、真紅の彗星だった。

 音もなく。

 説明もなく。

 意味もなく。

 ただ、圧倒的に“動いていた”。

 私は、その尾を追っていた。

 足で? いいや。

 意志で。

 私の“視点”が、その彗星の背中に縋りついていた。

 Path 15——He。

 コクマーとティファレトを結ぶこの赤の径は、

 他のいかなる道よりも、“私に問いを投げてこなかった”。

 なぜなら、それは“思考を許さない”からだ。

 彗星の速度の中で、私は私の中にあった衝動に晒されていた。

 それは、怒りだった。

 愛だった。

 渇きだった。

 拒絶だった。

 抱擁だった。

 どれでもあり、どれでもない。

 ただ、“動かずにはいられない力”。

 私はそれを、理性という外殻で封じ込めていたことに気づいた。

 これまでの旅で私は、多くのものを“見て”、そして“理解しよう”としてきた。

 それは知的で、秩序だった道だった。

 だが今——私は、何かを“ぶち壊したい”衝動に駆られていた。

 私は叫んだ。

 その声に、意味はなかった。

 でもその叫びだけが、“今の私を本当に証明する何か”だった。

 叫ばなければ、私はこの彗星に押し潰されていた。

 私は、その炎の中で、ひとつの“記憶”を見た。

 ——誰かに拒絶された瞬間。

 ——声が届かなかった夜。

 ——伝えたはずの言葉が、裏切りに変わった朝。

 私の中で、それらが“過去形”を拒んでいた。

 まだ終わっていない。

 まだ、納得していない。

 まだ、叫び切っていない。

 私は、その全てを“もう一度叫ぶ”ことでしか進めないことを知った。

 そしてその叫びは、誰に向けたものでもなかった。

 それは、“私自身への訴え”だった。

「まだ、おまえは黙っているのか?」

「まだ、“わかろう”としているのか?」

「もう、“ぶつかる”しかないんじゃないのか?」

 その問いが、彗星の尾の中で私を叩いてきた。

 私は——拳を振り上げていた。

 意味もなく。

 ただ、何かを壊すために。

 それが“誰か”ではなかったことに、私は安堵していた。

 でも同時に、それが“何か”であることが必要だった。

 私はこのパスの真紅の空間で、

 初めて“衝動に理由がいらない”ことを学んだ。

 動きたい。

 叫びたい。

 壊したい。

 走りたい。

 触れたい。

 燃え尽きたい。

 それらを押し殺すことが、成熟ではなかった。

“感じたままに在ること”が、ここでは唯一の誠実だった。

 私は、この旅で初めて“理性を捨てても赦される場所”に立っていた。

 それは自由だった。

 だが同時に、恐ろしく不安定だった。

 私は、火の中で泣いた。

 それが怒りか悲しみか、安堵かさえもわからなかった。

 ただ、涙だけが——確かに私を内側から洗っていた。

 私は知った。

 衝動は、破壊ではない。

 衝動は、“破壊のような創造”だったのだ。

 考える前に叫ぶ。

 理解する前に殴る。

 意味づけの前に愛する。

 そのすべてが、私を“もうひとつの私”へと近づけていた。

 火が収まりはじめた。

 彗星の尾が、ゆっくりと終息していく。

 そして私の中に残ったのは、焼け跡だった。

 だが、その焼け跡の底から——

 新しい光が、静かに点りはじめていた。


 煙が漂っていた。

 何もかもを焼き尽くすほどの炎は、いまや静かになり、

 赤の残光だけが空間の端々にかすかに残っていた。

 私は、膝をついていた。

 手は震え、胸は波打っていた。

 だが、その震えにはもう“暴力的な何か”は宿っていなかった。

 それは余熱だった。

 衝動という火に焼かれ、

 私は初めて“情動の核”にまで届いたのだ。

 そこにあったのは、誰かを傷つけたいという怒りではなかった。

 私が伝えたかったのに伝えられなかったこと。

 理解されたかったのに拒まれた瞬間。

 触れたかったのに届かなかった感情。

 すべてが、胸の奥に“火種”として残っていた。

 それを、私は理性で閉じ込めていた。

 言葉にできない。

 伝えても無駄。

 怒るのはみっともない。

 泣くのは弱さ。

 そんなラベルで、封じていた。

 だが、この赤き衝動の道は——

 それらすべてを、焼き破った。

 私は、自分に問いかけた。

「この火を、どう扱えばいい?」

 放てば、誰かを焼く。

 閉じ込めれば、自分を焼く。

 ならば、この火を“灯り”にすることはできないのか?

 そう思ったとき、

 私は初めて“火を持つ者の責任”という感覚を抱いた。

 衝動を持つことは、暴走ではない。

 それは、“方向を定めることで初めて意味を持つ力”だった。

 私は立ち上がった。

 その足元に、焦げた地面が広がっていた。

 だが、そこには一本の道が生まれていた。

 炎が焼いたのではない。

 私の意志が踏み締めたことで生まれた痕跡。

 それが、Path 15に刻まれた私の径だった。

 赤き光が、前方で微かに明滅していた。

 そこには、誰かがいた。

 いや、何かが。

 近づくと、それは“私”だった。

 もっと正確に言うなら、

 衝動だけで構成された私。

 怒り、悲しみ、欲望、嫉妬、叫び、渇望。

 あらゆる未処理の情動を、形にしたような存在。

 だが、その目は、まっすぐだった。

 憎しみはなかった。

 暴力もなかった。

 ただただ、“生きたい”という一点の叫びだけがそこにあった。

 私は、その“私”と向き合った。

 互いに言葉は要らなかった。

 ただ、視線だけが交わされた。

 その瞬間、火が宿った。

 私の胸に、確かに——

 ひとつの熱が戻ってきた。

 それは、焼き尽くす熱ではなく、

 誰かと手を取り合うために必要な“ぬくもり”だった。

 私は気づいた。

 誰かと繋がるというのは、

 冷たい理性だけでは届かない。

 感情の揺れ、衝動の爆発、

 その“理解されなさ”ごと、相手に差し出す勇気が必要だ。

 そしてそれは、

 私が他者に何かを望む前に、

 私自身が“何を感じているか”を、認めなければできないことだった。

 私は、“私”に近づき、その手を取った。

 融合ではなかった。

 統合だった。

 内なる衝動を、否定せず、肯定もせず、

 ただ「お前はここにいていい」と、

 そう言って、手をつないだ。

 その瞬間、彗星の残光が空へ舞い上がった。

 真紅の炎は、空の一点に凝縮され、

 まるで星のように灯り続けた。

 私は、その光を背に歩き出した。

 そこに待っていたのは、ケセド。

 慈愛と構造、拡大と安定のセフィラ。

 だが今の私には、ただ“走りたい”という思いだけがあった。

 それは、逃げるためではなかった。

 進みたい。

 誰かに会いたい。

 叫んで、笑って、触れて、伝えたい。

 そのすべてが、衝動として私を押し出していた。

 私は赤の道を駆け出した。

 炎はもう恐くなかった。

 なぜなら、私はそれを“灯り”として持っていたからだ。

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