第7話 想うだけの恋でもいい

ある日の仕事終わり、陽菜はロッカールームで制服をたたみながら着替えをしていた。

ふと後ろから聞こえてきた会話に、手が止まる。


「ねぇ、りささん、聞いた?」


同僚の深刻そうな声に、りさが何事かと思ったように振り返る。

「え、どうしたのよ。そんな深刻な顔して」


「カイさんの彼女、亡くなったんですって。白血病だったって……。それも、婚約してすぐ発症して、半年後だって」


「え、マジ。あの“咲”っていう小娘よね」


りさは口元を歪め、嘲るように言った。

「いいざまだわ。あんな泥棒猫みたいなことするからよ。罰が当たったのね」


——その瞬間、陽菜の胸が締めつけられた。

(……咲さん、っていうんだ……)


名前を知ったと同時に、耳に入ってきた言葉が、陽菜の心を焼いた。

怒りが沸騰し、言葉より先に体が動いた。


ロッカーの扉を静かに閉めると、陽菜は鬼のような形相でりさの前に立った。


「りさ先輩。今の言葉、本心じゃないですよね?」


りさは目を見開いた。

「……は?」


「今すぐ、ここで取り消してください。カイさんと、咲さんに謝ってください」


その場の空気が一気に張り詰める。


「もし謝らないなら、私はあなたの元では働けません。今ここで会社を辞めます」


静かだけど、ひとつひとつの言葉が突き刺さるように強かった。


りさは一瞬たじろいだが、すぐに薄ら笑いを浮かべて言い返す。

「なによ陽菜、あんたに関係ないでしょ? ハニートラップ成功できなかったくせに」


陽菜は一度だけ、深く息を吸い込み、丁寧に頭を下げた。

「長い間、お世話になりました」


そう言って、ロッカーから私物を静かにまとめ、まっすぐにその場を後にした。


——陽菜は、ハニートラップでカイとその彼女を別れさせるという作戦を受けてしまったことから、彼に恋人がいることは最初から知っていた。

でも、カイの優しさやまなざしに触れるたび、それだけで胸がいっぱいで、他のことは何も考えられなかった。


会社の飲み会やイベントにも、陽菜は一度も顔を出さなかった。

恋に真剣であればあるほど、誰とも軽く繋がりたくなかった。


だからこそ、周囲の女性たちからはこう見られていた。

「なによ、あの子。ちょっと可愛いからって、お高くとまってるんじゃない?」

と陰口をたたかれていた。

それは、陽菜の耳にも入っていた。

しかし、気にしてないように装っていた。

しかし、りさのあの言葉を聞いて——もう、そんな場所にいられなくなった。


陽菜は、会社を辞め、倉庫の在庫管理という、なるべく人と接しない地味な仕事に就いた。


彼女を失ったカイのことが心配でたまらなかった。

それは、「私が彼女の代わりに」という思いではなく、ただただ、彼の体が心配だった。


陽菜のスマホには、バーでやりとりした以来、更新のないカイとのトーク画面が残っていた。


陽菜は、毎晩寝る前に、一言だけLINEを入れた。

ほんの小さな季節の移り変わりの話や、日常のささいな出来事を短く書いた。

邪魔になりたくないという思いから、食事に誘ったり、返事を求めたりするような言葉は一切入れなかった。


既読にはなるが、返信はなかった。

けれど陽菜は、既読になるだけで、カイとつながっている気がして嬉しかった。


そんな日々が、数週間過ぎていった。


ある晩も、いつもと同じように、陽菜は短い一言をLINEに送って、ベッドに入ろうとした。

すると、数分後。

スマホに通知が届いた。


それは、カイからの返信だった。


「毎日楽しみにしてたよ。今まで返信できなくてごめんね。陽菜さんのLINE、ずっと楽しみに読んでた」


陽菜は飛び跳ねて喜び、思わずスマホの画面にキスをした。

そして、スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。

その夜は、スマホを抱きしめたまま眠りについた。


それから、しばらくカイと陽菜は、お互いが就寝する前に一言だけLINEする日々が続いた。

陽菜は、カイに会いたくて仕方なかったが、決して、自分から「会いたい」とは言わないと心に決めていた。


そんなある日、カイからこんなメッセージが届いた。


「俺、しばらく、青空見てない気がするんだ。いつまでもこれじゃいけないと思って、どこか広い公園でも行ってみようかと。もし、迷惑じゃなかったら、お弁当持って一緒に行ってくれない?」


陽菜は、またしても部屋の中で飛び跳ねてしまった。


嬉しくて仕方なかったが、スマホにはこう返した。


「え、私のお弁当なんかでいいんですか? 得意じゃないですよ。お腹こわすかもしれませんよ」


「陽菜さんの作るものなら何でも大丈夫。それに俺は、お腹丈夫だから」


「本当に、お腹壊すと思ってるんですか~」


と、ちょっと膨れ顔のスタンプを返した。


公園デートの日が来た。

咲が亡くなってから、半年が過ぎていた——。

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