第8話 前を向くカイ、寄り添う陽菜
カイと陽菜の初めての公園デートの日が来た。
陽菜は、前夜からお弁当の仕込みをし、当日は朝早く起きてお弁当作り。
夜は、興奮してなかなか寝付けなかった。
自分で「あんたは、遠足前の小学生か!」と突っ込みを入れるほどだった。
待ち合わせ場所に現れた陽菜は、デニムのミニスカートに透け感のあるブラウス姿。
それは、かつてハニートラップを仕掛けた際、カイに「可愛い」と言ってもらえた時と同じコーディネートだった。
公園に着いたふたりは、まず青空を見上げて大きく深呼吸をした。
「外の空気がこんなにおいしいなんて、今まで感じたことなかったな~」
「私も~」
レジャーシートを敷くカイ。お弁当を広げる陽菜。
「なんか、恥ずかしい……お弁当、あまり上手じゃないでしょ」
そのお弁当は、お世辞にも100点とは言えなかったが、一生懸命さと温もりが伝わってくるお弁当だった。
「美味しい、美味しい」
カイは、何を食べてもそう言ってくれた。
その姿を、陽菜は幸せそうに見つめていた。
レジャーシートに座る陽菜。
カイは、見えそうで見えないスカートの中、少しかがんだときにブラウスの胸元からのぞくブラに、ドキドキが止まらなかった。
けれど、カイはそれ以上に、
「自分がこんなふうにドキドキするのは、いつ以来だろう?」
そう思い、自分の中にまだこんな感覚が残っていたことに、嬉しさを感じていた。
「青空の下で食べるお弁当って、最高だね」
お弁当を食べ終え、カイがつぶやいた。
「でも……ひとつだけ、言っていい?」
ふと陽菜に目を向けて続ける。
陽菜は一瞬ビクッとし、
(あ、やっぱり味のことで何か言われるんだ……)と身をすくめた。
「ちょっと、足りないよ。次は、もっとたくさん食べたい」
「え……じゃあ、今度はもっと上手に、量もたくさん作るね」
ふたりは自然な流れで、次の約束を交わしていた。
その空気は、やさしく、どこかくすぐったい余韻を残していた。
帰路につくため、駅の上り階段の前に来たとき、陽菜はいたずらっぽい顔で言った。
「カイさん、ちょっとここで待ってて」
カイはきょとんとしながらも頷く。
陽菜は階段をリズミカルに中段あたりまで登り、「ねぇ、カイさん見える~?」とミニスカートの裾をおさえながら振り返った。
「見えない、大丈夫」
そう言って、両手で頭の上に丸をつくる。
陽菜は階段を降りて、カイの元へ戻る。
「見えないでよかった」
「実は……ちょっと見えた」
「うそ!じゃ、何色だった?」
「ピンク」
「あ~っ、本当に見たんだ~、エッチ~!」
そんな他愛もないやりとりを交わすふたりには、かつてのふさぎ込んだ影はなかった。
お互い、本来の自分を取り戻し、素直な笑顔が自然とこぼれていた。
公園でお弁当を食べるデートは、その後もしばらく続いた。
カイは、健康診断で医師から運動不足を指摘され、かつて経験のあるサッカーを知人のチームで再開することにした。
陽菜は、休日にカイと過ごす時間が減ることを理解していたが、決してわがままを言って困らせるようなことはなかった。
最初、りさをサッカーの練習に連れて行ったが、その美貌からチームメイトがちやほやするので、連れて行くのを止めた。 その後は、『今日、りさちゃんは?』が、いつしかカイとチームメイトとの定番のあいさつになっていた。
たまに、「今日は、体調悪いので練習休む」と連絡すると、 「おまえはいい、りさちゃんだけよこせ」といじられていた。
一緒にサッカーグラウンドに行かなくなってからは、練習終わりにりさの部屋に寄るようになった。
陽菜の部屋に入ると、手作りの料理と冷えたビールが用意されていた。
「汗かいてるでしょ、シャワー浴びてきて」
その後、ふたりはテーブルを囲み、美味しい料理とお酒を楽しんだ。
「汗かいて、シャワー浴びて、冷えたビール、美味しい料理、もう最高だな~」
カイは、幸せをかみしめるように笑った。
夜になり、カイは「ありがとう、美味しかったよ。また、来週ね」と言って帰っていった。
陽菜も最初は、それだけで幸せだった。
しかし、そんな部屋デートを重ねて3か月、今日もカイは、いつも通り帰っていく。
陽菜はカイを見送った後、「あ~ん、今日も何もしてくれなかった~」と頬をぷくっと膨らませて、小さくふてくされたようにソファに腰を下ろした。
ある日、ウインドウ越しにマネキンが着ているワンピースに目が止まる。
それは、真っ白で背中が大きく開き、首の紐ひとつで全体を留めている、ほどけばすべてが落ちてしまうようなワンピースだった。
陽菜は、ニヤニヤしながら迷うことなくそのワンピースを購入し、週末の部屋デートに着ることにした。
「いらっしゃい。お疲れさま。ケガしなかった?」
いつも通りの言葉でカイを迎える。
カイは陽菜の姿を見て、照れてなかなかじっと見ることができない。けれど、ちらちらと目を向けてしまう自分を止められなかった。
「これは……ブラはどうなってるの?」
「もちろん、つけてないよ」
カイはドギマギして、視線を泳がせる。
その後も、いつも通り美味しい料理とお酒を楽しみ、食事もひと段落。
酔いがまわったころ、陽菜がいたずらっぽい顔で言った。
「ねぇ、カイさん。このワンピース、首の紐だけで支えてるの。だから、この紐絶対にほどいちゃダメだからね。裸になっちゃうんだから。ノーブラだし……」
「わ、わかった、大丈夫」
妙な空気感にいたたまれず、カイはトイレに立った。
カイが部屋に戻ると、陽菜が神妙な顔で立っていた。
「ねぇ、私のこと嫌い?」
「そんなことあるわけない」
「じゃ、なんで何もしてくれないの?」
「私、恥ずかしいけど、この歳でまだキスもしたことないの。このまま、おばあちゃんになっちゃう」
「咲さんのことを忘れてなんて言わない。でも今日は、ううん、今だけでもいいから私を見て」
うつむく陽菜に、カイはそっと手を伸ばして抱きしめた。
「俺にとって陽菜は大切な存在なんだよ。何かしようとして、結局他の男と同じねって陽菜が離れていったらと思うと、怖くて……」
そう言うカイの目の前には、ほどいちゃダメと言われたワンピースの紐が——
カイは、一瞬ためらったあと、意を決したようにその紐にそっと指をかけ、静かにほどいた。
ワンピースは、ふわりと肩をすべり落ち、今にもすべてが露わになりそうだった。
けれど、ふたりの身体がぴたりと重なっていたことで、それを辛うじて留めていた。
「ごめん、ほどいちゃった。離れたら脱げちゃうよ」
陽菜は、カイの胸から離れたくないと思っていた。
その後、ふたりは、キスを交わす。
最初は軽いキスだったが、キスはやがて、お互いを求める想いを乗せて、深く熱を帯びていった、ふたりのぬくもりに溶けるように、ワンピースは静かに床へと舞い降りた。
「今日、泊まっちゃダメ?」
カイがそう言った瞬間、陽菜は小さく笑って、彼の胸にしがみついた。
「ダメなわけないでしょ……先に言われちゃった……」
その夜、ふたりは結ばれた。
ベッドの中、互いの名前を初めて呼び合いながら、ぬくもりを確かめ合った。
陽菜は、見た目の華やかさとは裏腹に、一途で奥手な性格だった。
ファーストキスも、そして身体を許すのも、この夜が初めてだった。
一般的には少し遅い初体験だったかもしれない。
けれど、叶わないとわかりながらも、一途に思い続けてきた人にすべてを捧げることができた――その事実に、陽菜は心から満たされていた。
陽菜は、感じていた。
「世の中に、こんなにも心も体も満たされる幸せがあるなんて……。
これが、愛する人と結ばれるってことなんだ…………」
思わず、心の中で小さく笑う。
「……どうしよう、癖になっちゃうかも」
その夜以降、陽菜は、カイの電話にこう言うようになった。
「ねぇ、変なこと言うかもしれないけど、引かないでくれる?
カイに愛してもらってから、1週間がすごく長く感じるの。
週末に会えるまでが待ちきれないの。
週の途中で、我慢できなくなっちゃう……。
……テレポーテーションで来てくれないかな?」
今まで、カイを困らせるようなことは決して言わなかった陽菜。
そんな彼女が初めて見せた、甘えるような“わがまま”だった。
カイは少し戸惑いながらも、そのわがままが愛おしくてたまらなかった。
失意のどん底から立ち直ったカイ。
長年好意を寄せていたカイと結ばれた陽菜。
幸せの真っ只中にいるふたりは、やがて訪れる運命の波に、まだ気づいていなかった。
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