第2話  女給の紫津

女給になるのにも得て不得手がある。

紫津は『カフェ寿』に勤めだして、まだ間がない。十九という若さもあってか、いまだ他の女給のように割り切って客に接することができない。

銀座から京橋にかけてカフェが林立していた。

この界隈だけで何千軒というカフェがあり、そこで働く女給も一万人を数えている。女給は着物姿であった。客を複数で取り囲むと、珈琲だけではなく麦酒やワイン、その他アルコールとなんでも提供した。だが、客の要望で、ひとりにされることもあった。

いま紫津の横にピッタリくっつくのは墨田という男だ。歳のころは五十半ばで和服姿で羽織を重ね着してやってくる。

紫津の容貌を気に入ったようで、ひとりだけを指名してくる。他の女給が一緒につきましょうか、といっても受けつけない。

墨田の羽織の腕が腰にのびてきた。紫津が嫌がるのを平気で袖のなかに手を入れたりしてくる。

カフェで働きだして、一週間やそこらではないから、さすがに逃げ出たしたりはしないが、おぞましさで身がすくむ。

やんわりと墨田の手をほどいたり、麦酒を飲ませたりしながら時間をやり過ごす。

紫津の髪の間から見える耳に、息がかかるほど唇を近づけてきた。

「なぁなぁ、紫津ちゃん。内緒の話なんだが、わしはいろんな薬を持っているんじゃ」

「そうでしょうね。墨田さんのお店は薬局ですから、たくさんの薬をお持ちでしょう」

「どうだ。今度わしとつきあわんか?」

 墨田は紫津の手を握る。汗ばんで気持悪い。

「あらぁ、お店の外でお客さんとおつきあいするなんて……」

「なぁに、カフェの女給は外で客とつきあってなんぼじゃろう。それこそ金持ちを捕まえたら安泰じゃ。わしは大金持ちではないが、そこそこ金を持っている。それに、わしとつきあうとただで薬をやれるぞ」

「いいえ。わたしは……」

 紫津は笑顔を繕いながら、薬剤師から自分の手をずらした。

当時はモルヒネやヘロインなどの麻薬類も胃痛などの鎮痛剤として薬局で扱っていた。薬剤師は合法的に麻薬を自由に取り扱える立場にいた。

「ははは、お堅いことで。周りはみんなやっているぞ」

「あら、そうかしら?」

 カフェの女給のなかに麻薬をやっているものがいるという噂がある。突然、店に出なくなって行方不明になってどうしたのだろうと思っていたら、麻薬中毒が原因だったということもあった。

「疲れたときに一本という奴はどうじゃ」

「なんですの? それ」

「いまは手元にはないが、間もなく売りに出される、そうすりゃあ、手に入る。ヒロポンという名前で麻薬ではなく、服用すると、疲労を吹き飛ばしてくれる、優れもんじゃ」

「ずいぶんよいお薬ですこと」

「そうさ。疲れもとび、おまけに恐怖心もなくなる。こいつを怖さを忘れさせるため、戦地の兵隊に飲ませて突撃させるためにも利用するんじゃ。わしのところには販売前の試作品で入ってくる。どうだ。一度、うちの薬局に寄ってみんかね。紫津なら安く分けるよ」

薬剤師はあの手この手でくどいてくる。

「まぁ、わたしも突撃する必要があるのならいきます」

 紫津のほうも機転のきいたいい回しであしらった。

「そうだ」

 墨田はおもむろに懐から紙切れを取り出した。

「ここにわしの店の場所を描いた地図がある。中野駅の近くじゃ。どうだ。今度立ち寄ってくれんか?」

店に来る前にあらかじめ用意しておいたものだろう。紫津の手に無理やり握らせた。

「ありがとうございます。気が向いたらおうかがいします」

 紫津はそういって着物の襟の間に挟みこんだ。

 それ以降も墨田はなかなか帰ろうとはしなかった。

 紫津の心の内では、仕事とはいえ、墨田への嫌悪感が膨れ上がってきていた。

――もう、いや……。こんな、肥った醜い親父をいつまで相手にしなきゃならないの? 早く帰って……。どうせ、こんな贅肉につつまれた男の心臓なんか、汚れたドロドロの血が流れているだけでしょう。いっそのこと止まってしまえばいいのに……。

店からすれば、たいして注文もせず、売り上げも伸びないし、女給にもしつっこいし、歓迎されない客であった。

 紫津は墨田への怨念に呪縛されそうになり、思わずわれに返った。

――いけない。こんな人でもお客さんよ。

いったん眼の前にいる墨田を忘れようとした。

頭のなかで和歌を諳んじだした。

いやな客との時間をやり過ごすとき、頭のなかで小倉百人一首を諳んじることにしている。

まだ幸せだった子どものころ、父母と百人一首で遊んだ記憶がある。まだ、十を数えたばかりの紫津には、歌の意味などわからなかった。でも、ただただ楽しく、三人で笑いあった。

そのころのひとときを思い起こしたかった。墨田が居座り続ける間、いまでは、その意味もわかる、お好みの歌を何度も諳んじた。

 その日、墨田はたいした飲食物も頼まずに、延々と三時間近くも粘った。店の戸口で見送るとき、これまでの苦痛から解放され、ホッとした。

墨田は、紫津の安堵の笑顔を、自分への好意のあかしと思ってか、満足げにうなずくと、次回来たときには、よい返事を聞かせてくれといって帰っていった。

さっそく紫津は着物の襟に挟んだ、墨田からもらった地図を捨ててしまおうと抜き取った。

が、次に墨田が来たさいに捨てたというのも厄介なことであったので、しかたなしに襟のなかに戻した。   

昭和のはじめ、関東大震災から復興した東京は生まれ変わった。

近代的な銀座が造られ、欧州から取り入れたモダン風俗が流行り、一部の若者はモボモガとなり、最先端のファッションで銀座通りを歩いた。それと同時に、庶民の娯楽では、剣劇や映画などが旺盛をきわめ、特に浅草六区は大歓楽地として隆盛をほこった。欧州輸入のモダン風俗と日本産とが競い合って、享楽的ともいえる文化をつくった。男の客を取り巻くようにして、女給たちが接待するカフェもそのひとつだった。

  ( 続く )

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