神子(みこ)と刃(やいば) 昭和のはじめ青春期
MAHITO
第1話 民星党の失策
昭和初期(一九三〇年代)、大日本帝国は明治、大正と続いた工業化に翳りが出たところに、ニューヨーク株式市場の大暴落という世界大恐慌が起こり、その煽りを受けて長い不況のトンネルのなかであがいていた。
多くの失業者をかかえて、ついにはその打開策として中国侵略による戦争政策をとった。軍部は満州鉄道の線路を自らの手で爆破して、それを中国の抗日分子の仕業とし、侵略への足がかりにし、満州国をも建設した。真実を明かされない日本国内での報道は、民意を中国への敵意へと向け、国民の戦意を煽った。
同時に、戦時路線への国民統制のために、警察権力による思想弾圧が加速していた。国体に反するもの、ことに社会主義者への攻撃は過酷を極めていた。
夏には少し間がある。
このところの長雨で、町全体が湿った空気でおおわれていた。
渋谷駅の改札口に濡れそぼった一匹の犬が、改札口で大学教授である主人を待っていた。
その犬は、主人が出かけるときには駅までついていって、主人が帰る時刻には駅まで出迎えにいっていた。それがその犬の日課だった。
ところが ある日、主人が病気でこの世を去ってしまった。だが、その事実を知らない犬はその日課を続けた。
今日こそは駅に主人が姿を現すと信じ。いつしかこの犬は忠犬ハチ公と呼ばれるようになった。
そんな渋谷で、まるで米国ギャングさながらの凶悪事件が起きた。
雨のなか、傘をさして銀行を出ようとした婦人は、驚きで立ち止まった。突如、帽子とマスクで顔をかくした男三人が立ち塞がったのだ。
男たちは、顎をしゃくり、婦人を店から出させると、そのまま銀行のなかに飛び込んだ。
三人のうち、ひとりが拳銃を持っていた。男が声を張り上げた。
「金を出せ!」
銀行強盗だった。
なかにいた客たちは、怯え、店の隅へと後じさる。
いっぽうで、カウンターを挟んで店の奥にいる銀行職員たちは危急の事態も想定している。本物の拳銃かどうかを疑っている。
すると、いきなり男は拳銃を天井に向けて引き金をひいた。破裂音が耳をつんざき、陥没した痕が天井に刻まれた。
本物の拳銃に、銀行職員たちと客の悲鳴があがった。
その後、波が引いたように静まり返って、上司の指示をあおいだ銀行職員のひとりがカウンターに札束を並べた。
強盗たちは怯える銀行職員を尻目に、大金を持参したバッグに詰め込むと、風のように去っていった。
白昼に堂々と、当時のアメリカ映画に登場するギャングのような犯罪だった。ギャング事件と呼ばれた。
あまりにも鮮やかな犯行だったため、捜査は難航するかに思われたが、意外なことに事件は三日後にスピード解決をした。
どのような経緯で犯人が特定されたかは公表されなかったが、民星党の党員の犯行であると判明した。
民星党は労働者や農民は一部の資本家に支配されて貧困にあえいでいる、そんな世の中を変え、平等な社会を実現しようと、創られた思想団体であった。
時の政府からは国家を転覆する危険思想だとみなされ、治安維持法による厳しい弾圧を受けていた。
警察が容疑者を捕獲すると、三人のうち主犯格とされる男から拳銃が押収された。民星党党員が党資金確保のため銀行強盗を行ったという前代未聞の愚行であった。
党員が銀行を襲った襲撃犯として逮捕されたことは大きな騒ぎであり、号外が日本国中の繁華街にばらまかれた。
社会主義は国家転覆を図るだけでなく、強盗までする、反政府の危険思想である。
この犯罪の失敗は政府の思うつぼであった。党はますます世論を敵に回すことになった。
( 続く )
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