パピーアーポス

生仁江ハマル

憧れに向かって

プロローグ

「ひいっ」

ルル・コロンは、死んでしまった母譲りの可愛らしい顔を恐怖に歪める。

 目前には獅子のモンスター。その瞳はルルでどう遊ぼうかと嗜虐的しぎゃくてきな視線を送っている。

 だからわざわざ、足だけを中途半端に傷つけて、動けないけれど意識を失う程ではないという状態にしたのだ。

 どうしてこうなったのか?

 文字にすると何とも単純。

 ダンジョンが発生した。

 ルルの住んでいる村セルタンにダンジョンが発生したのだ。

 ダンジョンは災害だ。突然、黒い球が発生し、その内部は異界となり空間は勿論、時間もおかしくなるものまである。

 さらに内部には本能が人間を襲うようにされているとしか言いようがない敵意を向けてくるモンスターが溢れる地獄絵図。核となっているものを破壊するまで消えることはない。

 村などが飲み込まれようものなら、辿る未来は一つ。全滅あるのみ。

 セルタンにとって不幸中の幸いだったのはダンジョンの黒い球の大きさが本当に小さいサイズだったこと。そのため、飲み込まれたのが発生地点にいたルル一人だったことだ。

 モンスターがダンジョンの外に出ない限り犠牲はルル一人だ。

 勿論、ルルが犠牲になることを幸とするような者はいない。が、全滅を免れたのは幸運であったことに変わりはない。

 村人たちはダンジョンの中に飛び込もうとする数人を抑えながら、右往左往するしかできない。



 獅子のモンスターはのそのそとわざとゆったりとルルの周りを円を描くように歩く。

 獅子が一歩進むごとにピチャリと水音が、ぐちゃりと肉を潰す音が鳴る。

 このダンジョンにいたモンスター達の屍だ。ルルの足を動かさないようにした後、獅子は他のモンスターにも同じことをした。

 そうして、一匹一匹丁寧に足を潰し、腕をもぎ、頭を砕いた。

 ルルに見せつけていた。これからお前に同じことをするんだよ、と。

 ルルは動けない。足をやられて、物理的に動けないというのもある。

─怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い

 恐怖が檻となる。ひどく、窮屈な檻となる。

 体が冷たい。動かせない。傷つけられたのは足だけのはずなのに、凍りついたように動けない。

 息をするのでさえ、苦しくて仕方がない。ほんのちょっと、ヒュッと吸うだけで氷塊を喉に突っ込まられるような圧迫感。

 正に恐怖の絶頂。

 獅子もそれを感じ取っていた。見れば分かる。幼いルルの恐怖に歪んだ表情。恐怖には鮮度があることを獅子は感じ取っていた。頂に至るまで育てた今この時こそが刈り取り時。

 純度百パーセントの悪意によって命を奪う。下卑た笑顔がそう語っている。

 獅子は丸太のような太さを持つ前脚をゆっくりと振り上げる。この期に及んで速さを纏わないのは、最後の最後まで絞り出すため。

─あっ

 混乱し、恐怖し、乱れに乱れたルルの脳内は自分の短かい人生の終わりを理解し、思考が一つに統一された。

 終わった、と。

 自分の命の終わりを冷静にとは言えないがルルの脳は、理性は絶対なものとして半ば受け入れていた。

 獅子の腕により一秒もかからずにルルは愛らしい見た目など想起しようもないぐちゃぐちゃな肉と骨と血を吹き出すオブジェに成り果てるのだ。

 それが残酷な現実。それをルルの理性は理解している。

 しかし、だ。ルルの本能は終わりを受け入れなかった。

─まだ死にたくない

 自分でも認識できない心の奥深くで弾けた思い。

 それに従い、ルルは這いずった。

 動けたのは本当に僅かな距離、なんなら側からみるたら本当に移動したのかと疑われるくらいには微動。

 たかが微動。

 稼げた時間などゼロに等しく、終わりまでのカウントダウンは依然進んでいる。

 獅子の腕はまもなく振り下ろされる。

 されど、微動。それは幼い少年が絶対なる絶望に争った証拠。

 意味などなかった。

 なんて、言わせない。

 そう言うように、光がダンジョンの中に飛び込んでくる。

 光は突入したままスピードを緩めずその勢いのままに振り上げられた獅子の腕にぶつかり、貫いた。

「guaaaaaaッ⁈」

 獅子は悲鳴を上げ、思わずのけ反る。

 この場の上位者であった獅子がその小さな玉座から転げ落ちた瞬間だった。

 光はギュンっと旋回してから勢いを殺しルルの前に降り立つ。

─ありがとう 

 って言いたかった。でも、痛みで口が回らない。

 どうにかしようとモゾモゾしているうちに光は人の形となった。

─……お兄さん?

 光は青年の姿になった。

 夜空を想起させる黒髪に一筋の白い流星が流れている。

 彼がルルの足に触れる。幼子の柔足は獅子の爪により傷つけられている。あの獅子が本気で爪を振るえばこんなものではないはずだ。

─遊んでいたのかっ!

 幼子を弄んだ獅子への怒りで体が震えるが怒りをぶち撒ける前にやるべきことがある。

 青年がルルの足に触れている部分に力を込めると淡い光が溢れ傷が塞がる。

 ジグジグと己を蝕んでいた痛みが突然消えた。消耗した幼子の貴重な体力が戻ったわけではないが断然楽になったのは言うまでもない。

 何が起こったのかは、正直ルルにはわからない。

 終わった、と思ってから状況が目まぐるしく変わり過ぎている。七歳になったばかりのルルの許容範囲を超えている。

 でも、この奇跡の担い手が自分を助けてくれた青年だということはわかる。

「……ありが─「gyaaaaaaaasaa!!」─」

 ルルはまだ震えて上手く口を動かさないが感謝を伝えようとしたが、獅子の咆哮がそれを邪魔する。

 青年がルルを庇いながら視線を獅子に向ける。獅子は片腕を失っているにも関わらず、迫力は増している。鬣は逆立ち、肉体は戦闘のためかギュッと引き締まっている。切り替えたのだろう、お遊びから蹂躙に。


 獅子は怒り狂う。

 玩具人間が一つしかなかったから質を重視してみた。

 じっくり、ぐつぐつ、丁寧に育てたのに。後はメインディッシュだけだったのに。

 邪魔された。

 殺す殺す殺殺殺殺す!

 遊びじゃない、殺戮をっ!

 もはや、玩具ルルのことなど頭の隅。青年を殺すことだけを考え、吠える。

「gaaaaaaaaaaaaaaa」

「ヒッ」

 その形相はとても、幼子に見せていいものでわない。

─こわいこわいこわいこわいこわい

 やっぱり僕はここで終わりなんだと再び絶望がルルを襲う。ボタボタと涙がこぼれ落ちてしまう。

 青年は幼子を抱きしめない。脳裏に浮かんだ母性溢れる友人なら背に守る幼子を抱きしめ、安心させるんだろう。

 しかし青年はそういうのは得意ではない。

 ただ前に立つ。ルルに背中を見せる。

 ただ、それだけで青年の後ろには澄んだ空気が生まれる。

 ダンジョンという空間が作り出す穢れた空気、見せしめにされたモンスターたちの死骸が生み出す臭気、獅子の身勝手な怒りが放つ怒気。

 ルルを苦しめていたそれら全てが振り払われる。

 余裕ができた。前を、しっかりと見る余裕ができた。

─おっきい

 獅子は大きい。

 青年は獅子より小さい。

 なのにその背中はとても大きい。獅子が小さく感じる。

 青年は言の葉を発さない。

 でも大きな背中から滲み出る覚悟はルルに伝わる。

─お前を絶対に守り抜く

─あいつを倒す

 ルルは気づく。怖がる必要なんてなかったのだ。絶望する必要なんてなかったのだ。

 彼が助けに来てくれていたから。

 やらなきゃいけないことがある。伝えなきゃいけないことがある。

 何もできないルルが唯一できることがある。

「がんばれっ」

 まだ舌が震えて、か細い掠れた声しか出せない。

 それでも言えた。モンスターに弄ばれ続けた少年の反撃だった。

 青年は構えながら幼子の応援を心に染み渡らせる。

 そして戦闘が始まる。

 「guooooooo」

 獅子の怒りに身を任せた突進──に見せてまだある方の腕での振り抜き。

 激憤していようが獅子は戦闘に関しては冷静だった。今さっき自慢の肉体を貫かれたばかり無策な突撃は死ぬばかりだと判断した。

 だからわざと大振り。青年ならば避けるもいなすも簡単だろうが背に庇う玩具おもちゃはそうはいかない。

 あの高速移動を使われたらまたらないがこれもまた玩具おもちゃがそれに耐えれる訳がない。

 青年がルルを守るというのなら獅子の横薙ぎを受け止めかければならない。

 獅子はニヤリと嗤う。残忍な獅子は狡猾でもあった。

 獅子の思惑通り青年はその場を動かない。獅子の腕が彼を襲う──とこはなかった。

 獅子の腕は青年が作り出した光の壁により阻まれていた。

 獅子は間抜けにも空中で一瞬、無防備に停止することになった。

 その隙を逃す青年ではない。

「シャッ!」

 流星を宿す彼は間髪入れず光の槍を造り出し、流れる動作で投げ放つ。

 放たれた流星は地から天へと走る過程で獅子の残ったもう片方の腕を穿ち千切る。

「gyaaaッ!!」

 これには、獅子も言い訳が効かなくなる。不意打ちだったさっきとは違い意識を戦闘に切り変えたにも関わらず手も足も出ない。

 今まで気にしたこともなかった死神の鎌がすぐそこにあるのを感じる。

 たった一撃で青年の攻撃は終わらない。いつの間にか光の壁が円の形になり回転。

 放たれたれた円盤は獅子の後ろ脚を両脚共に両断する。

「guaaaaaaaツ!!」

 獅子は青年に傷一つ付けられないままに、四肢を失い達磨となってしまう。良いところなしここに極まれり。

「guyaaaaaaaツ!」

 獅子は激しくもがきはある。そこそこな巨体がそうやって暴れるのだから、迫力はあるし、四肢の断面から血が撒き散るので見た目は恐ろしいが実態は負け猫の悪足掻き。

「そろそろ、終わりにするぞ」

 青年は再び光の槍を創り出す。

 ルルの耳がパキッと何かが砕けたと思ったら獅子は頭から尻にかけて槍で貫かれ、死んで灰になっていた。

 あれだけルルを甚振った獅子が死ぬ時は呆気なく消えていく。

「……生きてる」

 小さな手をにぎにぎとしながらルルが呟いた。

 恨みは積もっているはずだが、不思議と幼子の口から出できたのは負の言葉ではなかった。

 ありえないと思っいた生存。

 喜びと安心の涙が溢れる。

 愛も変わらず青年は言葉を放たないが、頭を優しく撫でてくれた。

 不器用な男だ。

 核となっていた獅子が死んだことでダンジョンが崩れていく。

 暗雲が立ち込めていた死の草原がいつものセルタンの光景に戻る。

 光がダンジョンに突入したのを見ていたセルタンの人たちはダンジョンが崩れ、村の愛し子が無事に生きてる帰ってきてくれた奇跡に歓声を上げた。

 なんか、見たことのない青年も一緒だったけど気にせず喜んだ。

 朝日が昇る。

 絶望から這い上がった幼子によく頑張ったねと抱擁するように、優しく夜明けの光がルルを優しく包み込んだ。

 光に包み込まれて緊張の糸が切れたルルを眠気が襲う。

 ルルには眠りに落ちる前になんとしても言わなければならないことがある。

「お兄さ……ありがと……」

 それは、ありがとう。

 獅子に邪魔された、助けてくれてありがとうの気持ちをようやく言えた。

「うん、よかった。助けられて」

 青年は微笑む。どこまでも感謝を忘れない幼子に心がポカポカする。

 いよいよ、ルルは限界だ。

 今宵失ったものを作り出すため、ルルの体は休眠に移った。

 この晩、一人の幼子は絶望を知った。

 この晩、一人の幼子は希望を知った。

 

 ルル・コロンは助けに来てくれた流星の青年の背中に憧れを抱いた。

 

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