第10話 ファイル
校舎へと歩を進めるマサの足取りは、以前よりも確かだった。春の風が頬を撫でる。昇降口をくぐると、かつてと同じ景色が広がっているはずなのに、どこか少し違って見えた。
教室へ向かう途中、マサは職員室の前で足を止めた。
ふと、ドアが開き、中から坂本先生が出てくる。
「お、マサ。ちょうどよかった」
先生は手に一枚の書類ファイルを持っていた。透明な表紙の向こうに、いくつかの資料が見える。
「これ、お前に預けておくよ。今回の件、記録として残すことになった。もし何かあったときのためにもな」
マサは戸惑いながら、それを受け取った。ファイルの表紙には、「報告書・第三学年不祥事記録」と打たれていた。彼の名前も、目立たない位置に記されている。
「……これ、俺が持ってていいんですか?」
「ああ。お前が最初に声をあげた。その勇気がなかったら、もっとひどいことになってたかもしれない。これは、その証だ」
先生の言葉は、穏やかで、それでいて重かった。
教室に戻ると、何人かのクラスメイトが小さく会釈をしてくれた。以前なら気づきもしなかったその視線に、マサは少しだけ微笑み返す。
席につき、改めてファイルを開く。紙の匂い、印刷された活字。そこには事件の詳細と、学校としての対応、そして——匿名ではあるが、マサの証言も記録されていた。
彼は静かにそれを閉じ、鞄の中にしまった。
もう怖くはなかった。
このファイルに記されたことは、終わった出来事。だが、これを受け止めた自分は、これからのことを選ぶことができる。
マサはゆっくりと前を向く。
窓の外、光が差し込んでいた。
日が傾きはじめた頃、花見の宴もそろそろお開きの雰囲気になっていた。紙コップやお菓子の袋を片付けながら、生徒たちは口々に「また来たいね」「次は夏かな」などと話していた。
そんな中、大地はひとり神社の隅に座り、例のスケッチブックを見つめていた。ふと、彼の表情が曇る。
「先生……ひとつ、話していいすか」
健太が近くに腰を下ろすと、大地はスケッチブックの裏表紙をゆっくりと開いた。そこには、雑誌の切り抜きが丁寧に糊付けされていた。黄色く変色した記事の見出しが、目に飛び込んでくる。
「中学生兄弟、青酸カリを所持か――未解決の家出事件との関連性」
健太は息を呑んだ。
「これ、兄貴が持ってたやつの中に挟まってた。俺、ずっと意味わかんなかった。でも、この前……気になって調べてみたんす。そしたら、五年前、この町で起きた事件のことだった」
記事には、小さく写った少年の後ろ姿。顔は見えないが、その構えた肩の輪郭に、大地は見覚えがあるという。
「兄貴、不登校になってから、どんどん何かに怯えるようになって……最後に言ったんすよ。『あれは俺が拾っちゃいけなかったものだ』って。たぶん――この神社で」
健太は静かに、記事の一部を指差した。
「“神社の賽銭箱付近で、青酸カリの瓶が見つかった”……」
大地はうなずいた。
「兄貴、きっと何かを見たんす。誰かがここで、何かをやってたって。そいつが怖くて、でも誰にも言えなくて、逃げ出すしかなかった……」
風が、ざわりと境内の木々を揺らした。先ほどまでいたフクロウは、いつの間にか姿を消していた。
「先生……もし、俺がこれを追いかけたら、何かに巻き込まれる気がする。でも、やんなきゃって思うんす。兄貴を……連れ戻したいから」
健太はしばらく沈黙し、そしてまっすぐに言った。
「わかった。なら、俺も一緒に行くよ」
大地の目が、かすかに揺れた。
「教師ってのはな、生徒に教えるだけじゃない。一緒に迷うことも、仕事のうちなんだ」
その瞬間、境内の奥――社の裏手から、何かが倒れるような音がした。
二人は顔を見合わせ、静かに立ち上がった。
次なる“秘密の大冒険”が、音もなく彼らに迫っていた。
――神社の影に隠された真実。それは、まだ誰の記憶にも刻まれていない。
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