第三幕 第一場 画学校アトリエにて

 白い廊下。

白い柱の向こうは青空がみえ、西側からぼうぼうと強い風が吹きこんでいる。

目で見た柱の高さは、とても高い。

キリは、自分の背が縮んでいることに気づいた。

自らの手を見る。広げた両の手のひらは柔らかで細い指、子供の手のようだ。

そして白絹のような光沢の、長い衣装を身に着けている。

足下は裸足だが、足裏の冷たい感触はない。

歩いてゆくと、柱の陰で、空を見ている少年の姿が見える。

少年は、ゆるゆるとした黒髪を肩まで垂らし、白くゆったりとしたブラウス姿。

風をはらんだブラウスの背中が、帆の様に膨らんではためいている。



「おまえ、だれ?」



自ら発した声音は、その手と同じく幼いもので驚いた。

少年は、ゆっくりと振り返った。

鼻筋がすっと通って、眉が優美な線を描いている。

ふっくらとした、薔薇の花びらのような唇。

まるで白い陶人形のような、とても美しい顔をしている。

大きな目は黒く長い睫毛によって閉じられている。



「僕は、ここの子だよ」



少年は目を伏せたまま口を開いた。



「おまえみたいな子は知らないよ、あたし」


「みんな、僕のこと、そういうんだ」



少年は顔を逸らしてうつむいた。



「怒ってるの?」


「べつに」


「寂しいの?」


「うん」


「寂しいって思うと、本当に寂しくなるから、止めた方がいいよ」


「だって、本当のことだもの」



少年は首をごろんと回すように振り向き、大きな目を開けた。

赤い瞳。



「きみは、キルステンだろう?」


「そうだよ。 おまえはだれなの?」


「きみはさ、ここの子なのに、僕の名前を知らないの?」



少年は驚くような、なかば軽蔑するような目つきをする。



「僕は・・・」



最後まで聞き終わらぬうちに、キリの長着の袖を強くひく者がいる。



「きいちゃだめ!」



拾ってきた当時の、子供のレイヨールがそこにいた。

潤んだ金色の瞳で、キリを見つめている。



「どうしたの! おまえはここにきちゃだめだろ?」


「だって、キリ様がいなくなっちゃうから」



レイヨールは顔を手で覆って泣きはじめた。



「泣かないでよ。 ここにいるじゃないか」



キリはレイヨールの体を抱きしめると、彼はキリの胴にしがみついてきた。



「どこにも行かないで。 ずっと一緒にいて」


「分かってるよ! あたしたち、いつも一緒だろ。

なんでそんなに泣くんだよ? 甘えん坊!」



姉のように彼をあやす、幼いキリ。

自分の言動に驚きつつも、ごく自然に彼を愛しい存在と思っている。

すると冷ややかな声が振りそそいだ。



「キルステン、もう時間だよ。 きみは僕と行かなきゃいけない。

その子をはなすんだ」



どこへゆくというのだろう。



「ねえ、この子を連れて行っちゃだめ?」


「だめだ」


「ひとりじゃ行けないよ。 この子が泣いちゃうもの」



気の昂りが収まったレイヨールが、キリの手を握って尋ねた。



「彼について行かないで。 彼は、魔王なんだから」


「魔王なの? そんなの知らない」


「キリ様、魔王のお妃になるの? それとも僕と一緒にこの国を統べるの?」



魔王と呼ばれた少年も、いつのまにかレイヨールの脇に立って、片手を差し伸べている。



「選ぶのはきみの自由だよ。 でも、僕は待たされるのは嫌いだよ」


「僕と魔王、どっちを選ぶの?」


「キルステン、はやく決めて」


「え・・・」



形の異なる、二人の手。

ひとりは白くほっそりとした、異様に長い指を持つ手。

もうひとりは浅黒く、指は長いがややふっくらとして堅実そうな手。

二つの手が視界でくるくる回って解け合い、マーブル模様に変わる。

それ見るうちに、なにやらめまいを起こし、視界が暗転する。



*******************

**************************************

*********************************************************



朝。

不思議な薬汁による眠りからキリが目を覚ましたとき、太陽の位置はすでにかなり高くあがっていた。

どうやら夢の直前まで、相当深い眠りに落ちていたようである。



「しまった! 公務が!」



慌てて跳ね起きたが、バランスを崩して寝台から転げ落ち、胸部をしたたかに床に打ち付けるキリ。



「う・・・」



呼吸を圧迫する痛みにしばしキリはうめいた。

しかし、そのまま床に頭を伏せて、くつくつと笑い始めた。



「ああ、情けない。 弛んでいる証拠だ。 変な夢をみたせいかもしれん」



こんなに日が高くなれば、おそらく今頃ジェンセンとギディオンたちは、自分抜きで会議を進めており、それとてもうじき終わる頃だろう。

しかも本日は、午後から来客の予定が入っていた。


そのためキリは会議への参加はあきらめ、昼食までの間、ゆっくりと身支度を整えることに決めた。

キリはいつものように巨大な姿見の前に立ち、服を脱ぎはじめる。

日頃からここで自分の姿を映しながら、手短に筋肉の具合を確かめるのだが、時折不安な思いにかられることがある。

もし鏡に映った自分の体から、筋肉があとかたもなく消え失せていたら。

昔のように華奢でほっそりとした、乙女のそれに戻っていたら。

これまで築いてきたものが、一瞬にして灰燼に帰すことはままある。

それが再生可能なものであれば、何度でも甦らせれば良いのだが、どんなものであっても肉体に関する喪失感たるや、筆舌につくしがたいものがある。


キリは鍛えた筋肉を失うことを、極度に恐れていた。


肩の線、異常なし。二の腕、異常なし。

胸部、厚い筋肉の上にのった、大きくはないが形の良い乳房。

キリは片手でそれを隠し、腹部に力を入れる。

するとキリの胴には、腹筋の縦筋が綺麗にはいった。

満足そうに腹をさすったキリは、今度は長い髪を肩から前に流し、鏡に背を向ける。

背筋に力を入れると、後肩の僧帽筋のラインをはじめ、各部位の筋肉の陰影が美しく浮かび上がる。

そしてその表面に見える、縦一文字の大きな傷。

この傷はキリが将軍職に就く直前の、十二月のある寒い夜に受けたものだ。



*********************************************************

**************************************

*******************



あの頃の記憶がよみがえる・・・血なまぐさい戦いの思い出。

キリの周囲は、内も外も敵だらけであった。


非武装時に外で夜襲を受けたキリは、敵の剣に背後を突かれ、背を大きく斬り裂かれたのだ。

すると今度は脳裏に、その身に触れる暖かい手の感触がよみがえった。



「キリ様、お気をたしかに! しっかりしてください」



キリの血で手指を汚しながら、必死で傷の手当をするレイヨールの姿。

あのとき闇の中、独りで三人の敵に対峙するキリを加勢しにやってきたレイヨールは、キリを刺した敵の胸元を貫き絶命させたあと、地に倒れようとするキリを肩に担いで、攫うようにその場を逃げおおせた。


そして命からがらたどり着いたのは王宮の一室・・・どこであろうか、簡素なしつらえの部屋だった。

ベッドにうつぶせに寝かされたキリは、彼による応急処置を受けながら、部屋の壁に並ぶ書物の暗い色ばかりを眺めていた。

その後ばたばたと、医師と思われる人間が幾人か訪れた。

キリの傷口に、麻酔効果のある薬液を含ませた布が当てられ、効き目が現れたころ、傷の縫合が施された。キリはまな板の上の鯉のように、されるがままになっていたが、それもやがて終わり、胴に大きく包帯が巻き付けられた。

睡眠作用のある薬湯をキリの口に含ませ、医師たちは去って行った。


あたりに満ちる静寂。毛布の中にいながらも、暖炉の熱はなかなか届かない。

凍えるような寒さの中、気を失うように眠りに落ちていったキリは、消え入らんばかりのかすかな意識の片隅で、冷え切った体が大きなぬくもりに包まれるのを感じた。

首すじに微かに、温かい息がかかる。

あまりにも心地よい、その体温に身を預けて、キリの思考は夢の中を彷徨い始めた。

あれはもしかすると、誰かが、いや、彼が自らの体で自分を暖めてくれていたのではないか?

しかし目覚めた時には既に一人きりであったため、真相は知る由もない。



*******************

**************************************

*********************************************************



記憶から今に意識が戻り、ため息をつくキリ。

あの頃、彼はいつもキリの傍らにいた。

危急のときには一番に手を差し伸べ、身を挺して彼女を助けた。

その役目を命じたのはキリであり、幼少から彼をそう仕込んだのもキリだった。

思えばこの体じゅうの傷について、ほとんどの手当は彼によるものだった。

まるで体じゅうに、彼にまつわる記憶が刻まれているようだ。



「レイヨール。 あれのおかげで、私はここまで生きのびているんだな」



キリは鏡の前で裸身をさらしたまま、足下に目を落としてぼそりとつぶやいた。

テーブル上の皿に、小さく輪切りにされた植物の根のようなものが乗っている。キリはそれを口に含んで噛み締めた。苦い味が口中に広がる。

この植物の根は赤色ヒドラチスという、キリが常用している薬草のひとつである。

筋肉の増強効果をもたらすが、同時に子宮を収縮させるなど、臓器への圧迫という、喜ばしからぬ副作用を持つ。

キリは副作用に目をつぶる代わりに、常に運動や戦闘前にはこの植物の根をひとつまみ食していた。この習慣を続けてから、かれこれ十年以上経つ。

これによりキリの肉体は、女性としての機能をほとんど失いかけていた。




*********************************************************



今日のゼフィルは、一日部屋でおとなしくしているつもりでいた。

長椅子に横たわり、足をぶらぶらとさせて、過去の王達の日記を読んでいる。

そばに小さなテーブルを引き寄せてあり、山のように盛られた果物と、彼が自分で調合したハーブ茶が温かな湯気を立てている。



「イグナツ六世、死因は心不全、か」



ぱらぱらと頁をめくる音。



「こういう記録は、おそらくとても多いんだろうな。

ぼくが探しているのは、こういうんじゃないの。

イルフェンがぼくを腹に宿した前後からの記録があれば一番よいのだけど。

ぼくの出生の謎はそのあたりに集中しているはずだから」



ぼやきつつ諦めずに読み進めていたゼフィルも、内容があまりに退屈なので、だんだんと眠気に襲われてきた。本を放り出し、ごろんと仰向けに横たわるゼフィル。足をぱたぱたさせている。



「しかしここの王宮の空気は、不思議だ。

ぼくはなにか暴れたくて、うずうずしてくるよ。

今度はなにをしようかな。

無口なジェンセン王の前で竪琴でも弾いてこようか。

でも、そんなことをしても、なんにも面白いことはないし・・・

本当はあの四人の僧侶を、ひとりずつ殺してゆきたかったのだけれど。

ギディオンには叱られるし、結局彼らは帰ってしまったし。

ああ、つまんない!

退屈しのぎに、誰かにちょっかいをだそうかな」



彼は目を閉じ、ここ数日に出会った人物の顔を一人一人思い浮かべてみた。



「キリ・・・彼女は好きだな。

まず、頑丈だ。 少々のことでは死なないだろう。

それにあの性格も、すごく気に入った。

必死で柔らかい部分を隠そうとしているところが、丸わかりで。

健気なんだろうな。 いずれ全部さらけだしてもらわなくては」



ゼフィルはキリの姿を思い浮かべて、ぼんやりと天井を見上げた。



「ランツァウ・・・あの男は、阿呆に違いないが、はなからこちらを警戒している。

勘が鋭そうだから、罠を仕掛けてもするりと避けそうだ。

おまけに細君が高名な神官だって?

むしろそちらを敵にしたくないな。

神官は第六感で、こちらの腹を探ってくるからやっかいだ。

余計な関わりあいは、僕としても願い下げだよ」


「ツァンダーフィレ・・・はじめはしつこい奴かと思ったけど、案外さっぱりして気のいい男だ。

普段は港町にいるだけあって、ここにどっぷり馴染む人間ではないな。

つながっておけば、いずれいい事があるかもしれない。

旅先で宿くらい提供してくれるだろう。

旅先の知己ほど心強いものはないんだからね」



そして、残るもうひとりの人物。



「レイヨール・・・肉体の性質上、地底人は他人種と混血できないことで有名だ。

仮に何万分の一の確率で生まれ落ちても、大方醜い毛むくじゃらの獣人ばかりだから、生まれてすぐに処分されるのが通例だ。

だから、生きた混血種自体がきわめて稀有なのだけど。

あの男は、どちらの人種にとってもいいとこ取りの、綺麗な混ざり方をしている。

あんなハイブリッドは初めてだ。

あいつは、存在自体がクルベルノート一族の羨望と嫉妬をかきたてるだろう。

そして且つ、キリの犬か。

あ~あ、キリ! きみもやっぱりお姫様だな。

従者の好みがよく分かるよ。何にせよ珍品好きってことだね」



ゼフィルは赤い瞳に妙な光をたたえて、長椅子の上で寝返りをうった。



「あの男、文武ともに相当積み上げているようだけど、ちょっとメンタルが弱そうな印象だ。

縛りあげて、めちゃくちゃに痛めつけてやったら、どんなにか胸がすっとして楽しいだろうな」



それが生来のサディズムによるものかは分からないが、ともかくもそんな空想をしながら、ゼフィルはくすくすと笑った。



「しかし、ちょっかいをだしたくても、いまはまだ、何のきっかけもない。

そうだ、少し王宮を歩き回って、きっかけを拾ってこよう」



ゼフィルはばね人形のように、元気に体を起こして立ち上がると、そっと部屋をあとにした。




ゼフィルが廊下をふわふわと歩き始めると、王宮の階段脇にとても豪華な馬車が止まっているのが見えた。 どうやら誰か、高貴な人物が訪れているらしい。

まもなく馬車の扉が開き、中から三名の女神官が降り立った。

そして最後に、その三名に守られるように、金色の波打つ髪をもつ神官姿の乙女がゆっくりと馬車から姿を現し、外に降り立った。 ゼフィルははっと目をみはった。

全身から光り輝くような、その小さな女主人を中心とする集団は、ゆっくりと王宮の大理石の階段をのぼってゆく。 やがて階段のなかほどまでのぼってきたところで、庭を横切る早馬の影が近づいてきた。ランツァウである。



「アマーリエ? 何をしにきたんだ、帰りなさい! ここに来てはいけないだろ!」



しかし、遠くから聞こえる彼の制止の声もきかず、集団は階段を緩やかにのぼってゆく。

ゼフィルは遠くからその様子を、冷ややかに眺めていた。



「まずい・・・あれはもしや、ランツァウの細君とかいう神官の乙女ではないか?

あんなに小さいのに、全身から発するオーラのまばゆいこと。

まさにご神体だな。 見つからないようにしなきゃ」



すると、階段の上からもうひとりの人物が姿をみせた。キリである。

彼女もまた日を浴びて同じく金の、こちらはまっすぐな髪をきらきらとゆらして階段を駆け下りてくる。



「アマーリエ!」



キリは金色の乙女に駆け寄ると、彼女を抱き寄せてその頬にキスをした。

そして、馬車の傍に馬を止めたランツァウの目の前で、まるで君主が姫君を後宮にさらうように、彼女の体を抱え上げ、さっさと階段を駆け上がってしまった。

付き人の女神官達は、長衣の裾を持ち上げ、慌ててキリのあとを追いかけてゆく。



「ちょっと、キリ様! 俺の妻をどこに連れてゆくんですか!」



大きく遅れをとったランツァウだが、慌てて馬を乗り捨てると、階段を二段ぬかしに駆け上がり、ガチャガチャと鎧を鳴らしてキリ達の後を追いかけていった。



「アマーリエ、久しいな。 来客の知らせが来たので、だれかと思ったら。

これは嬉しい驚きだ。 息災だったか?」



キリは早足で歩きながら、自身が抱きかかえる少女に語りかけた。



「はい、病気もなく、元気でしたわ。 ずっと私、キリ様のことを考えておりましたの」


「おやおや、そんなにそなたに思っていただけていたとは。 誠に光栄なことだな」



大広間に来たところで、ランツァウが追いついてきた。

追いかけながら、相変わらず大声で叫んでいる。



「キリ様ぁ! 困ります! 妻を返して下さい!」



背後から聞こえる部下の大声をきいて、キリは顔をしかめて彼女に耳打ちした。



「アマーリエ、うるさい亭主が来たぞ。 追い払ってもいいか?」


「うふふ、お待ち下さいませ。 あの人、わりと傷つきやすいんですの」



アマーリエはキリの背中越しに、走りよるランツァウに向かって、にこにこと笑顔で手を振った。

ランツァウはやがて追いついたが、鎧を着用したままで階段を駆け上がるなどの運動をしたため、はあはあ息を切らしている。



「アマーリエ、なんで来たんだ。 来るなと言っただろう?」


「僧侶の皆さんが王宮から去られたのは、今朝の時点ですぐに分かりました。

ですから私は、以前お話しした通り、キリ様に会いにまいりましたのよ」


「だからって、こんなに急に・・・俺がキリ様に予定を聞いてみるからと言っただろう? なんで待てねえんだよ」


「おい、ランツァウ! お前の口からそんな話は、一度も聞いていないぞ。

どういうことか説明しろ」



キリは厳しい顔で問いただした。

この二人の前で、当人達の仲介をするつもりがなかったなどとは、ランツァウとしても口が裂けても言えない。



「え? いやその・・・彼女からそんな話を受けたんですけどね、

まだ僧侶達がここにいたもんですから、

彼らのせいで彼女が疲れちまってはいけないと思いましてね、

時期をみていたんです」


「キリ様、うちの人はとても優しいんですの」


「ふふん。そうか、優しいな。しかし怠慢だ」


「え! この俺が怠慢? うそでしょ!」


「あなた、ごめんなさい。 私がおいたをしてしまって。

そのためにキリ様からお目玉を」



アマーリエは目を両手で覆って、しおらしく泣いている様子をみせる。



「いや、いいんだよ、アマーリエ。 俺のことは気にしなくて。

それはそうと、キリ様。 いい加減、妻を下に降ろしてもらえませんかね?」



ランツァウは両手を差し出したが、キリは一向に彼の妻を譲る気配がない。



「これから我らは、奥の部屋でゆっくり語らうのだからな。

お付きのそなた達も、一緒にお茶でもいかがかな?」



女神官達は、うやうやしくお辞儀をした。

キリは踵を返そうとしたが、ランツァウが食い下がる。



「俺も一緒に行きます」


「お前は邪魔だ。 帰れ!」


「邪魔って、ちょっと」


「お前は持ち場に戻れ。 自分の頭の蝿を追え」



キリはくるりと踵を返した。

キリの肩越し、アマーリエはにこにこと、しょげかえる夫に手を振っている。



「あなた、さようなら」


「さようならって、おい・・・」

 


肩を落として、去ってゆくキリの後ろ姿を見つめるランツァウ。

不意にその肩に、背後から手がかかった。



「いかせてやれ」



振り向くとレイヨールが立っていた。



「帰っていたのか」


「ああ。 今ちょうど戻ったばかりだ。 奥方のことは気にするな」


「いや、気になるよ! 困るんだよ、あんな攫われ方は」


「キリ様がお攫いになるんだから、いいだろう。 けちけちするな」


「けちけちって。 お前にそんなこと言われたかねえよ!」



それぞれに思うところがありつつも、キリ達とは反対の方角へ、男二人は揃って歩き始めた。

ランツァウはかんかんに怒っていた。



「ちきしょう、今夜は飲んでやる。

大勢で朝まで飲み明かしてやるぞ!

レイヨール、お前もつきあえ。

俺がけちけちした男でないことを証明してやる」


「分かった、見届けよう。 支度は俺も手伝うよ。

でないと格好がつかない」


 

*********************************************************



レイヨールとランツァウの招集に応えて、その夜、彼らの手ぶらの部隊が総勢五百名ほど迅速に城下に集まった。

レイヨールの配下、エセル川からの引き上げ部隊百名、ランツァウの配下、地方警備の引き上げ部隊百名である。つまりこの酒宴は、彼ら兵士の慰労会という意味合いもあった。

かくしてその大人数が、突如王都で一番大きな酒場を占拠し、大宴会が催されることになった。もちろん主催者はランツァウとレイヨールで、好きなだけ飲み食いできる。

こういう無計画な大盤振る舞いは、主にランツァウの得意とするところであった。

金持ちゆえの、罪のない傍若無人さが窺い知れる。

そしてレイヨールは、彼の采配の不足を補う役目である。

場所の確保を含め、諸々の便宜を図ったのは、すべてレイヨールとその部下たちだった。

まったくレイヨールとは、公私でキリにつかえるのみならず、こうした面倒な同僚に安定した手助けをすることにも慣れていた。



「両将軍に、乾杯!」


「麗しい奥方の健康を祝して・・・うわぁ!」



乾杯の音頭をとろうとして奥方という言葉を漏らした男が、そばの輩に引き倒されて殴られている。 貸し切られた酒場の内部は爆笑の渦と化した。



「馬鹿な奴! 今日この場であんなことを言うなんて。 あれはわざとなのか?」


「わざとに決まっているだろう。 体を張っているな、あいつは。

それより見ろよ、あのランツァウ将軍の顔! 顔から表情が消えている」


「恐ええ! でも、おかしくて吹いちまいそうだ」



真顔の哀れなランツァウを中心に、会場の至る所に笑いの神が宿っているような光景である。そして間もなく、豊満な胸元をのぞかせる美しい給仕の女性や、麗しい歌姫と楽団、様々な露出度の高い衣装を身につけた妖艶な踊り子達がそこに加わり、だんだんと酒宴らしくなってきた。いつの間にか、なにやら怪しい筋の女達も、呼ばれもしないのに大勢加わって、一緒に酒を飲んで楽しんでいる。

そして主催者の耳に届かないところで、彼の部下達は好き放題な話題を愉しんでいた。



「しかしこうなってみると、アマーリエ様は、いつも攫われている方がいいな」


「本当だよな。 毎日が大宴会だ」



一方レイヨールはいつの間にか席を立っており、気配を消して様々なテーブルをひっそり巡り、やがて二階席にたどり着いた。そしてありとあらゆる雑談に耳を傾けていた。

下品な話は問題ない。怪しい人物はいないか、それを気にかけていた。

言動については、両将軍がいるこのような場で、まさか反勢力的な話をする輩はいないに違いないが、酒が人の口を軽く滑らかにする事もよく知っている。

また、紛れ込んでいる人物について、その特定はできないが、見た事のない人物の顔を記憶にとどめておくと、案外その記憶が思わぬところで役にたったりするものだ。

柱にもたれ、杯に口をつけているレイヨールに、近づく人影があった。



「お独りですか、将軍?」



部下のローレンスという男である。

レイヨールとほぼ同等の長身、極めて彫りの深い顔立ちと真っ黒く太い眉をもつ、見るからに勇猛そうな短髪の男。父がイルフェリアの騎士で母がメロア貴族の出身という、こちらは一般的によく見られる、南国風な混血の男である。

レイヨールと彼が二人で並ぶと、異国の兵士がいるようにしかみえない。

レイヨールは、杯を軽く上げて微笑んだ。



「みての通りだ。 独り以外の何者でもない」


「さきほどから様子を眺めていましたが、この宴席は平和なようです。

下品な話には事欠かきませんが、おかしな動きはないようです。

女達の中に他国のスパイがいないか、それが気になりますが」


「そうか。 女の素性は判別がつきにくい。 顔だけ覚えておこう」



レイヨールがさりげなく、会場の人間の言動を見張っていることを、ローレンスは言われずとも承知していた。そして彼の目となって奥まった宴席を酒客として巡り、最後にここへ移ってきたのである。気のきく部下である。

レイヨール直下の部下たちは、なぜかそのような察しの良い者が多かった。



「ところで、おたずねしてもよろしいでしょうか?」



ローレンスが声を低めて尋ねた。



「キリ様とアマーリエ様のことですが。

どういう経緯でこうなったのでしょう?」


「うむ。 原因はたいしたものではない」



レイヨールは杯を空にした。ローレンスは傍のテーブルからワインのボトルを受け取ると、レイヨールの杯にとくとくと注いだ。



「ありがとう・・・奥方は、キリ様によって邸宅から連れてゆかれたのではない。

ご自分の意志で王宮にいらしただけだ。

じつはもともとランツァウに、不穏な予言を漏らしておられ、

それをご自身でキリ様に伝えたがっておられた。

ランツァウはエイドール僧の来ている時期に、奥方を王宮に行かせたくなかったので、彼女の望みを握りつぶすつもりでいた。

その代わりに、俺に依頼がきた」


「なんと」


「お前に、エセル川をせき止めてダムを作るよう、現場の兵士に伝言を頼んだだろう?

あれがその対策の一つとして機能するようなのだ。

奥方曰く、戦が起きるという。

そして大きな水瓶の有無によって、その勝敗が決せられるという事だ。

すまなかった、ローレンス。

あまりに急な事であったので、お前にそれを皆まで言わずにいたよ」


「いいえ。 なにかあるとは気付いていたのです。

でも、教えていただき感謝します。

近いうちに戦が起こるのですね? 厄介だが血が騒ぎますな!」



ローレンスは白い歯をみせて笑った。



「ああ本当に。 どこと、どんな形で勃発するかは分からない。

しかし確実に起きるらしい。 

この上は我らとしても、確実に勝ち且つ味方の死傷者を減らすべく、心して準備せねばな」


「はい。 すべては下ごしらえが命、ですからね」



ローレンスの杯に、今度はレイヨールがワインを注いだ。



「ところで将軍。 最近キリ様とはどんな塩梅ですか?」



すこしからかうような表情で、ローレンスはレイヨールの目を覗き込んだ。



「塩梅? どういうことだ。 言っている意味が分からない」


「お隠しになっても無駄ですよ。

将軍とキリ様が、昔から思い合っていることは、皆が知るところです」


「やめてくれ。 あのお方とは、そもそもの立ち位置が違う」


「はい。 ですが身分、立ち位置云々・・・失礼ながら、今更な話ですよね?」



ローレンスは片方の口角をあげて、苦笑した表情をみせた。



「キリ様はギディオン卿と同じく、そういうのには無頓着なことで有名だ。

あのご出自にも関わらず、なにもかも自由であられて。

しかしそうであっても、キリ様を真に理解し、懐に入り込める男はまずいない。

あなたを除いて。

ここまで連れ添ってきて、そういう流れにならない方が不自然なくらいで。

我々部下たちの期待にも、そろそろ応えていただきたいものです」



「なにを馬鹿なことを言っているんだ。

俺はともかく、キリ様はそんなことを思ってはいないはずだ。

それに、過去にキリ様と接触を図った男達を、お前も覚えているだろう?

皆、気がおかしくなって死んだか、キリ様に殺されている」


「はい。 みんな他国の、貴族の男たちばかりでしたね。

もっとも、あの方の夫君にでもなれば、国王陛下とキリ様に次いで、様々な恩恵や権限が得られますから、ああいう輩にとっては喉から手が出るほど欲しいポジションです。

俺の目には、欲に目が眩みすぎて死んだようにしか見えませんが」


「いや。 たしかに彼らはみな、欲に目が眩んでいた。

しかし、それとは違うと思うのだ。

でなければ彼らの目に、幻覚が見える訳がないだろう」


「あなたは、幻覚が見えておいでで?」


「それはない。 しかし、あのお方の行動を先回りしておくことが多いから、あのお方については、幻覚をみる以前に、常に意識の片隅にある」


「それで、いいのではありませんか?

あなたはきわめて特殊だ。 そのお立場でいながら、誰よりも欲がなさ過ぎる。

多分、褥を共にされても、今よりおかしくなることはないでしょうな」


「ローレンス。 キリ様は王家のお方だ。

二度とそんな、不敬な事を言ってはいけない」


「なぜ?」



彼はうすく笑った。



「そういう型から、足を一歩踏み出して外へでてはいかが。

お互いにとって不幸なことですよ。 少なくとも俺はそう思っています。

驚いたことに、ヘレナも同じことを言っていました」



ヘレナとはある騎士の令嬢で、王宮の女官として長くキリの傍に仕えている。

そしてローレンスの長年の恋人でもある。



「これでお分かりでしょう? 皆が知っていることなんですよ。

ですから、あなたがキリ様に王手をかけたとしても、だれも異論はないと思いますよ。

それに、ここだけの話。 前々から思っていたことですが」



ローレンスがレイヨールに顔を近づけ、彼にしか聞こえないほどの小声ではなしかけた。



「あなたはここに留まるだけのお方ではない。

あなたほどの能力の持ち主、この将軍のお立場で終わるとは全く思えません。

あなたは無自覚かもしれない。

そう、キリ様に憧れているうちは、てんで駄目です。

ですから、あなたはキリ様を早いところ手に入れたほうがよい。

あのお方を合法的に手に入れて、それを乗り越えるべきだ。

キリ様という高い山の向こうに、

あなたしか切り開けない、大きな世界があるように思えるんですよ」



レイヨールはいらいらとローレンスの肩を押しやり、小声で叱咤した。



「言わせておけば、なんて大それたことを。 口を慎め!

お前は酔っぱらいすぎている。

それに俺のことより、お前とヘレナはどうなのだ?」


「あ、一応もう決めているんですよ。

あなたがキリ様と一緒になったら結婚しようかと。

そうなったら一番に教えて下さい」



あっさりと答えたローレンスに対し、レイヨールは首を横に大きく振った。



「至極迷惑な話だ。 そんな決まりを設けるなら、いつまでたっても所帯を持つことはできないぞ。 今すぐ改めるべきだ」


「いえいえ、これは我らが勝手に決めていることですから、ご忠告には感謝しますが、心配は無用です。

あれ? 将軍、お声がかかっていますよ。 ほら」



階下の大テーブルから、ランツァウがレイヨールの名を呼んでいた。

ローレンスは意味ありげなまなざしを投げかけて一礼した後、レイヨールの前から姿を消した。



*******************



居酒屋1階、大テーブルの中央に座すランツァウの周囲には大勢の男たちが詰めかけていた。



「次はどいつだ?」


「はい、つぎは俺のこれを見てください」



ランツァウのそばに来た男の一人は、懐中から大事そうに布袋をとりだし、テーブルにその中身を広げた。繊細な光を放つ、美しい金の腕飾り。



「ほお・・・これはどこで?」


「はい。 これは先週、質屋でみつけたものなんです。

もとの持ち主がさる高貴なご婦人だったとかいうんで。

そんな話もあったんで少し奮発して買ったんですが、

いいものなら嫁に、結婚記念日に贈りたいと思っているんですよ」



事情を聞きながら、じっと宝飾品を見つめるランツァウ。

その姿をかたずをのんで見守る男たち。



「これは・・・水だな」


「水?」


「ああ、水。 溺死しているんだよ、前の持ち主。

質屋に持ってきたのは、その侍女かだれかだな、そんなのが見える」



真っ青な顔で立ち尽くす男。周囲に大きなどよめきが起きる。



「じゃ、じゃあ俺は・・・買っちゃいけないものに大金をはたいちまったってことですか」


「いや、まて。 なんとかなるぞ」



手をかざして制止するランツァウ。



「俺の家の庭に噴水があるだろう。

あれは、白い花崗岩とその砂利でつくられてるが、あそこの水は霊水なんだ。

あの噴水の水に半日ほど浸しておけば、前の持ち主の魂がそこから抜けて浄化される」



「ええ! アマーリエ神殿の噴水ですか?」


「ああ、半日浸して浄化させてから、白色の包みに詰めて贈るといいだろう。

素材はなんでもいい、白色が大事だ」


「ありがとうございます、将軍!

任期が終わったら、すぐにおじゃましにゆきます!」



嬉々として喜ぶ男。よかったな、と笑いあい、その肩をたたく仲間たち。

ランツァウがこんな集まりの中で酒を飲むと、このように決まって金品の鑑定会が開かれるのだった。部下たちはそんなランツァウの霊的鑑定を、半分面白がり、半分真剣に耳を傾けるのが常だった。座の余興としては音楽に次いでおおいに賑わう。



「レイヨールはどこだ? 俺の相棒は。あいつはいいお宝を持ってるんだぜ」



人垣がすっと開かれ、レイヨールが姿をみせた。両手を広げて見せる。



「お待たせ。 俺はこの通り何も持っていないぞ」


「おまえは本当に良いやつだが、そこだけは噓つきだぞ、レイヨール」


「嘘じゃないさ。 俺が高貴な出身ではないのは知ってるだろ。

そんな財宝と呼べるものは、俺の持ち物にはない」


「いやいや、俺にはわかってるんだ。 

お前は大切なものを、ここにいつも隠し持っている」



ランツァウは、自身の胸にこぶしをこんこんとあてた。

そこに部下のおはやしがつく。



「なるほど、わかりますとも。 その胸の内には、つまりキリ様が・・・」


「ローレンス、やめろ!」



レイヨールが短くたしなめる目の先には、腕組みをして先ほどのローレンスが壁にもたれかかっている。周囲に明るい笑いが起こる。



「キリ様はおっかないが、レイヨール卿がおられるから安心ですな」


「そうですよ。 いつもレイヨール卿が、キリ様を慰めておいでなのですから」


「どうしてそんな話になるんだ! 根も葉もないことを言わないでくれ!」



頬を赤らめて狼狽するレイヨール。



「みんな、大問題だぞ! 口を慎め。

それより今、ここは宝物の鑑定会だろう?

宝物の話をするべきだ」


「俺はな、レイヨール。 お前がここに持ってきている宝物が見えるんだよ。

だからそのことを知りたいんだよ」


「だから、俺はなにも持っていないよ、ランツァウ」


「う~ん、わかった。 

まあお前の宝物は、じきに皆の前で明らかになるだろうから、今のところは、なにも持ち歩いていないことにしよう。

ほかに何か持ってきている奴はいるか?」



一座を見渡すランツァウ。



「はい、俺の指輪をみてください」



すぐにあらたな鑑定希望者が姿を現した。



*******************



そして明け方の会計の段になり、レイヨールとランツァウはともに驚いた。



「はい、ですからもうお代はすべて頂戴していますので、

これ以上はいただけません。 サインは結構でございます」



店主は二人に、特にランツァウに対して、済まなそうな顔で頭を下げた。

ランツァウは恐ろしげな顔で店主に食って掛かる。



「なに言ってんだ、おやじ。 この宴席は俺が企画したんだぞ。

よそから変な金を受け取ってんじゃねえよ!」



「お気持ちは十分に分かります、はい。

ですがあの、断れない筋からのお代とでも申しましょうか。

ですからお受け取りできません」



レイヨールも不審に思い、そのやりとりに口をはさんだ。



「誰から受け取ったのか、教えてくれないか?

俺たちの面子が潰れるかどうかはともかく、

これだけの大金を肩代わりされてしまうと、とても気持ちが悪いのだ」


「いえ、あのう・・・秘密にと」


「誰だか言えよ、おやじ! ぶん殴るぞ!」


「なにか、証書などはないだろうか。 見せてくれ」



店主はおどおどしながら、奥から証書を持ってきた。

小さな紙片に書かれた三十万ゲルトの数字。それだけである。



「サインもねえ、数字だけ。 これだけじゃ判別がつかねえよ」



ランツァウはぶつぶつ文句を言い、それをレイヨールに渡した。



「あ・・・」



レイヨールは渡された証書の数字を一目見て、顔をしかめた。

ランツァウの肩をなだめるように叩く。



「諦めよう。 ここは、おとなしくご馳走になるんだ。

ご主人、世話になった。 これはお返しする」



そして証書を渡し、ランツァウの腕を引っ張って外に連れ出した。



「なんだよ、レイヨール。 誰だか分かったのか?」


「お前こそ分からないか? あの癖のある、右肩あがりの字」


「分かんねえよ」


「キリ様の字だ。

国印がないということは多分、あのお方のポケットマネーだ。

俺たちは、キリ様に奢られたんだよ」



*********************************************************



宴は解散し、ランツァウと別れたレイヨールは、王都から少し離れたシーファカウリという町にある大きな邸宅を訪問した。解放された門からは、昼前から幾人もの若者が出入りしている。



「あ! レイヨール卿がいらした!」



窓から若者が声を上げた。

レイヨールは馬上から、片手を上げて挨拶した。



「御機嫌よう。 画伯はおられますか?」


「はい、いま皆でお茶を飲んでいるところです。 どうぞお入り下さい」



レイヨールは厩番に自身の栗毛の馬を預けて、中に入って行った。

若者が出入りする、活気のある屋敷。ここは私設の画学校であった。

入ってすぐ正面の大部屋に招かれた彼は、若者に囲まれて奥に座る、恰幅の良い老人と対面した。白髪と顎髭を長く伸ばし、肌艶のよい、見るからにおおらかそうな老人である。周りには若者ばかり二十名ほどと、白いカンバスの乗せられた画架が、様々な角度で立ち並んでいる。



「ご無沙汰しております、クーゲルバッハ先生」


「レイヨール卿、久しぶりじゃな」



老人はバリトンの声で笑った。



*********************************************************

**************************************

*******************




レイヨールの思い出・・・

彼らの出会いは、およそ十年ほど前にさかのぼる。



「こんなもの破り捨ててやる!」



キリの怒声とともに、王宮の一室から閉め出されたこの老人の姿を、レイヨールが目撃したのがきっかけであった。

老人は王宮の廊下を一人、背をかがめてすごすごと歩いていた。

さも大事そうに、小さな四角い包みを胸元に抱えている。



「どうされたのですか、ご老人?」



あまりに意気消沈したその背中をみて不憫に思ったレイヨールは、老人を自室へ招き入れて茶をすすめた。

きけば老人はクーゲルバッハという、イルフェリアでもっとも高名な画家のひとりであった。年若い頃からこれまで、王侯の肖像画や宮殿の壁画をはじめ、数多くの大作を描き続けてきた彼は、長年ここの宮廷画家を務めていた。

ところが今回描いた作品が、召し上げになるどころかキリの逆鱗に触れ、しばらくの間、王宮への出入りを禁じられたというのだ。



「これです」



老人が大事そうに抱えていた包みをひもといた。

中から姿を見せた作品を一目見て、レイヨールは心を奪われてしまった。

それはキリの、昔の姿を描いた肖像画であった。

それも甲冑ではない、女性の服、肩を見せた白い衣装を身にまとっている。



「お顔はあのお方の若かりし頃です。

モデルの女性にドレスを着せて立たせ、キリ様のお顔と組み合わせました」



老人の話によると、キリの顔と華奢な体つきは十代の、初陣したての頃の姿であるという。

修羅の道へ足を踏み入れる前のキリの姿が、まさかこんなにたおやかで愛らしかったとは。

自分の知らないキリの姿と画家の空想が一つとなったこの作品を見て、レイヨールはどうしてもこれを手に入れたくなった。



「いくらでこれを売っていただけますか?」


「値段など・・・しかし、側近のあなたがこの絵を持っていると分かれば、一大事ですよ?そんな危険を冒すのですか、レイヨール卿?」


「構いません。 俺の部屋を詮索する者など、誰もいませんから」



レイヨールは、自ら老人を邸宅まで馬で送り、そこで楽しいひとときをすごした。

画学校に集まる弟子達を紹介され、年の近い彼らと夜遅くまで語り合ったのである。

キリに拾われ王宮へ連れてこられたレイヨールが、はじめて自分だけの世界と、騎士仲間や部下ではない、純粋な友人達を得た。

邸宅を後にした彼は、例の絵を大事に、自室の奥深くに保管した。



*******************

**************************************

*********************************************************



それからというもの、レイヨールはことあるごとにこの老人、クーゲルバッハ画伯の邸宅を訪ねては、彼自身の世界を楽しんでいた。


また、これは思わぬ副産物であるが、レイヨールは画伯から絵の才能を見いだされていた。

元々父親が地底の金工職人であり、父の作った金工作品を数多く目にしていたせいか、美術作品におけるバランスや色彩感覚が、人より優れていたのである。

彼は画伯から画架とカンバスを借り、ここへ来るたびに画家のまねごとをさせてもらっていた。描きかけの絵も、数枚このアトリエに保管されている。



そして今日もその絵のひとつを取り出し、ほんの少し手を加えて帰るつもりであった。


瑠璃、アズライト、マラカイト。緑青、辰砂、貝の殻・・・

多くの美しい色を生み出す岩石や素材を砕き、すりつぶし、色とりどりの粉にする作業は、彼にとって喜びとともに、心を落ち着ける瞑想のようなものであった。

続いて蝋燭の上に三脚を乗せ、ことことと深皿のなかの展色材、膠を溶かしている。

その溶け加減をみながら、レイヨールはティーカップに口を付けた。



「どうだね、レイヨール卿。そなたの女神とは、どんな塩梅かね?」



そなたの女神・・・・・・キリのことである。

図らずもクーゲルバッハは、宴でのローレンスとほぼ同じ事を彼に尋ねた。



「塩梅、ですか? まあまあです。 先日は頬をはたかれましたが」



小皿にとった溶けた膠と顔料の粉をへらで混ぜながら、レイヨールは苦笑した。

良く混ざった絵の具を、今度は細筆の先に丹念に含ませ、カンバスに線を描きだす。

美しいピンクの濃淡を持つ、薔薇の花びらがカンバスに現れた。



「まったく、ひどいのう・・・相変わらず荒馬のような気性のお方じゃ、キリ様は」


「いえ、良いんです。 キリ様は昔からそういう方ですから。

でないとあの方の心中で、ぐるぐるととぐろを巻く、蛇が培われてしまうのですよ」


「なんと。 キリ様の心の主治医は、そなたであったとは。

あのお方は、得難い理解者であるそなたを、もっと大切にするべきだ」



天井に窓をもつ広い空間に、画学生たちの明るい笑い声がこだましている。

金色の光がさんさんと注がれるこのアトリエでは、どんな暗い出来事も明るいものに変化する、そんな魔力に満ちているようだ。




*******************



レイヨールのそばに、白い羽衣のような衣装を着た男性が近づいてきた。

長い黒髪を背に垂らし、柔和で中性的な顔立ちに細い目元。陶器のような白い肌を持つが、レイヨールよりはるかに年配だという。その手には極めて細長い人参を持っている。



「御機嫌よう、レイヨール卿」



クーゲルバッハ邸の一室に居を構え、アトリエでウルターツ絵画の師範を務めている、ハオラン師という男だった。 レイヨールが彼に師事してから、すでに三年は経過している。



「ハオラン先生、お元気でしたか」


「もちろんです。 畑の野菜のおかげで、すこぶる元気ですよ」



カウンターテノールの声・・・ハオラン師は歌うようにそう言い、手の中の人参を食みながら、画架の脇に伏せて立てかけられた描きかけのデッサン画をのぞき込む。



「この下描きは、なんだかよく分かりませんね。 何を描くつもりですか?」


「それが、まだ決めかねているのです」



レイヨールはうすく微笑んだ。

しかし彼の心中、描くものは決まっていた。

白をベースに、キリの今の姿を描きたい。これはその習作である。

技法はイルフェリアで盛んな油彩ではなく、ハオラン師の得意とするウルターツ絵画をベースに考えていた。


繊細な白絹を、板に貼りこみ、背景に金箔を貼り、そこに絵の具を。

貼った金が絵の具を弾かぬよう、定着液を引き塗る作業をはじめ、この異国の技法は実際、様々な作業が付きまとうのだが、そういった下処理の過程も、彼にとっては楽しくてたまらなかった。


そうして頭の中で構想は組み上がりつつあるものの、理想の金箔がなかなか手に入らない。せいぜい時折、市場で金粉が手に入るのみ。

彼はしばし、父が鍛冶場で働く姿を想像する。

見た事もない光景であるが、そこで父の手によって金の塊が、美しい花びらに、若葉に、優美な渦巻き模様などに変わってゆく様を。



『あの人種が地上に住処を得て、その金工品と優れた技術が白日のもとにさらされるならば、それと引き換えに世界中の富が手に入るはずだ』



クーゲルバッハの持論である。それほどまでに、これまで歴代の王族を魅了してきたクルベルノートの金工品。

すべての王族の例に漏れずキリですら、クルベルノートの武器が欲しいとかねてから願っていることを、レイヨールは知っていた。

その彼らが作り上げるもののなかに、薄く広く延ばされた金箔はないだろうか。

ふうっと息を吹きかければ、舞い上がってしまうような、それほど薄い金の膜。

その膜を割れないようにそっと、滑らかな画面にのせてゆく・・・

レイヨールは花を描きながら夢想に耽った。



*******************



美しくも楽しい時間は、瞬く間に過ぎてゆく。

日も傾き、リーゼンホーフ宮へ戻る時間となった。



「またいつでも、来たまえよ。

絵の具が乾かぬうちに会えたらよいのだが、それも難しかろう。 達者でな。

そなたの女神とうまく事が運ぶよう、祈っておるよ」


「はは・・・ありがとうございます。 

クーゲルバッハ先生も、ハオラン先生も、お体に気をつけてお過ごし下さい」


「レイヨール卿、次にここへ来るときは、事前におしえてくださいね。

人参クッキーを焼いておいてあげます」


「ぜひいただきたいので、次はそうします。 またお会いしましょう。 さようなら!」


「さようなら!」



橙色に輝く夕の陽射しの中、レイヨールの栗毛の馬は駆け去って行った。

彼の絵画の完成は、いつになるのだろうか。

それはキリとレイヨール、互いの思いの行方の如く、不確かなものであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る