第5話 風が触れた日
朝の空気は、いつもより澄んでいた。
乾いた土と湿った苔の匂いが混じる。微かに風の音。軒先に吊るした薬草が揺れて、乾いた葉の擦れる音が耳に心地よく響いていた。
湯を沸かす薪の爆ぜる音と、白い蒸気の立ち上る様をぼんやりと眺めながら、私は椅子にもたれていた。今日も変わらない一日が始まる――はずだった。
けれど、その“いつも”を少しだけ歪める存在が、今、扉の向こうにいる。
私は視線を上げる。
木製の扉の前で、あの少女――リィナが立ち尽くしていた。
不安げに扉へ手を伸ばしては引っ込め、開けることができないでいる。肩がかすかに震えていた。
「……出たいのかい?」
私の声に、リィナはぴくりと肩を揺らし、こちらを振り返った。
表情には驚きと戸惑い、そして――少しの期待。
「……うん。でも、怖いの」
「何が?」
「全部」
たったひとことだった。けれど、それは彼女の今をすべて表していた。
名前も記憶もないまま、目覚めた世界。
知らない場所、知らない人間、自分が誰なのかもわからない。
それでも彼女は扉の前に立っていた。世界に触れたいという、恐れと並び立つ小さな“渇望”があった。
私は立ち上がり、静かに歩いて、彼女の隣に立った。
「今日は風が穏やかだよ。山の獣もまだ眠ってる。心配しなくていい。踏み出せば、きっと大丈夫さ」
それは安易な慰めだったかもしれない。でも、誰かが言ってやらなきゃいけない言葉だった。
私は扉に手をかける。木が軋み、光が差し込んだ。
春と初夏の間にある、涼やかな日差し。冷たすぎず、熱すぎない、風の匂い。
リィナの髪がそよぐ。目を細め、世界を吸い込むようにその場に立ち尽くしていた。
一歩、そしてもう一歩――彼女は躊躇いながらも、外に足を踏み出した。
その様子を、私は黙って見つめていた。
彼女の小さな足音が、乾いた土の上を踏む音になった。
朝露の残る葉の上を歩き、遠くで小鳥のさえずりが響く。
リィナは、小さな青い花の群生の前でしゃがみ込んだ。
手は触れず、ただじっと見ている。その横顔が妙に静かだった。
「これは……きれい」
ようやくこぼれた言葉。
心からの声だった。
私は隣に腰を下ろし、目を細めた。
「その花は“エルカ”。春先にだけ咲く花だよ。日が強くなれば枯れてしまう。けど、強い匂いを放って虫を寄せつける。薬になるんだ」
「かわいそう」
リィナはつぶやいた。
「せっかく咲いたのに、摘まれちゃうんだ……」
私は少しだけ微笑んだ。
「摘まれて、薬になる。それで誰かが生きられる。――そういう意味では、この花は、自分の命の意味をちゃんと知ってる」
リィナは黙っていた。
けれどその目は、花を越えて、世界を見ようとしていた。
**
私はといえば、彼女の横顔を見つめながら、遠い記憶に意識が沈んでいた。
かつて、この場所に立ち止まった者たちの顔が浮かぶ。
初めて花を見て微笑んだ者、涙をこぼした者、花を摘んで戻らなかった者――
何年も前のことだ。顔も、名前も、ほとんど思い出せない。
ただ、別れの時の背中だけが鮮明に脳裏に焼きついている。
私は、何度も何度も失ってきた。
言葉にしないまま消えていった人々。
信じた想いが裏切りに変わる瞬間。
踏みにじられた善意と、覆される覚悟。
そして、今ここにいる私は、そのすべてを見てきた“薬師”でしかない。
**
「ねえ、薬師さん」
リィナがぽつりと呟いた。
「人って……どうして名前を持つの?」
不意の問いだった。
私は少し黙ってから、木の枝を一本拾い、土の上に名前を書いた。
「名前は“在る”という証さ。誰かがそう呼べば、君はそこにいる。たとえ記憶を失っていても、名前があれば“今の君”として存在できる」
リィナはその土の文字を見つめていた。
そしてゆっくりと、自分の胸に手を当てた。
「“リィナ”……私、本当にその名前でいいのかな」
「君が望めば、それでいい。無理に過去を思い出すことなんてない。
過去がすべてじゃない。今とこれからの方が、大事なこともある」
リィナは頷き、もう一度空を見上げた。
風が頬を撫でる。枝葉が揺れる音。
小屋の裏手の川が、ささやくように流れる音がする。
「ここは、静かだね」
「このあたりじゃ、誰も来ないからね。……必要とされなければ、訪れる者もいない」
そう、それはまるで、私自身のようだと思った。
かつては、幾つもの地で必要とされ、恐れられ、求められたこともあった。
けれど、今となってはそれらは全て消えた。伝わることもない。ただ風だけが知っている。
**
日が高くなってきた。
私はそろそろ戻ろうと促したが、リィナは花の前で立ち止まっていた。
「ねえ、薬師さん」
「ん?」
「いつか、この花が全部枯れたら……どうなるの?」
「また来年咲くよ。ちゃんと、地に残っていればね」
「そっか……ちゃんと残ってれば」
その言葉が、妙に重たく響いた。
私は何も言えず、ただ彼女の背中を見つめていた。
たった一つ、心の中で祈る。
この子の手だけは、二度と離れないようにと。
けれどその祈りが届くと信じるほど、私はもう無邪気ではなかった。
それでも。
今日は、いい風が吹いていた。
それだけは、確かだった。
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