第4話 夢の檻

少女は、夢を見ていた。

目を閉じたまま、しかし意識は沈まず、浮かぶでもなく――ただ、そこに在るという不思議な場所に、ただ立ち尽くしていた。


夜と朝の隙間、言葉と沈黙の谷間。

体は眠っていても、心は決して安らいではいない。

呼吸のたびに、音にならない声が耳を打つ。


“――――”


最初に届いたのは声ではなかった。

音でもなく、色でもなく、だが確かにそれは語りかけてきた。


脳の奥に直接刻まれるような衝撃。

皮膚の裏を逆なでるような光の感触。

心臓の裏側で、何かが目を覚ました。


「……あ……」


言葉にならない吐息が漏れた。

発せられたものではなく、湧き上がったもの。

その震えは、遠い記憶の海から呼び戻された波音のように、少女を包み込む。


――視界が軋んだ。

目は閉じているのに、何かが見える。

だがそれは夢ではない。風景でもない。

それは……記憶だった。


焦土と化した村の跡。

崩れた塔と、血に濡れた風。

空は裂け、名もなき存在がそこから這い出してくる。


「……人は、過ちを繰り返す」


それは誰の声でもなかった。

ただ、そう在ったという感覚が少女の中を通り抜けていく。


映る光景は、過去の出来事。

この地に来るずっと前、どこかで見たはずのない映像。

それは誰かが大切にしていた記憶だった。


命を救おうとした。

警告を伝えようとした。

誠意を尽くし、信を預け、それでも――裏切られた。


火は一夜で広がり、全てを焼き払った。

救ったはずの人々が、怯えた瞳で刃を振るった。

理解できないものへの恐怖。

異なるものへの拒絶。


その果てに在ったのは、孤独と焼けた灰だけだった。


なぜ、それでも人を選ぶ?


それは少女への問いではなかった。

もっとずっと前から繰り返されてきた問い。

この世界で、誰よりも長く歩き続けた者の心に、深く刻まれた呪文のような問いかけだった。


少女の中で、何かが揺れる。

それは他人の記憶ではない。

まるで、自分の魂のどこかに刻まれていたかのような――そんな感覚。


鏡が軋む音がした。

心の最も奥深くで、静かに閉ざされていた扉がきしむ。

そこにあるのは、砕けた破片。

ひとつに繋がることのない、欠けた言葉たち。


そして、ひとつの声が――叫んだ。


“■■■”


それは言葉ではなかった。

意味を成さない、だが意味を越えて突き刺さる音。

その響きが、世界を貫いた。


少女の心が震えた。

その音は、誰かの名前だった。

けれどその名は、この世界には存在しない。

あるいは、遥か昔に忘れ去られた存在の響き。


そして、夢の中にひとつの眼が開いた。


“―――”


次の瞬間、すべてが崩れた。


少女は飛び起きた。

汗に濡れ、肩で激しく息をしながら。

だが目に映る世界は現実に戻っていた。

小屋の天井、草の香り、冷たい風。


けれど胸の奥にはまだ、あの音が残っていた。

言葉にならない、名のような、祈りのような、呪いのようなものが。


少女は、夢の中で何かを見ていた。

けれどそれは目覚めと共に霧のように溶けていく。

ただ、胸の奥だけが冷たく震えていた。


見知らぬ天井、干された薬草の匂い。

古びた木の小屋。

自分がどこにいて、なぜここにいるのかもわからない。


そのとき、扉が軋んで開いた。


入ってきたのは、白銀の髪を背で編み上げた少女だった。

淡い、しかし深みのある灰がかった琥珀色の瞳が、静かにこちらを見つめている。

年若い少女のように見えるが――纏う空気は異様に落ち着いていて、何か奥深いものを感じさせた。


彼女は戸口に立ち、目を細めて静かに言った。


「……目が覚めたようだね」


声は柔らかく、どこか遠い響きをしていた。


少女は身を起こしながら、警戒と困惑の入り混じった視線を向けた。

状況がまったく飲み込めていない。


「……ここ、は……?」


白銀の少女は、わずかに肩をすくめて答える。


「山の麓の古い小屋さ。昔は猟師が使っていたらしいけど、今は私の薬草置き場になってる」


「あなた……は?」


戸惑いを隠しきれずに少女が尋ねると、白銀の少女は目を伏せて笑った。


「私は――ただの薬師だよ。しがない、一人暮らしのね。

名乗るほどの者じゃない。けど、まあ……人並みに薬は作れる」


その笑みは、どこか演技じみているようで、それでも心のどこかに届いてくる温度があった。


少女は自分の胸に手を当てる。

脈は穏やかになっているが、心はまだ揺れていた。


「……私、名前も思い出せないの。何も、わからなくて」


薬師は、一瞬だけ灰がかった琥珀の瞳を細めた。

そのまなざしに、深い記憶の底に沈んだ影のような、哀しみの色が滲む。


「そうか。じゃあ、ひとつ名前を贈ろうか」


「……え?」


「私が勝手に呼ぶのも何だからさ。君が嫌じゃなければ……リィナってのは、どうだろう」


「リィナ……」


口にした瞬間、不思議な熱が胸に広がった。

それは空白だった自分の中に、小さな芯が灯ったような感覚だった。


「気に入った?」


「……うん」


「じゃあ、今日から君はリィナ。

私は薬師で十分さ。それ以上の名は、必要ない」


言葉にした瞬間、自分の内側にほんの僅かだが軋むような音が響いた。

あの名を名乗らなくなって、どれほどの時が過ぎただろう――


だが、それを表に出すほど未熟ではない。

私はもう、そんな段階にいない。


リィナは、彼女の目を見上げて言った。


「薬師さん……ありがとう」


薬師は微笑んだ。

その笑みは、いくつもの別れと沈黙を重ねてきた者だけが持つ、静かな色をしていた。


リィナはまだ知らない。

この薬師が、どれほどの時間を生き、どれほどの名を捨て、どれほどの絶望を乗り越えてきたのかを。

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