第6話 夜明けより昏き

たった一つ、心の中で祈る。

この子の手だけは、二度と離れないようにと。

けれどその祈りが届くと信じるほど、私はもう無邪気ではなかった。


それでも。

今日は、いい風が吹いていた。

それだけは、確かだった。


**


夕暮れが迫る頃、小屋の周囲は影を深めていた。

リィナは小さな藁籠を抱えていた。中には乾かしたばかりのエルカの花。香りは少しだけ和らぎ、ほのかに甘い香気を放っている。


「ねえ、これって……どうやって薬になるの?」


夕日の逆光に照らされながら、リィナが尋ねた。

声は軽やかだったが、その奥にあるものは慎重で、真剣だった。

彼女は、ただぼんやりと日を過ごしているわけではない。世界の形に触れようとしている。自分の“今”を繋ぎとめようとしている。


私は、軒先の作業台に彼女を促し、花を広げた。

乾いた花弁を慎重に摘み、陶器のすり鉢に移す。すりこ木を握る私の手の動きに、リィナは黙って見入っていた。


「砕いて、煮て、灰を混ぜて、酒に漬ける。毒を抜いて、薬効を引き出すには手順がいる。でも――」


私は彼女の方を見た。


「一番大事なのは、“どんな痛みを癒したいか”ってことだよ。体だけじゃない。心の方もね」


リィナは目を丸くした。


「薬って……心も治せるの?」


「薬が、じゃないさ。薬に“込めた想い”が、届くこともあるってだけ。昔、とある王国では、薬師に“祈り人”という別名がついていたくらいだ」


「祈り……」


リィナは静かに呟き、その響きを自分の中で確かめるようにしていた。


**


夜が来た。

空は群青に染まり、遠い星が瞬いていた。

火を焚き、薪のはぜる音と共に、小屋の中にぬくもりが戻ってくる。


私は帳を閉め、湯を注いだ碗をリィナに渡した。温めた薬草茶。身体を芯から癒す、静かな夜の儀式。


「……あのね」


リィナがぽつりと口を開いた。


「今日は、不思議だった。世界が、すごく優しくて、でも……どこかでずっと、見られてる気がした」


「見られてる?」


「ううん……違うの。見られてるっていうか、“感じてる”っていうか……」


言葉を選びながら、彼女はうつむいた。


「誰かが……わたしを、ずっと探してるような気がしたの」


私はその言葉に、微かに眉を寄せた。

けれど、すぐには答えなかった。


彼女の“魂”には、やはり何かがある。

この世界に属していない“異質”の存在。それは私が初めて見た瞬間から、確信していた。


目を閉じ、思考を巡らせる。


彼女は、どこから来たのか。

なぜ、この地に倒れていたのか。

なぜ記憶を持たず、なぜ“言葉にならない何か”を引き連れているのか。


彼女の背後にあるものが、もし――かつて私が敵対した“神”や“古き魔種”に繋がっているのだとしたら。


私は、再び闇に踏み込むことになる。


**


その夜、私は眠れなかった。


外は風が強まり、木々の枝を鳴らしていた。

何かが近づいている。――そんな感覚があった。


静かに小屋を出る。

星のない空。森のざわめき。

深い何かが、確かにこの地に目を向けている気配。


「……まだ、だ」


思わず呟く。

本格的な“兆し”は現れていない。けれど、遠くから何かが波紋のように忍び寄っている。


私は胸元の鏡片に触れた。

それは、今や使う者のいなくなった“術式”の欠片。

ただのガラクタだと、人は言うかもしれない。


けれど――私は知っている。

これは、彼らが恐れ、忌み嫌い、そして滅ぼしたもの。


鏡。それは“真実”を映すもの。

そして、決して見たくなかったものすら、暴き出すもの。


私はこの身に宿る呪いとともに、数えきれぬ運命を壊してきた。


だからこそ――

この少女を、同じ結末へは連れていかない。




翌朝。

風は止み、静かな陽射しが森を照らしていた。


「おはよう」


リィナの声が、いつもより少し明るかった。


「夢、見たの。……何も覚えてないけど、すごく綺麗だった」

「それはいい夢だったってことさ」

私は笑った。

けれどその笑みは、どこか自分でも偽りのように感じた。


この子の夢が、未来の悪夢とならないことを願いながら――


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