第3話 進まない時間
さっきから何度も時計をみているのに、一向に時間は進まない。
正確に時を刻むはずの大きな柱時計は、もしかしたら、私の人生の残りの時間を、けっこう延長してくれているのだろうか。
実家に帰るために、朝早い列車に乗ろうと駅までやってきた。せっかちな性格のせいで、もう40分以上、駅前の待合のベンチで、時間を潰している。
コーヒーショップにでも入ればいいものの、長く居座ると、席を占領していると噂される様で落ち着かず、こうしてぼんやり時計を見ながら過ごしている。
駅の待ち合いのテレビで久しぶりに見た朝のニュースは、けして誰もが幸せだとは思えない内容ばかりだった。世の中は、仕事をするよりも、投資してお金を増やすほうが主流になってきたのかな。
人の顔を見えない様な商売が、当たり前になってきた。
顔を黒くしながらも、出荷に間に合う様に必死で牛の搾乳をしている両親の姿が、なんだかとても悲しく思えた。
私がやっている看護師という仕事だって、そのうち優秀なロボットが取って代わる時代がくる。
余計なお節介を望まなくなってきた世の中は、母親という職業だって、いつかは必要とされなくなってしまうのかもしれない。
自分が生きている間には、そうはならないだろうと信じて疑わないけれど、20年前には、こんな世の中になっているだなんて、誰も想像していなかっただろう。
ガタゴトと音を立てる列車に乗ると、赤ちゃんをあやす様な心地よい揺れが、凪を眠りに誘った。到着までは4時間以上掛かるんだし、このまま眠ってしまおうかと思えば思うほど、眠りに落ちていく恐怖が自分の身体を揺すっている。
大丈夫だよ。どうせ終点なんだし。
凪はそう思い、目を閉じた。
「凪!こっち。」
駅には両親が迎えにきていた。
「今日は泊まっていくんでしょう?」
「ううん。明日は仕事だから、夜行バスで帰る。」
「なんでよ。せっかく来るから、凪の好きなものたくさん用意したのに。」
「お兄ちゃんのお嫁さんに、たくさん食べてもらったらいいでしょう。」
「お母さん、少し苦手なの。都会から興味本位で、田舎にくる女の人って。」
「だってお兄ちゃんが選んだ人なんでしょう?それに、家が酪農やってるって知っててくるんだから、それなりに覚悟があると思うけど。」
「だってね、今流行りのなんとかよ。結婚相談所みたいなほら、なんていうの?」
「ああ、わかる。出会い系ね。」
「むこうにはたくさん男の人だっているのにさ、わざわざ田舎もんの
「そうかなぁ。」
実家に着くと、兄と彼女が居間のソファに座っていた。
「皆で凪を迎えに行く事ないだろう。母さん、早くお茶出してくれよ。」
兄のそばから離れない細身の女性は、人付き合いが嫌いな自分から見ても、コミュ障だと感じる。
彼女の言葉を代弁する兄は、少しでも彼女の機嫌を損ねないために、必死に取り繕っているように見えた。
こんな田舎に、たいして好きでもない男の元へ、社会から疎外されるために、結婚という都合の良い制度を利用してやって来る彼女。
そのキレイな爪と、自分の不格好な爪を、凪は見比べていた。
きっと酪農なんてするつもりはないんだろうな。
自分の時間を邪魔されないために、嫁を探すことに必死になっている兄を利用した。
都会から若いな嫁がやってきて、人口が増えると喜ぶ田舎の人は、きっと自分を熱烈歓迎してくれて、チヤホヤしてくれるはずだと疑ってはいない。だけど違うよ。田舎の人はそう簡単によそ者を受け付けない。
「お母さん、やっぱり明日帰ろうかな。仕事は夕方からだから、10時に乗れば間に合うよ。」
凪が言うと、
「どうでもいいけど、早く飯にしてくれよ。こっちは昼ご飯、まだなんだよ。」
兄は母を急かした。
「だったら2人で食べに行けばよかったのに。」
イライラして台所へ向かった母に、
「サユリ、揚げ物は無理だから。昨日、3ヶ月に入ったところ。」
兄は言った。その言葉に、両親と凪は顔を見合わせた。
「あちらのご両親は知ってるのか?」
父が言うと、
「知ってるよ。だから先週、俺は挨拶に行ったんだ。サユリの両親とも相談して、子供が生まれても落ち着くまでは、サユリと子供はむこうで暮らす事にした。」
兄は当然の事のように両親に話した。
「こんにちはー!」
玄関から明るい女性の声がする。
凪と母が玄関に向かうと、兄の同級生のアヤカが段発泡スチロールの箱を持って立っていた。
「これ、うちの人から。」
蓋を開けるとたくさんのイカがこっちを見ている。
「あら、こんなにいいの?」
母がアヤカにそう言うと、
「いいの、いいの。さっき駅で凪ちゃんを見掛けたって話しをしたら、うちの人がイカを持って行けって。凪ちゃん、イカ好きだったでしょう。」
「アヤカちゃん、これ今朝採れたやつ?まだ生きてるの?」
凪はツルツルに光っているイカを見つめて言った。店で売られているイカは、大概白い肌をしているけれど、ここに並べられているイカは透明で掴むことができないくらい透き通っている。
「生きてるよ。ねぇ、凪ちゃん。こっちに帰っておいでよ。市立病院だって看護師足りないって募集してんだから。」
凪はアヤカに愛想笑いをした。
「これ、持っていって。」
母は台所からアスパラが入っている小さな箱を持ってきた。
「うちで採れたやつだから。」
「おばさん、ありがとう。じゃあね、凪ちゃん。」
アヤカは高校生の頃、兄の彼女だった。家にもよく遊びに来ていたので、凪はアヤカの事はよく知っている。
このまま2人は一緒になるのかと思っていた矢先、兄は、一つ下の農協職員の女性と付き合い始めた。結局その子とは1年も持たず、少しの間、未練がましく連絡を取っていたようだが、兄はそれからずっと一人だった。
アヤカは3年前、年の離れた漁師の男性と結婚して、その男性の実家に住んでいる。子供も2人いるそうだ。
人当たりがよく、飾り気のないアヤカは、たいして美人ではないけれど、誰もが惹かれる魅力がある。
「アヤカちゃんだったらねぇ~。」
母がポツリと言った。
「あのアスパラって…、」
「いいのよ。初めからアヤカちゃんにあげるつもりだったし。」
母は嘘をついていた。自慢の畑で採れた濃い緑をしたアスパラは、芯がしっかりしているわりに、身は柔らかい。きっと、それは兄達に用意していたものだったに違いないのに、母はそれをアヤカにあげてしまった。
昼食を終え、兄達はホテルへ泊まると出ていった。
初めからそうするつもりだったのだろうから、父も母も引き留めはしなかった。誰のために用意されたのかわからなくなった夕食のご馳走は、テーブルに並びきらず、少し急かされながら、凪は口に運んだ。
「別れてくれないかな。」
母が言った。
「子供だって生まれるのに、そんな事言うな。」
父はため息をついた。
「だって、マサルの子供であって、マサルの子供ではないみたいじゃない。一体、いつどこでできた子なのよ。」
父はそれ以上何も言わず、黙って冷蔵庫からビールを持ってきた。
「凪も飲めるだろう。」
「うん。」
家族なんて、案外脆いものだ。両親にとってこれからぎこちない兄夫婦との生活は、いつか粉々に砕けてしまうか、ヒビ割れている事に知らないふりをして、愚痴で隙間を埋めながら、なんとなく暮らして行くのだろう。
私は幸せという形がすごく苦手で、家族という存在は、厄介に思える。たとえ、孤独に死んだとしても、それはそれで自分が選んだ事なんだから、後悔なんてしないだろう。
朝早く、駅まで送ってくれた母は、搾乳の途中だからと急いで家に戻っていった。
いつもは一緒に仕事をしている兄は、彼女を送るため、昼の飛行機に乗る予定だ。むこうで少しの間滞在すると言ってきた兄の事などあてにできないと、両親は外国人実習生を受け入れる事を、夕べ話し合って決めたそうだ。
父も母も、家族のために懸命に働いてきた。それなのに、自分も兄も、両親の思うように育つ事はなかった。
昨日、アヤカの屈託のない笑顔を見た時、これが両親の望む幸せというものなのかもしれないと、凪は思った。
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