第2話 明けない夜
明けない夜なんてないという。どんなに暗い夜だって、必ず朝がくるんだと、大概の人は悲しみを慰める言い訳を並べる。
太陽が昇るのは、涙で濡れた頬を光りで乾かそうとするわけではなくて、時間という流れが規則的にそうさせているだけ。
眠りかけた月が欠伸をしている間には、昨日と変わらない1日が繰り返される。
朝の薬を配りながら、温かいタオルを眠りから覚めた患者に渡した。
入院生活なんて、ぐっすり眠る事なんてできないと知りつつ、よく眠れましたか、凪はそう声を掛ける。
自分の体なのに、自由にならない患者達は、入院日数が多い少ないに関わらず、時に看護師にストレスをぶつけるように、やりきれない言葉を投げつけてくる。患者によっては理不尽なクレームをつける事もそれなりにあるけれど、最近は、それを受け流す術もだって覚えてきた。
「看護師さんはいいよな。これから家に帰って寝るんだろう。こっちはこれから検査だよ。おかけで夕べから絶食。なんかこう、高級な血の滴る肉でも、口の中いっぱいに放り込みたいよ。」
患者の話しに愛想笑いをして、次の病室へ向かった。凪は夜中の事を思い出し、ドアの前でひとつ深呼吸をする。
全てを見透かした様な桐山の目。明るい場所で会うと、余計に自分の歪んだ気持ちがバレてしまうようで、凪はそれを恐れた。
「おはようございます。」
ドアを開けると、明け方から眠り始めたのか、桐澤はまだ眠っていた。
「もう、朝ですよ。」
時間で飲まなければならない薬があるので、カーテンを開けて桐山を朝の光りで照らした。
本当は寝返りを打ってでも、抵抗したいはずだろうが、左脇胸から出ている太いチューブは、彼の背中とベッドを、接着剤の様にくっつける役割をしている。
「眠れましたか?」
薄っすら目を開けた桐山は、
「夕べから背中が痛いんだ。」
そう言って凪を見つめた。痛みの訴えは嘘ではないと思うけれど、自分の出そうとしている答えの真偽を、桐山は静かに判断している様に感じる。
「じゃあ車椅子に乗りますか?それから背中を見ますから。そのまま洗面所まで送って行きますから、少しさっぱりしてください。」
桐山の身体から出ているチューブを気にしつつ、凪は桐山を車椅子に乗せようと、桐山の上半身に自分の身体を近づけた。腰を支える手が、これは仕事なんだと強がってみせる。
「しっかり掴まってください。」
最小限の力で移動させる様に、桐山の身体を包むように抱きかかえる。
「こう?」
桐山が凪の背中に手を回した。必要以上に桐山は自分に近いように感じたけれど、凪は一瞬で、桐山を車椅子に移動させた。
「背中のどの辺ですか?」
凪は桐山の背中を触った。
「もう治ったよ。きっとベッドに釘かなんか刺さっているんだろう。」
彼のいう冗談でさえも、その瞳で見つめられると、上手く返す事ができない。
「大丈夫なら、良かったです。」
凪はそう言うと、桐山が乗った車椅子を押した。
途中で廊下にいる松下に会ったが、松下は凪を見ても桐山とは目を合わせず、そのまま詰所へ戻っていった。
洗面所の鏡に映った凪を見た桐山は、
「あんた、ひどい顔してる。ヤバい薬でも飲んでるのか?」
そう言って笑った。
「後で、迎えに来ますから。」
凪は桐山を一人残し、洗面所を後にした。
あの人には、何でもわかるんだ。
けしてヤバい薬なんかじゃないけれど、凪は大きな罪を犯している気持ちになった。
夜勤が終わり、玄関を開けると、目に刺さるような太陽はなく、どんよりとした曇り空が町を包んでいた。
「広澤、後でラインする。ていうか、広澤のライン知らなかったわ。」
松下はカバンからスマホを取り出した。
「私がQRコードを読みますか?」
「そうして。」
人との付き合いが少ないだろう松下が話したいっていう内容は、仕事の話しだろうか、それともただの連絡のためなのだろうか。
「明日は休みなんだろう。どこか出掛けるのか?」
「いいえ。」
「だろうな。広澤の行動範囲は、ここと寝床しかないって、ずっと思ってたわ。」
家に着くと、あと一つしか残っていない睡眠薬を飲まず、ベッドに横になった。
どうせ眠れないんだし、このままゴロゴロしていよう。
凪はテレビをつけた。
ケラケラと刺さるような笑い声が聞こえてくると、チャンネルを変えた。淡々と流れるナレーションを聞きながら、ただ静かに生きる事の難しさを、改めて痛感した。
無性に孤独を感じるくせに、誰かが近くにくると落ち着かない。心が開けないとか、コミュ障だとかそんな言い訳なんかではなく、自分の時間が少しでも自由にならない事への苛立ちを感じると、もうこの世界から逃げ出してしまいたくなる。
頼りにしてる松下が、あとからラインすると言った事でさえ、少しずつ時間が食い尽くされていく気がしていた。
あんたは暇だからそう思うんだよ。
がむしゃらに生きている母親は、いつもそう言って自分を弱虫と笑った。母の日に焼けた顔を受け入れられなくなったのは、一体いつからだっただろう。
ダラダラと過ごして、夕方を迎えると、松下からラインがきた。
「ちょっと出てこいよ。」
松下はそう言って場所を指定した。
予定なんかないと言ってしまった手前、断る訳にもいかない凪は、着替えて松下の待つ場所へ向かった。
「広澤、こっち。」
カウンターから手を振る松下は、これから2日目の深夜勤だというのに、ビールを飲んでいた。
凪がグラスに視線を合わせると、
「これ、ノンアル。」
そう言って、凪には本物のビールを出した。
「乾杯!」
グラスがカチッと音を立てる。
「車で来るなって意味、これでわかっただろう。」
松下はノンアルを疑う程、上機嫌だった。
「えぇ、まあ。」
「送ってやるよ。あたしは今日も酒が飲めないから。」
男勝りの言葉遣いは、せっかくキレイな顔立ちをしている広澤の印象を下げる。
「これ、彼氏。」
広澤はカウンターの中にいる男性を紹介した。
凪に軽く会釈した男性は、忙しそうに客の注文に応えている。
「この仕事だと、両親が結婚を許してくれなくてさあ、もう10年もダラダラと付き合ってる。」
松下はそう言った。
「松下さんの家は、厳しいんですね。」
「そう。父親は医者で、母親はその理事長。で、私はそこの娘。家は兄が継いでいたんだけど、同じ医者の嫁が両親と合わなくて、2人で海外に行ってしまって、私に婿を取れってうるさいわけ。ちなみに、あの弟も医者なんだけど、なんでかあんなになっちゃった。」
「弟さん、好きな事ができて羨ましい。」
凪の口から、思ってもみない言葉が出てきた。気持ちと言葉は、けして同じじゃない。
「好きな事なんてないくせに、そんな事言うなよ。広澤の家は?」
「うち?うちは酪農ですよ。田舎が嫌で、理由をつけてこっちに出てきました。」
「そっか。お互い、贅沢な身分だな。育ててもらった恩は仇で返すのか。」
「本当ですね。」
「そう言えば弟は、明日にはチューブ取れるみたいだ。」
「それは良かった。」
「少しはまともに生きてくれるといいんだけど。」
「めちゃくちゃ激しいバンドなんですね。過激な歌詞と、パフォーマンスっていうか。」
「だたのキチガイの集まりだろう。この世の終わりを歌ってキャーキャー言わせてる。」
「ライブのチケットはなかなか取れないって、知りました。」
「あいつらの事、調べたのか。」
「あっ、はい、少し。」
「ネット配信が主流のこの時代に、ライブ中心って意味わかんねえよ。もっといい売り出し方があるのに、効率悪いって言うかさ。」
「きっとあの人達の持つ空気にも、惹きつけられる魅力があるんですよ。」
「そうか?広澤もそう感じたのかよ。」
「私は……、気づきませんでした。それに、患者さんは患者さんだし。」
「そう言えば、少し前に患者に誘われてただろう。退院したら飯おごるってさ。」
「断りました。だって、」
「だって、病人だからかよ。けっこういい男だったのに、もったいねーな。」
「自分が看護師だからですよ。それを見て好きになってくれたら、ずっとその通りの私でいないといけないし。」
「まぁな。そうだ、広澤。これやるよ。」
松下はたくさんの漢方が入っている袋を凪に渡した。
「眠剤なんてどうせ効かないだろう。広澤の不調は広澤にしか治せないんだよ。患者の余りを持って帰ってお守りみたいにして飲んでるんなら、こういうの正々堂々と飲めよ。」
「これ?」
「親父に処方箋書いてもらったよ。漢方はすぐには効かないし、効くかどうかもわからないけど、続けて飲まなきゃっていう固定観念に縛られている広澤には、ちょうどいいだろう。」
松下はそう言うと立ち上がった。
「用が済んだから、送っていくよ。あたしはこれから少し寝るし。」
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