道化師たちのアリバイ

小谷野 天

第1話 夢の続き

 眠れない夜は、どんなに目を閉じても、暗闇を感じる事ができない。

 朝日がカーテンの隙間から部屋に射し込み始める頃には、逃げ出したかった昨日の出来事が長い影を作り、執拗に自分を追ってくる。

 怖くて振り返る事もできず、突き刺さる様な光りの中を走り続けている私は、全ての存在を隠してくれる、真っ黒な厚い雲を求めている。


 22時。

 セットしたスマホの目覚ましは、今日も作動しなかった。

 冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出して、コップに注がれた牛乳に混ぜた広澤凪ひろさわなぎは、ゴミ箱に捨てられた薬のシートを眺めた。

 亡くなった患者さんが残していった睡眠薬は、そろそろ在庫が尽きてきた。

 どうせ、いくら飲んでも寝れないんだから、いっそ眠ろうとする気持ちを捨ててしまおうか、そんな思ってもみないことを呟いている。効果がないと疑って飲む睡眠薬や、お守りの様に飲んでいる風邪薬、それに加えて、不調をリセットしてくれる願いを込めて飲む栄養ドリンク。こんな筋の通らないものなんか常用してるから、体が空回りしているのにも、気が付かない。

 2錠が決まりの睡眠薬を、時には倍以上飲んでしまい、気がつくと意識を飛ばす事もある救いようのない自分は、定期的に入ってくるカフェインと、それに反している眠りを誘う成分が、常に身体の中で不協和音を奏でている。

 今日も重たい瞼をやんちゃに擦ると、清々しい明日をなんて迎えられる自信なんて、とうに失くしていた。


「お疲れ様です。」

 心電図モニターの音が規則的に聞こえる薄暗いナースステーションでは、準夜勤務を終える看護師2人が、スマホを眺めながらお喋りしていた。

 今晩はきっと、穏やかな夜なんだろう。

 救急当番病院にあたる日は、入院を受け入れるよう指示する電話が、これでもかというくらい外来から掛かってくる。

 暗闇にそこだけ光るナースステーション。静かすぎて看護師のお喋りが少し耳に触る。

「松下さん、ちょっとこれ見て。今日、入院してきた患者さん、お化粧バンドのボーカルなんだって。」

 凪の前に出されたスマホからは、奇抜な髪型をした奇妙な男性が、遺書めいた歌詞の歌を歌っていた。

「ステージの上から転んで落ちて、肋骨にヒビが入って気胸とは、情けなくて笑っちゃうね。」

「本人は陶酔してて覚えてないって、もう頭おかしいとしか言いようがないわよ。だいたいああいうバンドのファンだって、ヤバい奴の方が多いでしょう。歌詞の世界に自分を重ねるっていうか、宗教がかっているみたいでさ。」

「理解してくれないのは、世の中が狂い始めているせいだって言ってる自分の方が、よっぽど狂ってるのにねぇ。」

 歳が近いせいもあるのか、その患者の話しに盛り上がり、一向に申送りをしない看護師2人に、もう1人の深夜勤務の相手、松下佐江まつしたさえは、苛立っていた。

「あのさぁ、こっちはさっきから待ってんだけど。」

 佐江はそう言ってマスクを片耳から外すと、彼女達は慌てて、申送りを始めた。

「患者の事、外でペラペラ喋んなよ。病院の信用問題になるからな。」

 佐江は申送りの最後にそう言うと、準夜勤の2人はそそくさと病棟を後にした。

「広澤、あんたの方が部屋数が多いんだから、早く見回りに行けよ。」

 口の悪い松下は、ここの病棟に来てから8年目になるベテラン看護師だ。この病院に来る前は、大学病院の移植チームにいたと聞いた。凪よりも10つ年上の広澤は、4年前の入職の時から、凪の指導者としていつも一緒に仕事をしていた。


 患者が眠るカーテンの中にそっと入って、息をしているかを確認する。懐中電灯を患者の身体から伸びる点滴の方にむけ、規則正しく雫が落ちているか、数秒間確認した。

 大丈夫。 

 心の中でそう呟いて、次のカーテンを開けると、自分では寝返りの打てない老人の、スースーと乾いた呼吸音が聞こえる。

 老人は、誰かの手がないと背中が圧迫されたままになってしまう。

 ちょうどいいタイミングで松下がやってきて、骨と皮しかない老人の背中に、大きな枕をグッと入れた。  

 そして、さっきまで下になっていた肩や背中を、血液が行き届く様に丁寧にさする。

「床ずれなんて作ったら、ますます家に帰れなくなるからね。」

 松下は患者に話しているのか、凪に話しているのか、誰とも目を合わせない。

「後はよろしく。」

 そう言うと、松下は静かに病室を出ていった。

 看護師長に対しても物怖じせずに意見を言う松下は、元々キツイ女性なのかと思っていたら、患者の前ではいつも楽しそうに笑っている。どうして同僚にはこんなにも冷たいのか、凪はいつも不思議だった。


 凪は老人に布団を掛け、もう一度、息をしているか確認した。

 病室を出て、一番奥にある個室に向かうと、松下が先にその病室の前に立っていた。

「広澤、あっちの個室とここを取り替えて。」

 松下は小声でそう言った。

「えっ、あっ、はい。」


 凪がむかった個室は、さっき準夜勤の彼女達が噂をしていた、あの男性の部屋だった。

 天井をぼんやり見ている男性に

「眠れないんですか?」

 凪が聞いた。

「姉ちゃんは?」

「姉ちゃん?」

「松下って看護師がいるだろう、今晩は夜勤だって言ってたから。」

「あなた、松下さんの弟さん?」

「そうだよ。苗字は違うけど、あれは俺の姉。」

「そうだったんですか。お姉さんは朝までいますから。それよりあの、もう遅いから眠ってくださいよ。管が入っている場所が痛むなら、薬を持ってきましょうか。」 

 凪はそう言って桐山の左脇から出ている管に懐中電灯を照らした。

「それならモルヒネでも打ってよ。それも頭に。」

 暗闇の中で不気味に笑った男性は、正気の人間ではないように感じた。

「何かあったら、これで呼んでください。」  

 凪はそう言うと、慌てて個室の出口にむかった。

「このまま夜が続いたら、それはそれでいいと思わない?」

 男性は凪の背中を声を掛ける。

「おやすみなさい。」

 凪は急いでナースステーションに戻った。

 誂うような不敵な笑いと、感情が見えない瞳。人を信じようとしない彼の心の闇に、少しでも近くに寄ってしまえば、あっという間に巻き込まれてしまいそうだったから。

 彼の歌を聞くファンは、本当の死なんてどういうものか知りもしないくせに、背伸びして、この世の終わりを素晴らしい現像だと作り上げていく集団なんだろう。

 バカバカしい。

 

「あいつ、ヤバかっただろう。」

 記録を書いていると、松下が言った。

「弟さん、なんですね。」

「広澤だけだよ、この事を話したの。わかってるよね。」

 松下は口に人指し指を当てて、誰にも言うなというジェスチャーをした。

「あっ、はい。」

 松下はさらに、目で凪に圧を掛けてきた。

「あいつは親父の愛人の子。」

「そうですか、それで、苗字が。」

 キツイどころか、仕事に関係のない無駄話しなんてまして自分の身の上話しを始めるなんて、今日は少し変わった夜になる、凪はそう思った。

「弟がいるって知ったのは、あたしが看護師になった頃だよ。親父から連絡先を聞いて、高校生のあいつと初めて会った。少し変わった奴だとは聞いていたけど、マジでヤバすぎる奴だと思ったよ。」


 凪は松下の弟のカルテを開いた。

 桐山玄斗きりやまげんと

 一人っ子なんだ。

 当たり前か。

 愛人の子供だもんね。


 松下の父親が何をしている人なのか知らないけれど、愛人を作れる程、裕福な家庭なのか、それとも、何かから逃げるように、外にもう一つの家庭でも作ったのか。

 さっきから少し飲み過ぎた睡眠薬のせいか、瞼が重い。松下に見えない様に欠伸をすると、

「先に寝てこいよ。今日はわりと落ち着いてるから。」

 そう言って仮眠を促された。


 休憩室の床で少し休んでると、いつの間にか深い眠りについていた。体がビクつき、驚いて目を覚ますと、さっきからまだ10分しか時間が進んでいなかった。体が起きているのは、栄養ドリンクのせいか。

 

「松下、休んでるところ悪いけど、これから入院がくるから。」


 凪は松下の声に体を起こした。

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