第4話 終末の空

 この世に終わりがあるのなら、その日はどんな空なのだろう。きっといつもと変わらない曇り空で、いいや、青が高くて遠い、雲一つない、よく晴れた景色なのかもしれない。


 松下の弟の桐山が退院する日がきた。

 誰にもわからないように、付き人と裏口から出ていった彼は、まるで亡くなった患者さんがそっと病院を出ていくような、そんな退院だった。

 少し前から、桐山のファンらしい女性が、病院をうろついていた。彼女達には誰にも声を掛けず、みんな目を合わせなかった。

 本名は明かしていないんだろう。

 それに、今の病院のルールでは、患者の名前は病室の前に貼り付けない様になっているし、桐山がここにいるなんてわかりっこない。

「あの、ここにこの人は入院していますか?」

 凪は女の子から、桐山が歌っている画像を見せられた。

「いないわよ。」

 詰所から出てきた看護師長が女の子に冷たく言った。 

 桐山が出ていったのを確認して、凪は裏玄関の施錠をした。扉を閉める前に見上げた空は、いつも見る空以上に灰色で、太陽は見えなかった。


 退院したと言っても、彼の肋骨骨折はまだ完全には治っていない。動くと相当の痛みがあるのだろうけれど、まるで仮面をつけているような変化のない表情は、なぜ入院していたのかも忘れさせるくらい、忠実な動きを繰り返す道化師を見ているようだった。


  自分がなぜ看護師という職業を選んだのか、時々わからなくなる。

 田舎から出るために借りたお金は、奨学金とは名ばかりの、昔で言う年季奉公。貸し付けた病院に数年勤める事で、返還を免除されるその制度は、考えようによって人員確保のためのひとつの手段なのだろうけれど、目先のお金に飛びついて、後に自分にのしかかってくる。

 逃げられない現実の怖さを知った時、自分にとって一番有意義な時間が、自由にならない状態である事に落胆し、浅はかだった行動に、改めて後悔をする。

 確かに、借りたものを返すのが当たり前の事だと、言われてしまえばそれはそうだけれど、甘い香りに誘われてやってきた虫を捕らえようと、花の中には恐ろしい罠が待ち構えているなんて、懸命に生きようとすればする程に気がつかない。

 看護師の様に、人の役に立ちたいとか、使命感を持って選択した職業でも、先立つものがなければ、自分の意志を貫く事はできないんだ。

 ましてあしながおじさんや、小公女の様などんでん返しなんて、現実の世界には起こりっこない。

 今年で4年が終わる。

 あと少ししたら、奨学金の返済が終了する。


 終わらない日勤は、もう22時を回っていた。

「広澤さん、早く記録書いちゃってよ。」

 準夜勤の看護師に急かされた凪は、記憶を辿りながらパソコンに向かっていた。

 一度に多くの事が起こり過ぎて、ついさっきの記憶が飛んでいく。同じ時間などひとつもないのに、特選なしの文字を何度も打つと、自分の人生だって、何もないものなじゃないかと言い聞かせた。


 雨交じりの夜に足を踏み入れると、不意に手を掴まれた。

「偶然だね。」

 そう言って手の先に視線を伸ばすと、びしょ濡れの桐山が立っている。

「えっ、ちょっと何!」

 凪は驚いて桐山から離れると、凪の近くに寄ってきた桐山は、

「話したい事がある。」

 そう言って凪の腕を掴んだ。

 いつからここで待っていたのだろう。偶然だと言っているが、きっとウソに違いない。

「私、タクシーチケット持ってますから。」

 凪はそう言うと、桐山を玄関の中に入れた。急な呼び出しの移動手段として、タクシーチケットは数枚、病院からもらってある。凪はタクシーを電話で呼ぶと、雨に濡れた桐山を玄関に残し、病棟のリネン庫に向かった。

 誰にも見つからないようにバスタオルを2枚持ち出した凪は、上着の中にそれを忍ばせて、玄関へ向かった。

 ぼんやりとついている玄関の明かりは、桐山の革ジャンに光りを当てている。

「これ、使ってください。」

 凪はお腹の中からバスタオルを取り出して、桐山に渡した。

 黙って受け取った桐山は、雨に濡れた顔をバスタオルで覆った。

 お礼くらい言えないのだろうか。タオルで覆っている顔は、生きているのかと疑うくらい無表情だ。

「タクシー、来たみたい。」

 凪はそう言うと、桐山をタクシーに乗るように手を引いた。

「家はどこですか?」  

 凪は桐山に聞いた。

「君と同じ。」

 ふざけているのか、それ以上答えない桐山に困った凪は、待たせている運転手に悪いと思い、とりあえず自分もタクシーに乗った。

「病院の寮でいいのかい?」

 運転手は慣れた様にバックミラー越しに言うと、凪のアパートに向かって走り出した。

 病院が借り上げて寮として使っている場所は、ここからそう遠くない。初めは車で通勤していたが、近場の往復の繰り返しでは、それほど車の必要性を感じなくなった。


 タクシーが凪のアパートの前に着くと、凪はチケットに自分の名前を書いて、それを桐山に渡した。

「運転手さん、あの…。」

 凪はそう言った。

「わかってるよ。だけど、あんまりここから遠いと、別の人を乗せたってバレるからね。」

 人気者の桐山にはタクシーチケットなんて、本当は必要のないものだ。

 だけど、そうでもしなければ、桐山がずっと自分についてくるような気がして、凪はタクシーを降りた。

「おやすみなさい。」

 そう言ってアパートのドアにむかって歩き出した凪の後を、桐山は黙ってつけてきた。

 タクシーはバタンとドアを閉めて走っていったのが、背中越しにわかった。

「あの、困ります。」

 凪は桐山の方を振り返った。

「話したい事があるって言っただろう。」

 ぶっきらぼうな話し方をしている桐山は、とても冷酷な人間に感じる。

「だったら、タクシーの中で話せば良かったじゃないですか?」

「2人だけで話しがしたいんだ。」 


 雨が降る中、それ以上外で話すわけにもいかず、凪は桐山を家の中に入れた。

「上着、乾かしますので脱いでください。」

 凪は桐山に手を差し出した。凪の手をぎゅっと握った桐山は、そのまま凪を自分の胸に抱き寄せた。

 愛おしそうに凪の髪に顔を埋めた桐山は、ずっと行方知れずだった我が子を、やっと探し当てた母犬の様に、凪の身体の匂いを確かめているみたいだ。

「からかってるの?」  

 凪は小さな声で桐山に言った。

「からかってなんかないよ。」 

「じゃあ、どうして?」  

 凪の顔を見つめた桐山は、

「この世の終わりに抱く女は、あんたがいいって思ってるだけ。」

 少しだけ笑っている桐山は、心の中を見透かす様な鋭い目をしている。その目の視線の先が捉えているのが自分だと思うと、凪は怖くて桐山から離れた。

「私はただ、真面目に仕事をしてきて、そうやって必死でこの生活を守って生きてきたのに、あなたは思いついた気まぐれで、私の時間を壊わそうとするの?」  

 自分でも何を言っているのかわからない。桐山は凪に近づくと、

「壊したりなんかしないよ。」

 そう言った。

 少し沈黙が続いたあと、桐山はまた凪を抱きしめた。

 今、彼から少しでも離れようとすれば、周りで待ち構える空腹の限界を超えた肉食動物が、たちまち自分を食べてしまうような緊張した空気が、部屋の中を漂う。

 ただ静かに凪を抱きしめているようで、2人を取り囲む餓えた動物達に牙をむき、もう少しだけ生きていたいと、桐山は自分を守ってくれているのかもしれない。

 いずれは食べられていくであろう2つの命は、緊迫した夜の片隅で、何にも邪魔されず、自分達の存在意義を確認しているみたいだった。

 凪の唇に近づいた桐山は、怯えている凪の頭を左手支えた。抵抗できなくなった凪の身体に、冷たくなった桐山の身体を密着させると、夜を取り囲む空腹で餓えた空気から凪を守るように、桐山は凪と唇を重ねた。

 抵抗するつもりで、力を込めていた凪は、案外すんなり桐山を受け入れてしまった。

 離れても、またキスを繰り返しているうちに、凪の身体はすっかり力が抜け、桐山に支えられていないと、立っていられなくなっていた。

「ごめんなさい。これ以上したら…、」

 なんとか桐山から離れた凪は、そう言って壁に身体を寄りかからせた。

 凪を座らせ、その背中を抱くように後ろから凪を包んだ桐山は、

「握っている手を開いてごらん。きっと何も握ってないんだから。」

 そう言って凪の手を開いた。

 桐山は冷たい凪の頬にかかる髪を自分の鼻で避けると、見えてきた凪の横顔に、そっとキスをする。 

「ほら、何も握ってないだろう。ちゃんと持っていると思ってた何もかも、幻だったんだよ。」

 凪は振り返って桐山を見つめた。

「理性だって、常識だって、我慢する心だって、私はみんな人よりも多く持ってる。だってそうしないと、」

「不安でたまらないんだろう。」

 凪の言葉を遮って話し始めた桐山の言葉は、やはり自分の胸のうちを、見透かしている様に凪には思えた。

「なんでよ、なんでそうなの?」

 桐山の身体から伝わる不安定な心動が、麻薬の様に凪を狂わせていく。

 今すぐに彼から離れてどこか遠くへ行かなかければ、自分は桐山の毒に侵されて廃人になってしまうようで、それなのにそれを望んでいる自分の欲望が、さっきから桐山から離れたくないと身体全体で葛藤している。

「君は俺と似てる。」

 桐山はこれ以上ないくらいに凪の頬に唇を寄せた。

「似てないよ。」

 凪が囁く様な声で呟くと、桐山は凪をベッドへ運んだ。

 始めて目を逸らさずに見つめた桐山の目は、澄んでいるのに、底の見えない古い井戸のようだ。

 こんなに深い底に落ちたら、光りなんてもう見えないかもしれないのに、それでもその奥に秘められたものが気になって仕方ない。

「名前、凪って言ったっけ?」

「そうだけど。」

 少しずつ自分の身体に触れてゆく桐山の手は、冷たいはずなのに焦げるように熱く感じた。

 まるで身を守るように火を灯し、周りのものを近づけない様な緊迫した夜は、消えかけては火を灯す事を繰り返し、気がつくと月は太陽に変わっていた。

 朝靄が前髪を濡らしている事に気がついた時、自分達を取り囲んでいたお腹を空かせた肉食動物達は、いつの間にかいなくなっていた。

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