第10話 温かい食卓
季節は緩やかに巡り、エルムウッドの森も少しずつその色合いを変え始めていた。
俺がこの世界に来てから、どれくらいの時が流れただろうか。
正確な日数は分からないが、確かなのは、俺とルナの間に流れる時間が、来たばかりの頃とは比べ物にならないほど、穏やかで温かいものになっているということだ。
夕暮れ時。
家の小さなキッチンには、カマドで煮込むシチューの匂いと、薪のはぜる音が満ちている。
俺は、エプロン姿で(この世界の男性用エプロンは、なかなか機能的で気に入っている)、木製のスプーンで鍋の中をゆっくりとかき混ぜていた。
「パパ、お皿、これでいい?」
テーブルの方から、ルナの声がする。
振り返ると、ルナが少し背伸びをしながら、食器棚から二人分の木皿を慎重に取り出しているところだった。
「ああ、それでいいぞ。ありがとう、ルナ」
「うん!」
得意げに頷き、小さな手で丁寧に皿をテーブルに並べる。
危なっかしい手つきだった最初の頃と比べると、ずいぶんと様になってきたものだ。
夕食の準備は、いつからか、こうして二人でするのが当たり前になっていた。
俺が料理を作り、ルナがテーブルの準備をする。
特別なことではない。
けれど、この共同作業が、俺たちの「家族」としての形を、少しずつ作ってくれている気がした。
今日の夕食は、具沢山の野菜シチューと、マーサおばちゃんのパン屋で買ってきた焼き立てのパン。
そして、食卓の真ん中には、俺が作った「ふわふわ卵」が鎮座している。
エライザの「おひさまの匂い」は、残念ながら再現できなかったけれど、試行錯誤の末に完成した俺なりの「ふわふわ卵」は、今ではルナのお気に入りメニューの一つになっていた。
「「いただきます」」
小さな手を合わせ、二人で声を揃える。
「んー! おいしい!」
シチューを一口食べたルナが、満面の笑みで言った。
「パパのシチュー、世界一おいしい!」
「はは、大げさだなあ」
照れながらも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
料理の腕は、元の世界にいた頃とは比べ物にならないくらい上達した(と自分では思っている)。
それもこれも、こうして「美味しい」と言ってくれる、小さな食いしん坊のおかげだ。
食事をしながら、今日あったことを互いに話す。
ルナは、森で尻尾が二つに分かれた不思議なリスを見たと、目を輝かせて報告してくれた。
俺は、作業場で作っている木彫りの動物――ルナのウサギの友達になる予定のクマ――の進捗を話した。
「クマさん、早くできないかなあ」
「もうちょっと待っててくれ。なかなか難しいんだ」
「パパ、がんばって!」
「おう」
そんな、他愛のない会話。
以前は、何を話せばいいのか分からず、沈黙が重く感じられることもあった。
けれど、今は違う。
言葉が途切れても、気まずさはない。
穏やかな沈黙が、俺たちの間に心地よく流れていく。
ふと、暖炉の上に飾られた、あの灰色の石に目が留まる。
初めて二人だけで森を散歩した日に、ルナがくれた宝物。
あの日の、少しぎこちないけれど、確かな一歩が、今のこの温かい食卓に繋がっている。
エライザの遺したノートは、今は大切に木箱に仕舞われている。
時折読み返しては、彼女の愛情の深さに胸を打たれるけれど、もうそれに頼りきりになることはない。
俺たちは、俺たちのやり方で、ちゃんと前に進んでいるのだから。
この生活を、奇跡のようだ、と思う。
かつての俺、田中健二は、灰色の日々の中で、ただゲームの世界に逃避していた。
モニターの向こうの、作り物の達成感だけが、唯一の慰めだった。
まさか自分が、こんな風に、誰かと食卓を囲み、笑い合い、温かい気持ちで満たされる日が来るなんて、想像もしていなかった。
異世界への転生。
それは確かに、非現実的な出来事だった。
けれど、本当の奇跡は、そこから始まった、このルナとの出会い、そして、育まれた絆そのものだ。
失われた命の代わりに得た、かけがえのない宝物。
食事が終わり、後片付けも済ませて、寝る前のひととき。
俺は、ルナを膝の上に乗せて、絵本を読んでいた。
最近のお気に入りは、俺が即興で作る、下手くそな冒険物語だ。
主人公は、大抵、少しドジだけど心優しいクマさん(俺自身を投影しているのは、ルナには内緒だ)。
物語が佳境に差し掛かると、ルナは真剣な表情で聞き入っている。
その小さな頭の温もりと、柔らかな髪の感触が、俺の心を穏やかに満たしていく。
読み終えて、絵本を閉じる。
ルナを抱き上げて、寝室へと連れて行く。
ベッドにそっと寝かせ、布団をかけてやる。
「おやすみ、ルナ」
「……うん、おやすみなさい、パパ」
眠る前に、ルナが少しだけ身を起こして、俺の首に小さな腕を回してきた。
そして、耳元で、くすぐったいような、でも、はっきりとした声で囁いた。
「あのね、パパ」
「ん?」
「ルナね、パパのこと……大好き!」
全身の力が、ふっと抜けるような、それでいて、心の奥底から力が湧いてくるような、不思議な感覚。
俺は、ルナを優しく抱きしめ返した。
「……パパも、ルナが大好きだぞ」
それは、心の底からの、偽りのない言葉だった。
ルナが安心しきった顔で眠りにつくのを見届けてから、俺は静かに部屋を出た。
リビングには、カマドの残り火が、まだ小さく揺らめいている。
その温かい光が、部屋全体を優しく照らしていた。
ここは、異世界だ。
元の世界とは違う、不思議なことが当たり前に起こる場所なのかもしれない。
けれど、今、俺が感じているこの幸福感は、とても普遍的で、確かなものだ。
家族がいること。
愛する人がいること。
そして、その人のそばにいられること。
それだけで、人生はこんなにも豊かで、温かいものになるのだということを、俺はこの世界で、ルナに教わった。
俺の異世界生活は、決して派手な冒険や、世界を救うような英雄譚ではない。
けれど、ここには、確かな愛と、信頼と、日々のささやかな幸せがある。
それで十分だ。
いや、それが、俺にとっては最高の「楽しい異世界生活」なのだ。
窓の外には、見たこともない星座が輝く、美しい夜空が広がっていた。
その星空の下で、俺たちの温かい日々は、これからも続いていく。
ゆっくりと、一歩ずつ、二人で。
異世界でパパになった俺は、攻略不能な娘と信頼値を稼ぎたい 風葉 @flyaway00
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