第2話 サクさんと“ハルくん”のはじまり

 配信翌日の昼下がり、サクに会うため、春野は一人で家をでていた。


 街を歩いているだけなのに、ときどき誰かからの視線が刺さる。

 春野はマスクを引き上げて、フードを深くかぶった。

 少し俯き加減に、スマホの地図を確認するふりをしながら、交差点を渡る。

 昼下がりの繁華街、通りを行き交うのは、ほとんどが亜人たちだった。

 獣の耳や尻尾、鱗に覆われた肌──

 多様な身体的特徴を持つ彼らの中で、無特徴の“人間”は、否応なく目を引いた。


「──え、人間じゃね?」

「ひとりで歩いてるの、珍しくない?」


 耳打ちするような声が、背後から聞こえる。

 直接話しかけられたわけではない。けれど、その視線は確実に自分をなぞっている。

 春野は何も言わずに足を速めた。





 この社会で人間は、“守られるべき者”として見られることが多い。

 その視線は好意とは限らない。

 ときに興味、時に物珍しさ、そして──支配欲。

 人間である自分が、街の中でどう見られているのか。

 春野は十分に理解していた。

(目立たないように、自然に……)

 そう自分に言い聞かせながら、細い裏道へと入り、目的のカフェへと歩を進める。


 春野はガラス張りの小さなカフェの前で立ち止まった。

 その外観は、都会の喧騒の中にあってどこか異国的で、柔らかく、懐かしい。

 入り口の上に掲げられた白いプレートには、控えめな文字で店の名前が書かれている。


 Cafe lirio(カフェリリオ)

 

 白い百合を意味するその言葉は、春野にとって特別だった。


 店の扉を開けると、ふわりとしたハーブティーの香りが鼻をくすぐる。

 奥の二人掛けの席に、ゴールデンレトリーバーのような、たれ耳と尻尾を持つ女性が手を振っていた。


「こっちこっち、ハルくん!」

「サクさん、久しぶり」


 春野はサクを見つけると、微笑みながら席に着く。

 目の前に座るサク──朔野優奈は、柔らかな雰囲気をまとった犬族の女性だった。

 明るく、面倒見がよく、配信界でも“姉御肌”として知られている。

 春野がまだ何者でもなかった頃、唯一自分を見つけてくれた人物だった。


「ちゃんと寝てる? 昨日、コメントちょっと気になったでしょ?」

「うん……まぁ、ちょっとだけ。でも平気だよ」

「ほんと? 無理してない? ……何かあったらいつでも私に相談していいんだからね?」


 サクは少しほっとしたように笑い、メニューをめくりながらつぶやいた。


 そんなサクを眺めながら、春野は昔の記憶を辿る。

 カフェlirioは、春野が初めてサクと初めて出会った場所だった。





 それはまだ春野が動画投稿を始めた頃にまで遡る。

 始めた当初は何のノウハウもないまま、何もかも見様見まねだった。

 おかげで動画の伸びは散々。

 再生数は一桁、コメントもなく、誰にも見られていないような気がしていた。

 機材も動画の知識もなかった。照明も部屋の隅にあるスタンドライトがひとつ、マイクはノイズ交じり。

 声も小さく、何を話していいのかもよくわからなかった。

 投稿するたび、自分の小ささが突きつけられるようだった。

 時間をかけて編集しても、数回再生されるだけ。

 かと思えば、手を抜いた動画が数十回再生されることもある、春野にはもう正解が見えず途方にくれていた。


「向いてないのかな……」


 動画投稿をやめよう、真剣にそう考えるようになった。


 そんな時だった。


 「はじめまして。いつも動画を見ています」

 「言葉の選び方が丁寧で、誠実。誰かの心に届く配信ができる人だと思います。」


 ──誰かが、見ていた。


 驚きと共に、胸が締め付けられた。

 動画の内容ではなく、自分自身を“見て”もらえた気がして。

 そのユーザー名は「サク」。

 アイコンは笑っている犬族のイラストだった。


 サクはすでに、ある程度の人気を得ていた中堅配信者だった。

 犬族らしい親しみやすさと愛嬌で、リスナーに“お姉さん”として慕われていた。

 自分とは住む世界が違う存在だと思った。


 しばらくして、今度はサクからDMが届いた。

「もしよければ、動画の相談にのりますよ」

 知らない人からのメッセージには、普通なら少し警戒すべきだったかもしれない。

 でもこの時、春野は彼女の申し出が救いの手にしか見えなかった。

 「よろしくお願いします」と返すと、彼女はすぐに返信をくれた。





 それから、彼女はとてもフレンドリーに、丁寧に、熱心にアドバイスをくれた。

「声のトーンは今のままでいい。でも、もう少し間を意識してみて」

「BGM入れると雰囲気変わるよ」

「投稿時間、固定した方がリスナーつきやすいよ」

 機材の相談にも乗ってくれたし、台本の添削までしてくれたこともあった。





 サクのアドバイスを受けて、少しずつ、動画は変わっていった。

 照明を入れ、構成を考え、声も意識した。

 そのたびに、ほんのわずかずつ、再生数が伸びていった。

 サク以外のコメントがついたときは、震えるほど嬉しかった。

 「癒されました」「また来ます」

 そんなたった一言が、自分を支えてくれた。

 そしていつの間にか、視聴者は数十人、百人と増え、名前を呼ばれるようになっていった。





 数ヶ月後、とうとうサクとオフ会を開くことになった。

 場所は、外はガラス張り、内装は木目調であたたかい雰囲気の小さなカフェ──「Cafe lirio」。


 集合場所の地図を見ながら、春野はゆっくりと歩を進めていた。

 目的地まであと数分、妙に胸をざわつかせる。

 スマホを握る手が汗ばむ。

 朝から何度、服を着替えたか覚えていない。

 髪型も、鏡の前で30分以上かけてセットした。


 画面の向こうでは何度も話してきた。

 アドバイスももらったし、何度も悩みを聞いてもらった。

 だけど、実際に会うのは初めてだ。

 目の前で話してみたら──何か失望されるんじゃないか。

 サクが動画で感じた“価値”が、勘違いだったって思われたらどうしよう。

 そんな不安が、ひたひたと胸を締めつけてくる。


 でも同時に、期待もあった。

 直接会って、「ありがとう」と伝えたかった。

 支えてくれた人に、“ちゃんとした自分”で会いたいと思った。

 少しでも、成長した姿を見てもらいたかった。


 信号待ちの間、春野はスマホを開いて、サクからの最後のメッセージを読み返す。


「無理しないでね。でも、楽しみにしてるよ。ハルくんに会えるの」


 ──ハルくん。

 そう呼ばれるたびに、自分が“誰かに必要とされている”ような気がして、救われる。

 深呼吸をひとつ。

 フードを整えて、カフェへと続く小道に足を踏み入れる。

 ドアの向こうに、あの声が待っている。

 期待と緊張が入り混じったまま、春野はそっと、カフェのドアノブに手をかけた。


 店内に入ると、真っ先に手を振ってくれたのが、サクだった。

 ふわふわの金髪に、やわらかなたれた犬耳。

 少し人懐っこい笑顔が、とても印象的だった。


「はじめまして、サクです。君がハルくんだよね?」


 動画で聞いていた声そのままに、優しく名前を呼んでくれた。

 そのとき初めて、春野は“ハルくん”として認められた気がした。





 サクと色々な話をした。

 初めてコメントを貰ったとき嬉しかったこと。

 サクのアドバイスで自分でも動画がよくなっていること。

 そして、サクのおかげで救われたこと…


 会話のそろそろ尽きてきた頃、サクがふと、軽く言った。

「顔出し配信、してみたら? 可愛いし、絶対ウケると思うよ?」

「えっ……僕が?」


 サクは茶目っ気のある人懐っこい笑顔を浮かべる。


「冗談冗談、軽く言ってみただけ。でも、やってみたいなら応援するよ?」


 おそらくその言葉が、サクの冗談だったんだろうと思う。

 でも、春野の中には、なにかが静かに灯った。

 サクが言うなら、きっと周りからもさらに評価されるはず。


 ──顔を出すことで、“ハルくん”がより伸びるなら……!


 その数日後、春野は初めて、カメラの前に初めて顔を出して配信を行った。

 それが、小悪魔系配信者”ハルくん”すべての始まりだった。

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