第3話 「囲い」と「忠告」

「……ねえ、ハルくん」


 紅茶のカップを置いたサクの声が、ふいに少しだけ低くなった。


「最近の配信、ちょっと……過激じゃない?」

「え?」

「『汗売って』とか『舐めたい』とか……あれ、笑って流してるけど、ああいうの、受け入れちゃダメだよ」


 春野は視線を落とす。


「……わかってるつもりです。でも、うまくかわしていかないと、リスナーが離れちゃうし」

「でも、それって“受け入れる”ってことじゃない?」


 サクの目は、いつものやわらかさの奥に、少しだけ鋭さを宿していた。


「自分を安売りしないで。君は、人間なんだから」



 ──


 その言葉に、春野の胸が少しだけざらついた。


「こないだね、人間の配信者が囲われてたって、ニュースになってたよ」

「囲われてた……?」

「うん。人気の人で、配信部屋も素顔も全部バレてて。気づいたらファンって名乗る亜人に保護されてたって」


 保護──その言葉に、春野は背筋がひやりとした。


「そのファンは、某有名華族のひとりだったらしい」


 サクは紅茶をひと口飲み、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。


「最初はすごく丁寧で、“保護”って形だったみたい。お屋敷に招かれて、贅沢させてもらって、守ってくれて──夢みたいだったって、本人も言ってた」

「それなら……悪い話じゃない、ですよね?」

「そう、“最初は”ね」


 サクの声に、微かな鋭さが混じった。


「でもだんだん、SNSも制限されて、外にも出られなくなって、連絡も自由にできなくなって。最初は“安全のため”って言われてたみたいだけど、気づいたら──ほとんど監禁状態だったって」


 春野の胸に、不快なざわめきが広がる。


「その配信者、囲われて2か月くらい経った頃に、配信で言ったの。“これ、保護じゃなくて囲い込みです”って」

「……!」

「すぐに、リスナーたちが騒いで、通報もされた。でも……警察は“民事不介入”で、結局、動かなかったらしい」

「じゃあ、その人は──」

「その配信を最後に、姿を見た人はいない」


 静かな言葉の中に、凍りつくような重みがあった。


「それでも、その華族は一切罪に問われてない。……これが、現実だよ」


 ──華族。


 その言葉を聞くだけで、僕の背筋はわずかにこわばる。

 今の社会では建前上、すべての種族が平等とされている。

 でも、現実には“血統”と“力”が、いまだに支配の象徴として残っている。

 中でも、華族と呼ばれる家系は別格だ。

 表向きこそ法的な特権はないものの、政治、経済、メディア、

あらゆる分野で影響力を持ち、 代々続く動物的特徴──幻獣や希少種の血を誇りとして、種族社会の頂点に君臨している。

 爵位制度も残っていて、公爵、侯爵、伯爵……それぞれが自家の威光を盾に、

 “正しい種の在り方”を誇示して生きている。

 そしてその価値観の中で、人間は──“弱くて、稀少で、守られるべき存在”とされている。

 時に“愛玩”として、時に“繁殖資源”として、“所有される対象”にもなり得る。


 そんな彼らに目をつけられたら……

 どんなに抗ったって、社会の網の外で“処理”されるのが、関の山だ。



 ──サクが語った“囲い込み”の話。


 あれは、決して都市伝説なんかじゃない。

 僕たち人間が、この社会で目立つということが、

 どれだけ危うい意味を持つのか──僕は、誰より知っているつもりだった。


「……怖いですね、それ」

「その配信者さ、今どうなってるのか、誰にもわからないんだよね」


 サクはスプーンを紅茶のカップに落としながら、ぽつりと続けた。


「でも、想像はつく。最初はきっと、華族の方も丁寧だと思うよ。相手が人間だし、貴重な存在だってことも、わかってるからね」


 春野は無言で耳を傾けた。サクの声は、静かで、優しげだった。


「でもね、亜人には発情期がある。2〜3ヶ月に一度、どうしたって理性より本能が勝ってしまう時間。……そうなったらもう、我慢なんてきかないと思う」

「……」

「むしろその前に、唾液でも汗でも、なんでも手に入れて……無理やり“引き金”を引くんじゃないかな。人間の体液は、それだけで発情を加速させるって言うし」


 人間の体液──


 汗、唾液、血、……精液までもが、亜人にとって“強力な発情刺激”になるとされている。

 その匂いだけで、意識が飛ぶほど昂ぶる個体もいるらしい。

 だから、風俗業や水商売では、人間の人気が異様に高い。

 体液は“甘露”と呼ばれ、隠語で取引される。闇市場では、唾液1mlが何千円で売られているという噂もある。

 そんな興奮の源を“独占”したいと思う亜人が出てくるのも、無理はないのかもしれない。

 だから“囲い”という言葉は、時に保護の仮面をかぶった、 もっと原始的で、暴力的な“所有欲”の別名だ。


「一度そうなれば、もう止まらない。本人の意思なんて、関係なくなる。……華族にとって、自分の種を残すって、何よりも大切な使命だから」


 サクの目は、まっすぐだった。怖いほど。


「人間となら、子供は確実に自分の種族を引き継ぐ。希少な人間を“確保している”っていう事実も、社会的に誇示できる。尊敬も得られる。……ね? 誰にとってもメリットしかない」



 ──誰にとっても、メリットしかない。

 その言葉の中に、“人間の意思”だけが、すっぽりと抜け落ちていた。



 「……だから、本当に気をつけて。ハルくんみたいに目立つ人は、狙われる。

人を信じすぎないで。その優しさが、優しさのまま終わるとは限らないから……」


 サクの声は優しい。

 けれど、その中にある“何か”が、春野の胸に刺さった。


──人間であることは、“希少”という価値であると同時に、

 “欲望を煽る存在”としてのリスクでもある。

 それをわかっていたはずなのに──

 今こうして、サクの優しさにすら、ほんの少し息苦しさを感じてしまうのは、なぜなんだろう。



「もし……そういうことがあったら。誰より先に、私に言って」

「……はい」

「君のことは、誰より私がわかってる。だから、何があっても守るよ。絶対に、ね」


 春野は笑ってうなずいた。

 けれど、紅茶の温度よりも先に、背中を撫でたのは、言い知れない冷たさだった。

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