第19話 やさしさの正体


教会の塔の頂上。朝風が四人の姿を揺さぶっていた。


鷺沼鏡二は、シエラ・スレイドを見つめた。わずか12歳の少女は、塔の縁からわずか数歩の位置に立っていた。彼女の目には奇妙な輝きがあり、その表情は驚くほど冷静だった。


「1944年8月15日」シエラは静かに語り始めた。「この塔で、一人のドイツ人捕虜が亡くなりました」


「シエラ」ハロルドが息を呑んだ。「お前は何も知らないはずだ」


「夢で見たんです」シエラは微笑んだ。「何度も。最初はよく分からなかったけど、今は全て分かります」


ギルバート神父は蒼白な顔で少女を見つめていた。


「彼は19歳でした」シエラは続けた。「通信兵だった彼は、本当は重要な情報を持っていませんでした。でも、グッドマン先生と...」彼女は神父を見た。「当時ゲイブリエル・モリソンだったあなたは、彼から何か引き出そうとした」


風が強くなり、シエラの髪が舞った。


「音楽を使って、光を使って、声を使って」彼女の声は催眠術のように流れた。「赤い部屋で描かれた彼の肖像画。背景に流れる特殊な音楽。そして、やさしく、とても優しい声での問いかけ」


鏡二は黒い手袋をはめた手を握りしめた。シエラの描写は、彼が神父の工房で目撃したものと完全に一致していた。


「彼は最後まで抵抗しました」シエラは塔の縁を見下ろした。「でも、あなたたちの声はやさしすぎた。『真実を語れば楽になる』『罪から解放される』『もう苦しまなくていい』」


「やめろ」神父は初めて声を荒らげた。「お前は何も分かっていない」


「分かっています」シエラは振り返った。「彼は最終的に情報を話しました。でも、それは嘘でした。彼自身が作り上げた、あなたたちを喜ばせるための嘘」


ハロルドは頭を抱えた。「我々は...国のために...」


「その情報で多くのドイツ軍将校が処刑されました」シエラは続けた。「でも本当の作戦は別にあった。あなたたちが得た情報は、全て罠だったんです」


神父は壁にもたれかかった。「彼は次の日の朝、この塔から...」


「飛び降りた」シエラは彼の言葉を引き取った。「あなたたちの『やさしい声』に追い詰められて」


沈黙が塔を包んだ。遠くからは村の動揺した声が聞こえていた。


「なぜ」鏡二は慎重に尋ねた。「なぜ今になって村人を?」


答えたのは神父だった。彼は疲れ切った様子で、肩を落としていた。


「一ヶ月前」彼は告白し始めた。「村議会で古い教会の取り壊しが決定した。地下室には...」


「証拠が残っている」鏡二は完結させた。


「そうだ」神父は頷いた。「捕虜の遺書。録音記録。そして...遺体の一部」


ハロルドは娘に近づこうとしたが、シエラは手をあげて制した。


「だから、証人を消し始めたんですね」彼女は言った。「マーガレットおばあさん、クラークさん、フィンチさん」


「彼らは知りすぎていた」神父は認めた。「特にマーガレットは...あの日、捕虜と話していた。彼女だけは、彼が本当のことを言っていたと知っていた」


「どうやって殺したのですか?」鏡二は問い詰めた。


神父は自嘲的に笑った。「グッドマンの技術は完璧だった。音による誘導。私は彼らの告解を録音し、その声に特殊な音を混ぜて繰り返し聞かせた」


「『赤い絵と鳥の影、忘れるな』」鏡二は呟いた。


「そうだ」神父は頷いた。「視覚的なトリガーも必要だった。彼らが絵を見るたびに、罪悪感が蘇るようにした」


「そして、日曜日の朝」シエラは付け加えた。「口笛の音を聞くと...」


「彼らは自ら死を選んだ」神父は冷たく言った。「私の声が、彼らの心に死をやさしく囁いたのだ」


その瞬間、シエラが塔の縁に近づき始めた。


「シエラ!」鏡二は叫んだ。


しかし、シエラの動きは止まらなかった。彼女の目は再び虚ろになっていた。


神父は口笛を吹き始めた。あの特殊なパターン。短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。


「やめろ!」ハロルドが叫んだ。


鏡二は即座に行動した。彼は神父に向かって走り、口笛を止めさせた。同時に、彼はシエラの名を呼び続けた。


「シエラ!聞こえますか!シエラ・スレイド!」


少女は塔の縁で止まった。風が彼女の服をはためかせた。


「シエラ、あなたは強い」鏡二は呼びかけた。「音に支配されるな。自分の意志で考えるんだ」


神父は再び口笛を吹こうとしたが、ハロルドが彼を突き飛ばした。


「もう充分だ」ハロルドは泣いていた。「娘に手を出すな」


シエラはゆっくりと振り返った。その目には、今度は明確な意識があった。


「大丈夫」彼女は小さく笑った。「もう聞こえない」


神父は地面に倒れ込んでいた。彼は疲れ切り、全てを失ったかのようだった。


「私は...師の教えに忠実だっただけだ」彼は呟いた。「人は音楽で救われ、音楽で破滅する」


鏡二はシエラの手を取り、彼女を安全な場所へ導いた。塔の階段を降りる途中、シエラは尋ねた。


「先生、あの神父はどうなるんですか?」


「法が裁くでしょう」鏡二は答えた。「しかし、最も重要なのは、あなたが生き残ったことです」


地上に降りると、村人たちが集まっていた。彼らの表情には混乱と共に、解放感のようなものもあった。長年の秘密が、ついに明るみに出たのだ。


教会の鐘は、今度は普通のリズムで鳴り始めた。まるで村の新しい始まりを告げるかのように。


鷺沼鏡二は、シエラ・スレイドという勇敢な少女と共に、グレンミスト村を長年苦しめてきた呪縛を解いたのだった。


「死はやさしく口笛を吹く」――その言葉の真の意味を、今、全ての村人が理解していた。

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