第20話 口笛が消えた朝


塔の上では、時間が凍りついたかのようだった。


シエラ・スレイドは塔の縁に立ったまま、魂が抜けたような表情で虚空を見つめていた。ギルバート神父は口笛を吹き続け、その音は朝風に乗って村全体に響き渡っていた。


鷺沼鏡二は深呼吸を繰り返し、そして行動に移った。


「シエラさん、私の声を聞いてください」彼は穏やかだが確固とした口調で呼びかけた。「あなたは安全な場所にいます。今は2005年の日曜日。1944年ではありません」


シエラの表情に微かな変化が現れた。


「あなたは一人ではありません」鏡二は続けた。「私たちはあなたと共にいます。あなたの父親も、村の人々も」


神父は口笛を続けたが、その音色には明らかに焦りが混じり始めていた。


「思い出してください、シエラさん」鏡二は優しく語りかけた。「あなたが昨日、私に言った言葉を。『村の子どもたちを守る責任がある』と」


シエラの瞳に、僅かな輝きが戻り始めた。


「あなたは既に村を救いました」鏡二は言った。「真実を暴くことで、過去の呪縛から村人たちを解放したのです」


神父は狂ったように口笛のパターンを速めた。短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。しかし、今度は効果がなかった。


「どうして...」神父は動揺した。「なぜ効かない?」


鏡二はシエラに手を差し伸べながら答えた。「彼女は恐怖を克服したからです。音の支配から完全に解放されたのです」


シエラは鏡二の手を掴み、塔の縁から離れた。彼女は震えていたが、その目には意識の光が宿っていた。


「先生」彼女は小さな声で言った。「私は大丈夫」


ハロルドは娘に駆け寄り、強く抱きしめた。彼の頬には涙が流れていた。


「すまない、シエラ」彼は謝罪した。「私は臆病者だった」


神父は壁にもたれかかり、疲労困憊していた。彼の顔には敗北の色が濃く浮かんでいた。


「40年間」彼は呟いた。「師の教えに従い、村の秘密を守ってきた。そして、証人を消すことに成功してきた」


「しかし、子供に手を出すべきではなかった」鏡二は静かに言った。


神父は自嘲的に笑った。「グッドマンは言っていた。『人間の心は最も脆弱な武器だ』と。私は彼の最高傑作だった」


彼はゆっくりと立ち上がった。疲れた足取りで、彼は塔の反対側の縁へ歩み寄った。


「神父さま」ハロルドが呼びかけた。


神父は振り返り、最後の微笑みを浮かべた。まるで自分の運命を受け入れたかのように。


「これは終わりではない」彼は宣言した。「村の建設は続く。地下室はいずれ発見される。真実は常に浮かび上がる」


彼は再び口笛を吹き始めた。しかし今度は、誰かを操るためではなく、自分自身のための最後の音楽のようだった。


その音色は美しかった。やさしく、悲しく、そして最後には希望さえ感じさせた。


音が頂点に達したとき、ギルバート神父は塔から身を投げた。


彼の最後の口笛は、村の霧の中に溶けて消えていった。


---


二時間後、警察署。


鷺沼鏡二とシエラ・スレイドは、バロウズ警部の前で詳細な証言を行っていた。机の上には、神父の私室から持ち出された証拠の数々が広げられていた。


「信じられん話だが」警部は頭を振りながら言った。「これらの証拠と君たちの証言を照合すると、全てが一致する」


彼は録音テープを見つめた。「この技術が本当に人を自殺に追い込むことができるなら...」


「既に三人の命が奪われています」鏡二は冷静に答えた。


「四人だ」警部は訂正した。「ギルバート神父自身も含めて」


ハロルド・スレイドは別室で聴取を受けていた。彼は戦時中の秘密に関与したことを認め、全てを正直に話していた。


「お父さんはどうなるの?」シエラは心配そうに尋ねた。


「彼は自首しました」警部は慎重に答えた。「裁判所が判断を下すでしょうが、協力的な姿勢は考慮されるはずです」


---


六ヶ月後。


グレンミスト村は静かな変貌を遂げていた。


古い教会は予定通り取り壊され、地下室からは1944年の証拠が発見された。捕虜の遺書、実験記録、そして遺体の一部。これらは歴史の一部として公文書館に保存され、二度と忘れられることのないようになった。


村の新しい医療センターでは、鷺沼鏡二が週に三日、無償で診療を行っていた。彼は村人たちの心の傷を癒すため、一人ひとりと向き合っていた。


その日、彼の診療室には一人の村人が訪れていた。ヘレン・フォスターだった。


「鏡二先生」彼女は小さな声で言った。「時々、まだあの音が聞こえます」


「それは自然なことです」鏡二は優しく説明した。「心の傷は時間をかけて癒えていきます。音はあなたの心が治癒していく過程の一部なのです」


診療室のドアをノックする音がした。シエラが顔を出した。


「先生、次の患者さんが来ています」


「ありがとう、シエラさん」


この半年間で、シエラは大きく成長していた。彼女は学業と並行して、鏡二の助手として村人たちの相談に乗り始めていた。彼女の体験は、他の村人たちの心の支えになっていた。


ヘレンが診療室を出ると、シエラは鏡二に尋ねた。


「先生、あの音は本当に心の治癒の一部なんですか?」


鏡二は微笑んだ。「そうです。辛い記憶を完全に消すことはできません。しかし、それと向き合い、理解することで、私たちは過去に支配されないようになります」


彼は左手の黒い手袋をゆっくりと外した。長年隠し続けていた火傷の痕が露わになった。


「私自身も長い間、この傷を隠してきました」彼は傷痕に触れながら言った。「しかし、真実と向き合うことで、傷は癒えていきます」


シエラは感慨深げに頷いた。


「先生」彼女は真剣な表情で言った。「もし、また村で事件が起きたら、今度は一緒に解決してもいいですか?」


鏡二は少し驚いたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。


「もちろんです。あなたは優秀な観察者ですから」


その時、彼の机の上に置かれていた新聞の切り抜きが目に入った。『隣村で発生した不可解な失踪事件』という見出しが付けられていた。


「新しい謎ですね」シエラは興味津々で言った。


「そうかもしれません」鏡二は答えた。「しかし、今日はひとまず休憩にしましょう」


二人は診療室を後にし、医療センターの庭に出た。


庭では、春の花々が咲き乱れていた。村の子供たちが遊び、その声は以前のような不安げな響きではなく、ただ無邪気に響いていた。


「先生」シエラは空を見上げた。「この村、変わったと思いますか?」


「変わりました」鏡二は確信を持って答えた。「しかし、重要なのは前に進むことです」


遠くから、教会の新しい鐘が鳴り響いた。それは以前の不気味な響きではなく、明るく希望に満ちた音色だった。


グレンミスト村は、長年の呪縛から解放され、新しい朝を迎えていた。口笛の音は、もはや死の前兆ではなく、ただの音として、風に乗って消えていくだけだった。


そして、いつの日か、また新しい謎が生まれるかもしれない。


しかし今度は、村には二人の探偵がいる。一人は経験豊富な医師。もう一人は聡明な少女。


彼らの物語は、まだ始まったばかりだった。


(完)

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『死はやさしく口笛を吹く —沈黙の探偵と記憶の迷宮—』 ソコニ @mi33x

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