第18話 鐘が鳴る時


日曜日の朝。グレンミスト村は濃い霧の中で目覚めた。


鷺沼鏡二は前夜から眠れずにいた。シエラとは昨晩の工房での騒動以来、連絡が取れていない。午前五時、彼は再び彼女に電話をかけたが、応答はなかった。


「何か起きている」彼は不安を募らせた。


時計が七時を指す頃、教会の鐘が鳴り始めた。普段よりも重く、低い音だった。まるで警告のように。


鏡二は決心を固め、教会へ向かうことにした。霧の中を歩いていると、彼の聴覚は研ぎ澄まされた。遠くからは村人たちの足音、会話の断片。誰もが教会に向かっていた。


石畳の道を進むうち、彼は馴染みのある人影と出会った。


「エイミーさん」


シエラの母エイミー・スレイドは、黒いコートに身を包み、うつむいたまま歩いていた。彼女は鏡二の声に顔を上げ、その目には深い悲しみと驚きが宿っていた。


「鷺沼先生...」


「シエラさんはどこに?」


エイミーは唇を震わせた。「ハロルドが...連れて行きました。教会に」


「彼女は無事ですか?」


「分かりません」エイミーは声を絞り出した。「昨夜、ハロルドが帰宅した時、彼は激怒していました。シエラを無理やり自室に連れて行き...朝になると、二人とも教会に出かけてしまって」


鏡二は胸が締め付けられる思いだった。「エイミーさん、あなたは1944年の出来事を知っていますね」


エイミーは目を伏せた。長い沈黙の後、彼女は答えた。


「はい」声は小さかった。「私の父も...グッドマンの実験に参加していました。情報通信員として。私は子供でしたが、何が起きているか知っていました」


「捕虜の自殺?」


「彼は自殺させられたのです」エイミーは初めて目を上げた。その瞳には涙があった。「グッドマンの手法は...人の心を壊しました。あの若い捕虜は最後まで本当の情報は持っていないと訴えていました。でも誰も信じなかった」


彼女は深く息を吸った。「ギルバート神父は、当時まだ少年でした。でも、彼はグッドマンの一番優秀な弟子でした。彼は全て見ていました」


教会の鐘が再び鳴った。より緊迫した音で。


「私たちは急がなければ」鏡二は言った。


二人は教会へ向かって歩き始めた。霧は少しずつ晴れ始めていたが、空気は依然として重かった。


---


教会の内部は既に満員だった。


村人たちは普段より多く集まっていた。前夜の工房での騒動は既に噂となって広まっていた。中央の通路を進みながら、鏡二は村人たちの不安に満ちた表情を見た。


祭壇にはギルバート神父が立っていた。黒い祭服を身にまとい、いつもの穏やかな表情を浮かべていた。しかし、鏡二の訓練された目には、その表情の下に潜む緊張が見えた。


鏡二は人込みの中からシエラを探した。前方の左側に、ハロルドとシエラが座っているのを発見した。シエラは真っ直ぐ前を見据え、不自然なほど動かなかった。


パイプオルガンが朝の聖歌を奏で始めた。


『主よ、我らを導き給え』


鏡二は即座に気づいた。この讃美歌の中には、例のパターンが巧妙に組み込まれていた。短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。繰り返し。


聖歌隊が歌い始めると、教会全体が奇妙な雰囲気に包まれた。村人たちの表情が次第に虚ろになっていく。


「皆さん」神父が説教を始めた。「今日は罪と許しについて話しましょう」


彼の声は普段通り穏やかだったが、そのリズムには特別なパターンがあった。鏡二は注意深く聞いた。言葉の強弱、間の取り方。全てが計算されていた。


「私たちは皆、過去に罪を犯しました」神父は続けた。「しかし、神は許してくださいます。告白することで、私たちは解放されるのです」


説教が進むにつれ、教会の雰囲気はさらに異常になった。村人たちの中には、うつむき、手を組んで祈る者たちがいた。彼らの唇からは、何か言葉が漏れていた。


「罪を許し給え...」


突然、ヘンリー・フォスターが立ち上がった。彼は青白い顔で、手を震わせていた。


「私は...私は罪人です」彼の声は教会全体に響き渡った。


神父は静かに彼を見つめた。「フォスターさん、どうなさいましたか?」


「私は...1944年に...」フォスターは声を振り絞った。「私は嘘をつきました。あの捕虜は本当の情報を持っていないと知っていたのに...」


礼拝者たちがざわめき始めた。


鏡二はシエラの様子を注視していた。突然、彼女の状態に異変が起きた。瞳孔が開き、呼吸が浅くなり、体が僅かに震え始めた。


「催眠状態だ」鏡二は心の中で叫んだ。


その時、シエラが立ち上がった。彼女の動きは機械的でありながら、同時に力強かった。


「本当の罪人は誰?」


彼女の声は教会全体を貫いた。それは12歳の少女の声とは思えないほど、明確で強かった。


シエラはゆっくりと祭壇の方を見た。そして、神父とハロルドを指差した。


「1944年8月15日、あなたたちは何をした?」


神父の顔色が変わった。初めて、彼は動揺の表情を見せた。


「シエラ」ハロルドが娘の腕を掴もうとした。


しかし、シエラは彼の手を振り払った。


「あなたは通訳として、捕虜の言葉を改ざんしました」彼女は父親を見つめた。「彼らが重要な情報を持たないと分かっていたのに、持っていると報告した」


「やめろ!」ハロルドは叫んだ。


「そして、あなた」シエラは神父を見上げた。「グッドマンの弟子として、音楽で人の心を操る技術を使って、無実の捕虜を精神的に追い詰めた」


教会が騒然となった。村人たちは互いに囁き合い、立ち上がる者もいた。


神父は平静を装おうとしたが、彼の手が僅かに震えていた。


「これは...子供の妄想だ」彼は言おうとした。


その瞬間、教会の鐘が鳴り始めた。しかし、これは普通の鐘の音ではなかった。


それは口笛のパターンを鐘で再現したかのような音だった。短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。繰り返し。


混乱が頂点に達した。村人たちは耳を覆い、叫び声を上げ始めた。


「あの音だ!」

「また始まった!」


鏡二は即座に行動した。彼はスツールに登り、可能な限り大きな声で叫んだ。


「皆さん、落ち着いてください!これは暗示です!音に注目してはいけません!」


しかし、混乱は収まらなかった。


その時、シエラが動き出した。彼女は礼拝者たちの間を抜け、教会の奥へ向かって走り始めた。


「どこへ行く!」ハロルドが追いかけた。


鏡二も彼女を追った。シエラは教会の塔へつながる階段に向かっていた。狭い螺旋階段を、まるで何かに引かれるように上り始めた。


神父も追いかけた。三人は塔の階段を駆け上がった。鐘の音はさらに大きくなり、まるで彼らを呼んでいるかのようだった。


塔の頂上に続く扉が開いた。外に出ると、強風が三人を迎えた。グレンミスト村の全景が霧の中に広がっていた。


シエラは塔の縁に近づいた。


「シエラ!」鏡二は叫んだ。


彼女は振り返った。その瞳には、今度は明確な意識があった。


「先生」彼女は言った。「答えを見つけました」


風が吹き抜け、シエラの髪が舞い上がった。彼女の背後では、朝日が霧を貫き始めていた。


村の秘密は、今、崩壊の瞬間を迎えていた。

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