第14話 音源の正体
木曜日の朝、森の小屋から村へ戻るとき、鷺沼鏡二は最悪の事態を予測していた。
しかし、彼の予想を超える展開が待っていた。
玄関のドアは前日と同じように施錠されていた。中に入ると、居間には整然とした光景が広がっていた。昨日の荒らされた状態は一変しており、全てが元通りの位置にあった。
いや、一つだけ違いがあった。
テーブルの上に、古いレコードプレーヤーが置かれていた。木製のケースは埃をかぶり、蓋が半開きになっていた。その中には、真っ黒なビニールレコードが収められていた。
「挑発ですね」シエラが小声で言った。
「あるいは、警告かもしれません」鏡二は注意深く近づいた。「触らないでください。指紋が残る可能性があります」
彼は手袋をはめたまま、レコードを持ち上げた。ラベルは手書きで、書かれているのは日付だけだった。
「1944年8月15日」
シエラは息を呑んだ。繰り返し現れるその日付。全ての謎の中心にある日。
「再生してみましょう」鏡二は決心した。「しかし、警戒は必要です」
彼はプレーヤーのコンセントを差し込み、針をセットした。古いモーターがうなりを上げ、レコードが回転を始めた。
針が盤面に触れた瞬間、音が響き渡った。
最初は雑音。古いレコードに特有のクラックル音。次に、微かなハミング。そして、はっきりと聞こえてきた。
口笛の音。
シエラが聞いていたものと完全に同じパターンだった。
短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。繰り返し。繰り返し。繰り返し。
しかし、それだけではなかった。背後には、かすかに男性の声が録音されていた。囁くような、催眠術師のような単調な声。
「忘れなさい...覚えてしまったことも...見たものも...聞いたことも...」
鏡二はボリュームを下げ、分析を始めた。古い録音機器を持ち出し、周波数スペクトラムを解析した。
「これは」彼は真剣な表情で言った。「単なる音楽ではありません。特殊な周波数パターンを持つ音響トリガーです」
「どういう意味ですか?」
「人間の脳波に影響を与える特定の周波数が含まれています」鏡二は説明した。「アルファ波、つまり意識状態と無意識状態の間をつなぐ周波数です。口笛の音程、テンポ、そして背後の男性の声。全てが組み合わさって、聴く者の意識を特定の状態に導く」
「それが催眠術?」
「それ以上です」鏡二は首を振った。「これは長期的な心理操作の道具です。繰り返し聴くことで、特定の記憶を抑圧したり、逆に呼び起こしたりすることができる」
彼は録音を止め、レコードを丁寧に専用のケースに戻した。
「この録音は1944年に作られました。おそらく、アーサー・グッドマンによって」
「じゃあ、今も誰かがこの音を使って...」
「はい。村人たちを心理的に操作している」
---
同じ頃、シエラは重大な決断を下していた。彼女は狩猟小屋から抜け出し、自宅に向かっていた。
父親との対立は避けられないだろう。しかし、今度は別の人物に話を聞くつもりだった。
午後三時、スレイド家。
ハロルドは新聞社に出掛けており、家には母親のエイミーだけがいた。
エイミーは娘の突然の訪問に驚いたが、彼女の決意に満ちた目を見て、何も言わずにキッチンに招き入れた。
「お母さん」シエラは直接的に切り出した。「この村で、本当は何が起きたの?」
エイミーの顔から血の気が引いた。「シエラ、私は...」
「もう隠さないで」シエラは懇願するように言った。「人が死んでるの。このままじゃ、私たちも危ない」
長い沈黙が流れた。エイミーはやがて、ため息とともに話し始めた。
「この村で起きたことは、あなたが思う以上に恐ろしいこと」彼女は声を震わせた。「戦時中、この村にはドイツ人捕虜がいた。軍の秘密情報を持つ重要な人物たちが」
「捕虜収容所?」
「そんな大げさなものじゃなかった」エイミーは続けた。「古い教会の地下室を改装して、秘密の施設を作ったの。そして、アーサー・グッドマンという心理学者が来た」
「彼が口笛の音を作ったの?」
「彼は特別な方法で捕虜たちを尋問していた」エイミーは目を伏せた。「拷問ではなく、音楽と心理操作で。村人たちは、彼の実験に協力させられた。『聖歌特別練習会』という名前で」
「それで何が起きたの?8月15日に」
エイミーは遠い目をした。「ある捕虜が...重要な情報を持っていた。ドイツ軍の作戦について。グッドマンは何日もかけて、彼から情報を引き出そうとした。そして、ついに成功した」
「何の情報?」
「ドイツ軍の攻撃計画。日付、場所、部隊の配置...」エイミーは震える手で髪を撫でた。「その情報は連合軍に渡り、ドイツ軍の攻撃は失敗に終わった。多くの将校が処刑された」
シエラは理解し始めた。「それが、お父さんが持っていた新聞の切り抜き」
「はい。しかし、情報漏洩の源泉は決して明らかにできなかった。村は沈黙を守ることを誓わされた」
「じゃあ、今起きている死は...」
「その記憶から逃れようとする人々の自殺」エイミーは涙を目に浮かべた。「私たちはみんな、罪悪感を抱えてきた」
「罪悪感?」
「グッドマンの手法は、捕虜に重大な心理的ダメージを与えた」彼女は告白した。「ある捕虜は情報を漏らした後、精神を病んだ。もう一人は...」
玄関の鍵が回る音がした。ハロルドが帰宅したのだ。
エイミーは即座に口を閉ざし、娘に警告的な視線を送った。二人は黙りこくった。
ハロルドが現れた。彼は娘を見て、一瞬驚いたが、すぐに怒りの表情に変わった。
「なぜここにいる?」
「お父さん」シエラは勇気を振り絞った。「お母さんは私に真実を話してくれている」
「エイミー!」ハロルドは妻を睨みつけた。「何を話した?」
「何も...まだ何も」エイミーは震えながら答えた。
ハロルドはテーブルに手をついた。「シエラ、お前は本当の恐怖を知らない」
「じゃあ、教えて」シエラは挑戦的に言った。「あなたたちが何を隠しているの?」
「隠している?」ハロルドは冷笑した。「俺たちは生き残るために必要なことをしただけだ。戦争中、我々には選択肢がなかった」
「人を殺すことが?」
「殺す?」ハロルドの目が険しくなった。「我々は誰も殺していない」
「じゃあ、なぜ今、村人が死んでいるの?」
ハロルドは黙り込んだ。やがて、彼は低い声で言った。
「あの医者は何も分かっていない。彼は外部者だ。この村の痛みを知らない」
「鏡二先生は助けようとしているの!」
「助ける?」ハロルドは激昂した。「彼は破壊しようとしているんだ!この村の平和を!」
シエラはもはや父親に何も期待できないことを悟った。彼女は立ち上がり、ドアに向かった。
「どこへ行く?」
「真実を見つけに」シエラは振り返りもせずに答えた。
彼女が去った後、エイミーはついに泣き始めた。ハロルドは窓際に立ち、外を見つめた。
「明日は金曜日だ」彼は呟いた。「日曜日まで、あと三日」
その夜、鏡二の家では二人が新たな情報を整理していた。レコードの発見、シエラの母からの証言。全てが1944年の秘密につながっていた。
「1944年8月15日」鏡二は黒い手袋を見つめながら言った。「その日、この村で何か重大な事件が起きた。それは今も、村人たちを苦しめている」
「先生」シエラは真剣な表情で言った。「私たちは、次の日曜日までに全てを解決しなければなりません」
「はい」鏡二は頷いた。「そして、もう一度、アーサー・グッドマンあるいは神父に、直接対峙する必要があります」
遠くで教会の鐘が鳴った。
ゆっくりと、深く、村全体に響き渡るように。
まるで、時間の経過を数えているかのように。
次の日曜日まで、残された時間は少なかった。
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