第13話 村の外の風


火曜日の早朝、鷺沼鏡二は古い友人リチャード・ハミルトンに電話をかけていた。


ハミルトンは第二次大戦の歴史研究家で、鏡二がロンドン大学にいた頃からの交友があった。彼は軍事記録保管庫へのアクセス権を持ち、さまざまな機密資料を調査できる立場にあった。


「鏡二?随分久しぶりだな」受話器の向こうで、ハミルトンの驚きの声が響いた。


「ああ、リチャード。たった一つの名前について調査を依頼したい」鏡二は簡潔に用件を切り出した。「アーサー・グッドマン。第二次大戦中、心理学者だったはずだ」


「グッドマン...」ハミルトンは考え込む音を立てた。「心理学者ね。戦時中なら軍の諜報部門かもしれない。調べてみよう」


「もう一つ。グレンミスト村についても。1944年、特に8月15日前後に何か特別な活動があったか」


「グレンミスト?確か北東部の...小さな村だったな。了解した。今からすぐに調査を始める」


電話を切った鏡二の頭の中では、既に複数の仮説が形成されていた。アーサー・グッドマンが心理戦の専門家だったとすれば、聖歌特別練習会はその技術を実践する場だったのかもしれない。しかし、何のために?


彼は左手の黒い手袋を見つめた。自身の記憶の傷痕。人間の心は武器にもなりうる。彼は十分すぎるほどそれを知っていた。


---


同じ朝、シエラ・スレイドは緊張した雰囲気の朝食席に座っていた。


ハロルド・スレイドは新聞を読みながら、冷たい視線を娘に向けていた。その眼差しには、明確な敵意があった。


「学校の後は、真っ直ぐ帰ってくるように」彼は新聞を置きながら命じた。


「わかってるわ」シエラは小さな声で答えた。


「ここ数日、妙な時間に帰宅している」ハロルドは声を低めた。「村で噂になっているぞ。あの日本人と一緒に行動しているとな」


「鏡二先生のこと?」シエラは顔を上げた。「私たち、何も悪いことはしてない」


「黙れ!」ハロルドの声が響いた。「私の言うことが聞けないのか?」


エイミー・スレイドは不安そうに二人を見つめていたが、何も言えなかった。


「今後、あの男に近づくな」ハロルドは最後通牒を下した。「二度とだ」


シエラは怒りに震えていた。「どうして?鏡二先生は人を助けようとしているの!」


「やめなさい、シエラ」エイミーが小声で注意した。


しかし、シエラは止まらなかった。「お父さんこそ何か隠してるんでしょう?あの写真に写ってたのはお父さんだった。1943年の聖歌特別練習会に!」


一瞬の静寂の後、ハロルドの手が宙を飛んだ。


パン!


鋭い音が響いた。シエラの頬に赤い手形が浮かび上がった。


「ハロルド!」エイミーが叫んだ。


シエラは涙をこらえながら、父親を見つめた。初めて見る父の暴力。それは彼女の中の何かを決定的に変えた。


「二度と、お前の前に現れるな」シエラは冷たい声で言った。


彼女は椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。


「どこへ行くつもりだ!」ハロルドが叫んだ。


しかし、シエラは振り返らずにドアを開け、外に飛び出した。


朝の空気は冷たく、濃い霧の中を彼女は走り続けた。行き先は一つしかなかった。


---


十分後、鏡二の家の呼び鈴が鳴った。


ドアを開けると、シエラが立っていた。頬には手形の跡があり、瞳は未だ怒りで燃えていた。


「シエラさん、どうしました?」


「助けて」彼女は静かに、しかしはっきりと言った。


鏡二は黙って彼女を中に招き入れた。居間のソファに座らせ、氷のうを持ってきた。


「話してくれますか?」


シエラは全てを語った。父親との口論、暴力、そして彼女が見つけたものについて。


「お父さんの書斎で、古い新聞の切り抜きを見つけたの」彼女は震える声で言った。「1944年の記事でした。ドイツ軍の秘密情報が漏洩したって。多くの将校が処刑されたって」


鏡二の目が鋭く光った。「その記事に、グレンミストの名前は出ていましたか?」


「いいえ、でも...」シエラは記憶を辿った。「記事の隅にペンで『我々の成功』って書いてありました。お父さんの字でした」


鏡二は深く考え込んだ。やがて彼は言った。「あなたの安全が心配です。しばらくここに滞在してください」


「本当にいいの?」


「もちろんです」鏡二は頷いた。「私は一人ですし、空き部屋もあります」


シエラは安堵の涙を流した。そして初めて、胸に抱えていた不安を口にした。


「先生、私、怖い。村で何が起きているのかも、お父さんが何を隠しているのかも」


「それを解明するのが私たちの仕事です」鏡二は静かに言った。「しかし、一つずつ進めていきましょう」


その日の夕方、ハミルトンからの電話が入った。


「鏡二、見つけたぞ」ハミルトンの声には興奮が含まれていた。「アーサー・グッドマン。彼は本物だ」


「どういうことだ?」


「彼は軍の心理戦部門の専門家だった。特に尋問技術と心理操作に優れていた。記録によれば、彼は『音響を使用した暗示技術』という研究をしていた」


鏡二の心臓が高鳴った。「音響を使用した...」


「はい。特定の音のパターンで対象者の記憶や感情を操作する技術だ。1944年8月、彼はある特殊任務のためにグレンミスト村に派遣された」


「特殊任務とは?」


「ドイツ人捕虜の尋問だ」ハミルトンは重々しく言った。「村には小さな捕虜収容所があったらしい。グッドマンの任務は、重要な情報を持つ捕虜から、穏やかな方法で情報を引き出すことだった」


「それで、村人たちが聖歌特別練習会に参加していたのか」


「その通りだ。彼らはグッドマンの実験に協力していた。しかし」ハミルトンは声を落とした。「8月15日に何かが起きた。記録には『作戦中止。全証拠の抹消を指示』とだけ書かれている」


「そして、それ以降の記録は?」


「全て機密扱いになっている。接近禁止だ」


電話を切った後、鏡二はシエラを書斎に呼んだ。


「今、外部からの情報を得ました」彼は慎重に説明した。「アーサー・グッドマンは音を使って心を操る専門家でした。1944年8月15日、この村で何か重大な事件が起きた」


「だから、村の人たちは沈黙の誓いを...」


「はい。そして、現在の神父は当時15歳の少年として、その実験に参加していた」


シエラは何かを理解したような表情になった。「じゃあ、今起きている死は...」


「恐らく、当時の記憶を思い出させ、罪悪感から逃れるため自殺に追い込まれているのでしょう」


「でも、誰が?神父が?」


「それとも」鏡二は窓の外を見つめた。「アーサー・グッドマン自身がまだ生きていて...」


その可能性は恐ろしかった。30年以上前に開発された心理操作の技術が、今も村人たちを殺している。


夜になり、鏡二は客室を用意した。シエラが自分の持ち物を取りに家に戻ろうとしたとき、彼は止めた。


「危険です。明日、私が同行します」


その夜、鏡二は一人で書斎に座り、ピアノの前に佇んでいた。彼は口笛のパターンを繰り返し弾いた。


短く鋭い上昇音、長くやさしい下降音。


そのメロディは、人の心を操る武器だった。戦時中、敵国の情報を引き出すための道具。しかし、今それは自国の人々を殺している。


彼は左手の手袋を脱いだ。火傷の痕が月明かりに浮かび上がった。記憶は人を救うことも、殺すこともできる。


真実を知ることが常に正しいとは限らない。しかし、このまま放置することも許されない。


明日は水曜日。次の日曜日まで、あと四日。


彼は決心を固めた。真実を暴き、悲劇を止める。たとえそれが、村全体を揺るがす結果になったとしても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る