第15話 鳥を描く部屋
金曜日の朝、村は霧に包まれた不安の渦に包まれていた。
鷺沼鏡二とシエラ・スレイドは早くから村の通りを歩いていた。彼らは村人の行動パターンを観察し、次の犠牲者となる可能性のある人物を見極めようとしていた。
朝市にいたヘレン・フォスターは、もはや異常なほど神経質になっていた。彼女は物を買いもせず、ただうろうろと店先を往復していた。
「フォスターさんは木曜日の面会で何を神父と話したのでしょうか」シエラは疑問を口にした。
「重要な手がかりかもしれません」鏡二は同意した。
彼らは村を歩きながら、他の村人の様子も観察した。パン屋のトムソン氏は普段通りで、図書館のホッジス夫人も特に変わった様子はなかった。しかし、村会議員のヘンリー・フォスターの店の前を通りかかった時、彼らは重要な発見をした。
フォスターは自分の店の前で、ただ呆然と立っていた。69歳の彼は、朝から同じ場所で動かずにいるようだった。
「フォスターさん」鏡二は声をかけた。
フォスターは、まるで夢から覚めたように振り向いた。彼の顔は青白く、目元にはくまができていた。
「ああ、鷺沼博士」彼は薄い微笑みを浮かべた。「おはようございます」
「お具合は?」
「少し疲れていまして」フォスターは眉をひそめた。「最近、眠れない日が続いています」
「特に、朝方に目が覚めてしまうのでは?」鏡二は慎重に尋ねた。
フォスターの目が見開かれた。「なぜそれを...?」
「同じような症状の方がおられます」
フォスターは不安そうに周囲を見回した。「確かに、毎朝四時頃に目が覚めて、もう眠れません。頭の中では音が...」
「音が?」
彼は言葉を切った。「いえ、何でもありません」
フォスターは急いで店の中に入っていった。
「先生」シエラが囁いた。「彼も聞いているんだ。あの口笛を」
「間違いありません」鏡二は頷いた。「そして、症状は前の犠牲者たちと一致します」
昼過ぎ、二人は村の外れに位置するギルバート神父の工房を見下ろせる場所に陣取った。そこから神父の行動を観察するつもりだった。
やがて木曜日の夜が訪れた。夜七時頃、ヘンリー・フォスターが工房に向かう姿が見えた。
「今夜、彼は肖像画のセッションです」鏡二は小声で言った。「十分待ってから、様子を見に行きましょう」
三十分後、二人は工房の裏手に回り込んだ。高い窓の下には古い木箱が積まれており、そこに登れば中を覗くことができた。
鏡二は慎重に木箱に登り、窓の隙間から内部を観察した。そして彼は見たものに衝撃を受けた。
工房の中は、異様な赤い照明に包まれていた。中央にはイーゼルがあり、その前にはフォスターが椅子に座っていた。しかし、彼の表情は普段のものとは全く違っていた。まるでトランス状態のように、目は半開きで放心していた。
神父はパレットを持ち、絵筆を動かしながら、単調な声で何かを語り続けていた。
鏡二は耳を澄ませた。
「あなたの罪を思い出しなさい...1944年の夏...教会の地下室...」
背景では、低い音楽が流れていた。いや、音楽というより、規則的な音のパターンだった。繰り返される低周波音。
鏡二は木箱から降り、シエラに様子を説明した。
「これは芸術の制作ではありません」彼は低い声で言った。「高度な催眠状態の誘導です」
「どういうことですか?」
「視覚的な刺激——赤い照明と絵筆の動き、聴覚的な刺激——単調な声と音楽、そして信頼関係——神父という立場。全てが組み合わさって、フォスターさんの意識状態を操作している」
シエラは不安そうに工房を見上げた。「じゃあ、彼は今...」
「過去の記憶を無理やり蘇らせられています」鏡二は確信を持って言った。「そして、特定の行動を暗示されている可能性があります」
二人は工房から離れ、村の道を歩いた。夜の空気は冷たく、彼らの吐く息は白く見えた。
「あの部屋で描かれていたのは、絵だけじゃない」シエラは突然言った。「記憶も描かれていた」
鏡二は彼女を見つめた。その直感力に感心していた。
「まさにその通りです」彼は同意した。「絵を描くという行為は、単なる芸術的活動ではなく、心理操作の道具になっていた」
彼は立ち止まり、村の方向を見やった。
「アーサー・グッドマンが戦時中に開発した手法と、現在の神父の方法は全く同じです」
「じゃあ、神父は...」
「グッドマンから直接指導を受けた弟子でした」鏡二は完結した。「15歳の時に。彼は師匠の技術を完璧に習得し、今それを使って村人を操作している」
「でも、なぜ?何のために?」
鏡二はしばらく沈黙していた。やがて彼は答えた。
「恐らく、1944年の秘密を完全に封印するためでしょう。関係者を全て一人ずつ消していけば、真実は永遠に闇の中に葬られる」
「それって...」
「計画的な殺人です」鏡二は断定した。「ただし、直接手を下すのではなく、心理操作によって自殺に追い込む」
「証拠は?」
「それが問題です」鏡二は頭を振った。「私たちが見たものは、全て状況証拠に過ぎません。法的な証拠にはならない」
その時、遠くから教会の鐘が鳴り始めた。
「明日は土曜日」シエラは不安そうに言った。「そして明後日は...」
「日曜日」鏡二は眉をひそめた。「今までの犠牲者は全て、日曜日に亡くなっています」
「フォスターさんを守らなければ」
「しかし、どうやって?」鏡二は考え込んだ。「彼は既に神父の暗示下にある可能性が高い」
二人は再び神父の工房に向かった。中の様子を確認するためだった。窓を覗くと、セッションは終わりかけていた。
フォスターは椅子から立ち上がり、放心したままドアに向かった。神父は筆を置き、彼の肩に手を置いて何かを囁いた。
フォスターは頷き、そして工房を出た。
鏡二とシエラは彼の後を一定の距離を保ちながら追った。フォスターは普段とは違う道を通り、墓地の方向へ向かっていた。
墓地の入り口で、フォスターは立ち止まり、空を見上げた。夜空には雲が漂い、星は見えなかった。
彼は独り言のように何かを呟いた。鏡二は必死で耳を澄ませた。
「日曜日の朝、教会の鐘が鳴るとき...」
フォスターはそのまま墓地を歩き去った。
鏡二は黒い手袋を強く握りしめた。「彼は既に暗示を受けています」
「どんな暗示?」
「恐らく、日曜日の朝に特定の行動を取るよう暗示されています」鏡二は重々しく言った。「私たちは彼を監視し続けなければなりません」
「もし、本当に彼が次の犠牲者になるなら...」
「私たちが彼を救います」鏡二は断言した。「そして、この悪夢を終わらせなければならない」
村の霧がさらに濃くなり、二人の姿は徐々に見えなくなっていった。しかし、彼らの決意は変わらなかった。次の日曜日、真実と向き合う時が来た。
彼らの使命は、ヘンリー・フォスターを救い、村の過去の秘密を明らかにすることだった。時間は残り少なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます