猫のたまご

青猫兄弟

猫のたまご

 俺は四つん這いになって、毛布に包んだたまごをまじまじと観察する。これは……確かに猫の耳だ。しかしそれは、生まれたばかりの子猫の、丸みを強く感じさせるものではなく、ある程度育って三角形に見える耳だ。耳がここまで育っているなら、生まれるなり離乳食が必要かもしれない。

 僕はリサに急ぎ相談したくなり、這いずるようにテーブルのそばにいき、スマホを取る。リサにかけてみて、そうだ、異世界側はスマホ通じないんだと画面を見る。微かに、「電波の通じないところにあるか……」というアナウンスが聞こえる。

 電波が通じないのだから、それは仕方ないのか。

 俺はぞんざいにスマホをテーブルの上に放り出して、仰向けに寝転がる。

「あー、もう。どうすりゃいいんだ」

 リサは大事なときは大抵、異世界で勇者の仕事があるからと消息不明になる。いや、一応、異世界・ワズガルナにいて仕事をしていることが分かっているだけでも、消息不明とは違うのかもしれない。

 とはいえ、一回出かけたら土日も関係なく働き詰めだというリサの職業、勇者というやつはなんてブラックな仕事なんだろう。ろくにスマホの返事すらできないなんて。いやいや、電波が通じないんだった。

 まぁ、確かにドラゴンバスターのゲームでも俺、土日も昼夜も関係なくプレーしてたからな。異世界というのはあんな感じの世界らしいから、やはり勇者はブラック職業なのに違いない。

 俺は身体を起こし、またいそいそとそばまでいって、猫のたまごを観察する。この耳は、確かに猫の耳だろう。そもそも、見た目では何のたまごだかよくわからなかったのだから、本当に猫のたまごらしいとわかっただけでも情報が増えたんだと思い直す。


 リサがこれは猫のたまごだと持って帰ってきた日、俺は半信半疑であり、彼女に見られないようこっそりスマホで調べて、猫はお母さん猫から生まれることを確認した。猫のたまごなんて聞いたことがなかったからだ。

 俺はわからないことは自分で調べることができる。三流大卒の中小企業の平社員でも、ただの馬鹿じゃない。そして、それだけの知性がある俺だけに、これが異世界のものである可能性に行きつく。

「たぁくんさ、前にこのアパート、猫か犬かどちらか一匹飼えるって言ってたよね?」

 リサはあっという間に防具を脱ぎ捨てて、レオタードみたいな身体の線が丸見えの薄着で、畳の上に正座した。正座してこちらを見るリサはどう見ても日本人を含む東アジア人のお嬢様であり、異世界生まれであるとは信じがたい。背筋も視線も真っ直ぐで、ダークブラウンの瞳が迷いなく俺に向けられる。

「うん、飼えるよ。もとはさ、あーの、地球の犬猫ならって感じだったと思うけど、あの、何匹も飼ってる人もいるし、蛙飼ったり、中には鶏飼ってる人もいるじゃん?」

「毎朝うるさいあの鶏?」

「そうそう。あの鶏飼っても誰も文句言わないんだから、異世界の猫くらい、地球の猫と大差ないよ」

「あれ、どうして、ワズガルナの猫ってわかったの?」

「お、俺はリサの考えてることならほとんど分かるっていったじゃん」

「そっか。すごいね、たぁくん」

「お、おう」

 そのあとは押入から毛布を出してたまごを包むと、ついでに布団も出して更についでにリサを押し倒してと……、リサが仕事から帰って来た日のいつものパターンを過ごし、まったりした時間が来てから、俺はスマホで異世界の猫について調べた。

 異世界の猫については、情報が少なかった。ウィキには英語のページしかなくてスマホで訳しても意味が分からなかったし、北大の研究者の論文を見ても、日本語が難しくてよくわからなかった。ただし、「卵生」という言葉が出てきたから、異世界の猫がたまごから生まれるらしいことだけは確認がとれた。


 そんなわけで、俺は猫のたまごを毎日観察している。この猫耳は、ほんの一瞬目を離した隙に生えていた。よくよく観察すると、たまごを割って出てきたわけではなさそうなことに気づく。耳とたまごの殻がくっついている部分に小さなひびも隙間も見つからない。まるで誰かがリアルな猫耳を持ってきて瞬間接着剤で外からくっつけたのではないかと疑わしくなるほどだ。……疑わしくなるほどなのだ。

 俺は少し迷い、しかしすぐに意を決して、右手人差し指で猫耳に触れてみる。俺の指に逆らうことなく、くにゃっと曲がっていき、指を離すとすぐにぴんと元の形に戻る。

「弾力があるな……」

 俺は、今度はそっと撫でてみる。細かな毛がびっしりと生えており、そして、なんとなく温かい気がする。何回か撫でたあと、今度は耳の内側から生える長めの毛に触れる。

「毛に張りがある」

 ちょんちょん触ってその弾力を確かめてみる。柔らかいのだが、芯の強い感じだ。

 俺は急に湧き上がってきた衝動に駆られ、一瞬のためらいの後に、ふっと息を吹きかけてみる。

 ぴくっ。

「動いた……マジで猫の耳じゃね?」

 俺は疑っていたのではなく、なんというか、腑に落としたかったというか、確かめることで、ここに猫のたまごがあることを本当の意味で理解したかったのだ。

「異世界猫、ねぇ……」


俺が猫のたまごに耳が生えたと分かった次の次の日、リサが二週間ぶりに異世界から帰ってきた。

「たぁくん、ただいまぁ」

「うーん、リサちょっと待って」

「え、え、なんで」

「いい報せがあるんだ」

 子供じみているとは分かっていても、たまごに猫耳が生えたと知ったときの感動をリサにも味わわせたかったのだ。

「あのさ、たまごが……」

「え! もう孵ったの」

「それは違う、違うんだけどさ。感涙するなよ。ほら、こっち」

 俺はリサを招き入れながら、たまごの先端に指さしする。

「え! 可愛い」

「可愛いよな。一昨日さ、耳だけ生えてきたんだよ」

 リサは満面の笑みを浮かべて、そっとたまごに近づく。そのきらきら光る瞳を見たら、たまらなくなってリサを抱き寄せようとして、鎧の肩の部分にある棘みたいのが脇に刺さってひっくり返る。

「痛っ、ぐわっ、いつもいつも、なんだよこのハニー・トラップ!」

「たぁくん大丈夫?」

 人間の急所である脇から出血してて、大丈夫なわけはない。

「すぐに回復魔法で治してあげるからね」

リサが俺の脇の近くで手を広げると、薄ぼんやりした光がリサの掌から浮かび上がる。みるみるうちに傷が塞がり、元通りの俺の脇になった。回復魔法というのは、本当に便利なものだ。

「ありがと」

「ゴメンね。鎧だけ、とりあえず脱いじゃうね」

リサは手際よく鎧を脱ぎ捨てる。

レオタード風の薄着になったリサの身体が、たまごの横に座っていた俺のそばにくる。微かに、リサの汗の臭いがする。それは、全くもって不愉快ではない。

 俺はリサを抱き寄せて、リサが猫のたまごを見やすいよう身体を支える。自然とうなだれてくるリサの重みを愛おしく感じる。

「たぁくん、猫の名前、シュレディンガーにする?」

「シュレッダー?」

「シュレディンガー。犬はパブロフで、猫はシュレディンガーなんでしょ?」

「そうなの?」

「犬はポチやコロやパブロフで、猫がタマやミケやシュレディンガーなんじゃないの、地球で」

「……そんな気がしてきた。シュレビンガー?」

「シュレディンガー」

「シュレ? ディンガー? うん、よし、そうしよう」

「ありがと、たぁくん」

 リサの体重がふわっとなって、俺の頬に唇が触れる。そして、すぐにまた自然に俺に寄りかかる。

「耳、生えてるんだね、殻を割って出てきたのではなくて」

「うん、俺もそれ思った。あとさ、ときどき動くんだよ」

「動くの?」

「うん」

 俺はリサを支えてるのと反対の手をたまごのそばに置き、たまごに息を吹きかける。すると、耳がぴくっと折れ曲がり、すぐに元の三角に戻る。

「動いた。すごいね」

「うん、すごいよな」

「シュレディンガーの思考実験ではね、完全に密閉された実験空間の内側で、中の猫は、死んでいるか生きているかの両方の状態が重ね合わせて存在してるんだって」

「はぁ?」

「でしょ、おかしいよね? おかしいから、間違いなんだって」

 リサが嬉しそうに俺を見る。リサは俺の「はぁ?」を、話の内容を理解した上でおかしいと思ったように見たのだろう。しかし、俺はそもそも「中の猫が云々」の内容がさっぱり分からなくて「はぁ?」と言ったのだ。

 リサはとても賢くて、異世界・ワズガルナのこともよく知っている上に、この地球の科学や哲学もすごい勢いで吸収している。俺たちのデートといえば、市立中央図書館か県立図書館が定番なのだ。

「なあ、リサ。俺はそもそも何のことだかさっぱり分からないや」

「そうなの? でも、分からないことを分からないと言えるたぁくんはとっても素敵だよ。私、要するにね、耳が生えた今となっては、たまごの中の猫が生きていることが証明されたって言いたかっただけ」

「お、おう。それは、馬鹿な俺でも分かるよ! 耳あるし、息かけるとぴくってなるしな。猫はきっと順調に成長してるんだよ」

「うん」

 その日はいつもみたいに、たまごの猫(シュレディンガー)がどんな風に孵化するのか予想しあいながら、エッチなことして、ルンバーイーツで注文して遅めの夕食をとったり二人でシャワーを浴びたり布団を敷いたりしながらこまめにエッチを挟み、裸のまま寄り添って眠った。

 リサは賢くて優しくて何より超絶可愛くて、俺がバイトしてたバクロナルドでハンバーガーの買い方に戸惑っていたのを助けてあげたことで仲良くなれた。そりゃ、最高に嬉しかった。

 何回かデートして、ダメ元でプロポーズしたら同棲することになった。

 ワズガルナの風習では、結婚を決めたカップルは先に子作りをするらしい。いろんな種族が交雑し過ぎたワズガルナでは、カップルの組み合わせによって妊娠出産出来るかどうかは、やってみなければ分からないらしい。

 だから、先に子作りをして、最初の子を無事に妊娠出産出来てから正式に結婚する風習なのだという。

 俺とリサは朝も入念に子作りに励み、昼頃にシャワーを浴びて県立図書館デートに行くことにした。


 追い越してくる風に吹かれながら、坂道を上る。リサが振り返り、海だね、と微笑む。坂道の商店街を下った市街地の先に、ビル街や工業地帯など雑多な街の景色と、ほんの少しの海が見える。

「この街、好きだな。ワズガルナの石造りの町も素敵だけど、コンクリート? でできたビルとか、ひとつの建物に何百人も人が住んでるようなこの街の感じ、なんだかとても温かく感じるの」

「そうなんだ。俺は大学に入ってからずっと住んでるけど、温かいって感想は初めて聞いたかも」

「えー、だってたった二人でこうしてくっつくだけで温かいんだから、何十万人もいる街は温かいに決まってるよ」

 リサがぎゅっとしがみついてきた左腕で、リサの温もりを感じる。リサが言うなら、きっとそうなのだろう。地球の街は、温かいんだろう。

「そっか、そうだね」

「そんな気がした?」

「そんな気がした」

 坂道を上ってほどよく腹が減ったので、県立図書館に付属してるカフェでランチすることにした。

 リサは広げたメニューを少し眺めると、ボリュームたっぷりの豚しょうが焼きランチを指さした。リサは、ここに来るときいつも、豚しょうが焼きか鯖味噌のランチセットを頼む。ご飯はいつも、ランチタイム無料の大盛りだ。俺のサンドイッチセットと合わせて注文する。

 リサの耳慣れない鼻歌を聴きつつ、こんなおっとりとして優しいリサが、異世界で怪物たちと戦っている姿を想像してみる。

 リサは現在、ワズガルナの勇者として戦ってきた経験と能力を評価され、特殊自衛隊将補という肩書き(階級?)を与えられている。自衛隊の近代装備では戦えない怪物が多いため、数多くのワズガルナ人が特殊自衛官として日本政府に雇われ、怪物たちが日本に紛れ込まないよう戦い続けている。

「なあ、リサ。他の勇者たちの勧誘って進んでないの」

「ん。進んでるよ。こないだも風の勇者をリーダーとした冒険者パーティーが、特殊自衛隊に編入されたよ」

「その、風の勇者さんに後を任せて、リサは引退って訳にはいかないの?」

「無理だよ。産休や育休ならお互い様だけど、辞めるとなると話が違うって前もいったでしょ」

「野党が魔王の活動が減ったって言ってるのは嘘ってこと? 冒険者を雇うのは、政府が異世界の資源調査のためにやってるとかってやつ」

「ごめん。心配してくれてるのに悪いけど、資源のこととか、魔王のこととかは機密なの」

「機密、機密って、何でもかんでもさ……」

 俺はふてくされて口を紡ぐ。すぐ後悔したが、一度意地を張ってしまったものはそう簡単には引き下がれない。

 心配した通り、そのあとのデートの成り行きは最低だった。リサは必要最小限しか話さないし、俺は俺でリサの態度に腹が立ってしまいうまく言葉が出てこなくなり、気まずいままで時を過ごした。

 アパートに帰り夜になると、リサは何も言わず客用の布団をいつもの俺の布団から離れた場所に敷き、当たり前のようにそこで寝た。

 次の日は平日で、俺が仕事に出て、アパートに帰ってくると、薄暗くて狭い部屋に、リサの姿はなかった。

「なんで鎧も剣もないんだよ……」

 リサはまた、異世界で仕事なのだろうか。休みのときには、結界だとリサがいう、魔法陣の中に積まれているはずの装備一式がない。

「マジで最悪だわ……」

 俺は床に座り込んで頭を抱える。こんな気分でリサを待つことになってしまった。長ければ数か月も。そして……、考えたくなくなって、俺は猫のたまごに目をやる。

 リサは思考実験と言っていただろうか。箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が重ね合わせて両方存在しているとかなんとか。

 俺の頭ではその内容は全く理解できないが、すぐに、異世界のリサが生きている状態と死んでいる状態の両方存在していて……と考えが及んでしまい、その思考を打ち消す。

 しかし、多分、科学的には関係ないはずの平行世界のことを思い出し、リサが死んでいる世界線や、リサと出会えなかった世界線のことを想像してしまう。無限に考えられる何通りもの可能性の中で、かろうじて、細々と繋がった、俺とリサが出会えた世界線にいられたのに、俺は何をしているんだろう。

 どれだけ時間が過ぎたのか、部屋の中より窓の外の方が薄明るく感じられるくらい、夜が深まっていた。俺は泣いていたらしく、Yシャツの袖で顔をごしごしと拭いた。そのとき、猫のたまごがごろりと転がった。

 目をこらすと、たまごから細長い何かが生えて、不機嫌そうに毛布を繰り返し叩いている。

 俺は立ち上がって部屋の明かりをつけると、猫のたまごのそばにうずくまる。

「尻尾だ」

 毛布を叩き続けている尻尾に、抗えず俺は手を伸ばす。俺が触れると、ぴたっと一瞬動きをやめ、今度は大きく動き出す。

「凄え、凄えマジで」

 尻尾の根本は、耳と同じでたまごの表面に後から貼り付けたかのように隙間もひびもない。一体、どうやって生えてきたのか。これだけ立派な尻尾なら、生える途中の段階があってもよさそうなものなのに。

「魔法じゃないんだからさ」

 そう呟いてみて、案外、それかもしれないと考えを改める。リサが使ういろんな魔法のように、地球の物理法則をねじ曲げて突然現れたのかもしれない。

 俺がじっと猫の尻尾を観察していると、スマホの呼び出し音が響いた。

「はい、もしもし」

「あの、突然失礼しますが、中谷拓さんのお電話でよろしいでしょうか」

「はい、そうですが」

「私は多賀町警察署捜査二課で警部補をやってます、玉田といいます。本当に突然で恐縮ですが、中谷さんはリーザベル=サラトニアさんの婚約者さんで間違いないでしょうか」

 俺が肯定すると、玉田警部補はやや早口で事情を説明してくれ、リサを迎えに来て欲しいと言った。

 俺が二つ返事で答えると、玉田警部補は安心したように、多賀町警察への行き方や玉田警部補の呼び出し方を説明してくれた。

 通話を終えると、俺はスーツのまま財布や鍵を持って、多賀町警察に向かう。玉田警部補が言うには、リサが一般の地球人とトラブルを起こしてしまったようだった。

 トラブルというのは、ワズガルナ人コミュニティと街の若者たちの衝突に由来するものだったらしい。そこでリサが仲裁に入ろうとして、誤解が生じたのだと玉田警部補は言っていた。

 多賀町警察まで走っていけないこともなかったが、タクシーを見かけた俺は、すぐに手を挙げて停め、乗り込んだ。乗ってしまうと数分の道のりに過ぎず、千円札をサイドテーブルに置き、罪悪感からお釣りは不要と伝えて警察署内に駆け込む。

 夜間受付のカウンターには身体が縦にも横にも大きい警察官がいて、上手とは言えない笑顔で用件を聞き、ベンチを案内してくれた。

 大きな警察官の好意を無駄にできず、ベンチに腰をかける。しかし、席が温まるまでもなく、玉田警部補らしいよれよれのスーツを着た男性がエレベーターから降りて手招きする。大きな警察官が肯いてみせてくれるので、会釈を返してエレベーターに向かう。

「わざわざすみませんねぇ。彼女さん、始めは職場の人に電話かけたんだけど、そこで何を話したのか、やっぱり彼氏に連絡を取るって言ってね。こちらとしては誰かしら身元引受人がいないと都合が悪くて、そんなわけで連絡させてもらいました」

「リサがご迷惑をおかけして……」

「あぁ、いいんです、いいんです。ただの誤解ですから。こっち、ね」

 エレベーターを降りてすぐの場所に刑事課の案内板があり、テレビドラマで見たようなごたごたした雰囲気の部屋に入る。パーテーションの裏に連れていかれると小さな個室が並んでいた。

「たぁくん、ごめんね」

 リサの声に振り向くと、平凡なテーブルを前にちょこんと腰掛けた彼女が申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 俺は玉田警部補に促されるままに入室し、リサの隣の席に腰掛ける。

「中谷さん、ご足労いただいて申し訳ありません。リーザベル嬢も、お疲れ様ね。巻き込まれて大変だったでしょ」

 玉田警部補はそう言いながら俺の前の席に腰掛けて、机の端に寄せてあった書類に手を伸ばした。

「ほら、町外れにね、ありますでしょ。勝手に日本に来ちゃったワズガルナの人たちが住みついて、スラムみたいになっちゃってるところ」

 リサが身を乗り出す。

「あの、あれは亡命申請の受諾を待ってる人たちなんです」

「分かってます、リーザベル嬢。ちゃんと分かっていますから。――中谷さんそれでね、まぁ、よくもよくも毎日毎日揉めるんですよ。無理やり帰そうとする、半グレみたいなガキどもと、ワズガルナ人の男性たちが。それで今日はね、ワズガルナ人の子どもが小学校でいじめられたって男たちが騒いで、いじめっ子とされた男の子の家に押しかけたんですよ」

つまりは、元は子ども同士のトラブルだったのか。しかし……。

「小学校? 不法入国の人たちの話じゃないんですか」

「ワズガルナ人に限らず、不法入国者の子どもでもね、小学校に通えるんですよ」

「は? 不法入国じゃないんですか」

「ええ、そうですよ。不法に日本まで入り込んだだけで、亡命が認められた訳でもないのに、義務教育を無償で受けられるんです」

 俺は知らなかった事実に、驚きを隠せなかった。日本の法律を破って入ってきた人たちの子どもが、日本の税金で運営する小学校に通えるというのは、とても理不尽なことのように感じた。

 しかし、いや、そもそも不法入国ってどういうことなんだ? それに、亡命申請って何のことだろう。 亡命って、漢字だと、命が亡くなる? 殺されるってことか? そして、どうしてリサがそんなことに巻き込まれないといけないのだろう。

「あの、それで、どうしてリサがそれに巻き込まれたんですか?」

「たぁくん、それはね……」

 リサが話し出そうとしたのを、玉田警部補が手で遮る。

「リーザベル嬢、お二人の会話は、おうちに帰ってからにでもしてください。同棲してるんでしょ? 私は今しか中谷さんとお話しできないし、それが済まないとあなたを解放するわけにいかないんですよ」

 リサは不満げに玉田警部補を少し睨んだように見えたが、それを我慢するように視線を落とし、黙り込んだ。

「中谷さん、それでね、リーザベル嬢は不法入国の人々に支援をしているんですよ。炊き出しをしたり、仕事の斡旋をしたりね。無利子でお金を貸したりもしてるんです。ただでさえ不法入国者の扱いに大忙しなのに、そんな不法入国が勢いづくようなことをされると、まぁ、善意なんでしょうけど、こちらが取締りを厳しくしてる苦労が台無しなんですよ」

 俺はリサの表情と玉田警部補の視線をこまめに見比べながら、自分が二人の間に立たされていることに気づく。話の内容は、細かな部分をのぞけば理解できたような気がした。そして、そうなった以上、俺がやることは決まっていた。

「分かりました、玉田警部補。もう警察に迷惑はかけさせません。これからは、行動する前に必ず俺に相談してからやらせるようにします。だから、不法入国者やリサのことで困ったら、いつでも俺に連絡をください」

「うん、そうですか。中谷さんが監督してくださると。いや、助かりますよ。日本人同士でないと分からない話の機微みたいなのが伝えられるだけでずいぶん違いますよ。この件はね、外務省他多くの政府機関が関わってるんです。重大な問題になってしまうと、地球とワザガルナとの交流を停止するなんてことになりかねないんです。当然、あなたたちが結ばれることもなくなります。中谷さん、頼みましたよ」

 話のキビとかは、正直よく分からなかった。しかし、今、俺は、日本の警察に威圧されたのだということは、なんとなく分かった。

 その後は玉田警部補がいう「最低限必要な調書」のために協力をして、リサと二人、アパートまでの道をゆっくり歩いて帰った。

 そして、リサにワズガルナのことを聞いた。ワズガルナの話は、リサが苦い顔になってしまうことが多かったから、最近は聞かないようにしていた。しかし、今日のリサは辛そうな顔もせず、聞いたことにとても機嫌よく答えてくれた。

 ワズガルナというのは、古語では「大地」を指す言葉で、日本語の「世界」に相当する言葉らしい。そして、日本の異空間ゲートに繋がっているのはクァンヒクロ王国であり、リサのソコクだという。政治ケータイは王と大貴族のレンゴー国家に近かったとかで、とにかく、日本人が思う王様よりもうんと立場が弱く、そのせいで国内が不安定なのだという。グンユーカッキョの状態で、ナイセンが起きているのが当たり前の世の中らしい。

「それでね、戦争で畑や村が焼かれて避難する人や、自分の土地の領主と一緒に追い出された人がたくさんいるの。そんな人たちが追い詰められて、それでもなんとか生き抜きたいと思って、命がけでゲートを抜けてくるの」

 かわいそうだ。

 そう、俺は思った。かわいそうという感想が上から目線でおかしいような気も少ししたが、それでもなんでも、俺なりにかわいそうだというのは正直な自分の想いだと感じた。

「それで、せっかく日本までたどり着いたのに、誤解されて悪者扱いされてるのか」

 俺の視線に、リサは大きくうなずいた。

「リサが平日の休みの日に、俺が会社に行ってる間、何をしてるのか考えたこともなかったよ。何も知らないで、当たり前みたいに掃除して貰ったり、飯を作って貰ったりしてさ。土日は土日で、俺と過ごしてくれるのを当たり前のことだと思ってた。だけど、リサは仕事だけじゃなくて、休みのときに亡命してきたワズガルナ人のために頑張ってたんだな。今まで気づかなくてごめん」

「謝らないで。私が自分でやるべきと思ってやってることだし、土日にたぁくんと一緒にいたいのは、私もだし」

「これからは、俺もできる範囲でワズガルナの人のために何かやりたい。手伝わせてくれ、リサ」

 俺は歩きながら、横を歩くリサの表情に目をやる。リサの目がいつもより更に潤んで見えるのは、気のせいだろうか。俺は手を伸ばし、リサの手を取る。

「ワズガルナの人の支援、これからは俺も一緒だから」

 俺が力んでリサの手を強く握ると、リサからも強く握り返してくる。

 街灯が壊れている暗い交差点を通り過ぎるとき、普段は見えない星まで見えるような気がしたのは、俺の気のせいだろうか。

 アパートに戻った俺とリサは、真っ先に毛布の中のたまごを見に行った。耳だけでなく、尻尾も生え、いよいよ猫らしい姿になっていた。その話をしたときのリサの嬉しそうな笑顔をまた見たくて、たまごにかけておいた毛布を持ち上げる。

「あれ、いない?」

 俺もリサもぽかんと口を開けて、しばらく放心状態になる。

「あっ、そうそう、尻尾を動かして移動できるようになってたから、きっとその辺に……」

 俺が床を注意深く捜してみると、ミィーという、子猫の鳴き声のようなものが聞こえた。その音を頼りに捜してみると、耳をピンと立てた猫のたまごが見つかった。

 猫のたまごが、ぐらっと揺れる。ふらふらこちらに向かってくるたまごを、俺は思わず抱き上げる。

「足、たぁくん、足だよ!」

 リサが言うより先に、俺もそれに気づいていた。たまごから、四本の足が生えていたのだ。四本の足はだらっとぶら下がっていたが、地球の子猫の足と全く同じ見た目だった。

 俺は左腕でしっかりたまごを抱えると、右手で前足――猫の場合、よく手とも呼ばれる――に触れてみる。毛がほわほわしており、餅のように柔らかい肉球は、微かに温かかった。

 ミィー。

 たまごが鳴く。顔はまだ、たまごの殻の中にあるのに、くぐもった音にはならず、甲高く弱々しい子猫の鳴き声そのものだった。俺は一瞬リサと目を合わせると、たまごをそっと床に置く。

 たまごはふらっとよろつきながらも、すぐにしっかり踏ん張って、よろよろと俺に向けて歩いてくる。

「可愛い! 可愛いね、たぁくん」

「ああ、凄いよ。凄い……」

 ミィー、ミィー。

 猫のたまごは自己主張を続けながら、俺の足に擦り寄るような仕草をする。

「たぁくんのこと、お母さん猫だと思ってるのかな」

「え、俺がお母さん?」

「うん。たぁくんがお母さん」

 二人で、歩き始めた猫のたまごを観察したり呼んだりして遊んだ後、遅くなった夕食をルンバーイーツで調達して食した。

 座っている俺の腰にぴったり張り付いた猫のたまご……たまごの子猫? を撫でながら、俺は幸せな気持ちで胸が一杯になっていることを自覚した。


 週末、先に出かけたリサと待ち合わせをして、ワズガルナ人コミュニティに向かう。

 コミュニティのすぐ傍の公園では、ワズガルナ人受け入れ反対のデモの準備をしているようで、様々な髪色の若い男たちが鼻息荒く布袋からプラカードを取り出していた。

 視線を感じて広い道路を挟んだコミュニティのある側を見ると、いくつかの窓からこちらを見ている人がいた。

 俺は公園を抜けて、歩行者用信号がある横断歩道の前で立ち止まる。

「おぅい、あんた。そっちは治安がわりぃから行くのやめとけ」

 振り返ると、髪の毛を銀色に染めた若い男が、両手をポケットに突っ込んでこちらをにらんでいた。いわゆるおらおら系の、俺が苦手なタイプの男だ。

「そっちは外人が街を乗っ取っててあぶねぇからよ。何の用事だ? ことによっては何人か護衛つけてやっから」

 俺はどう対応すべきか考えながら、この手の人間のイメージとは違う印象を感じとった。簡単にいえば、心から俺のことを心配しているのだろうと感じられたのだ。

「いや、その、あっちに付き合ってる子がいて」

「あぁ? ワズガルナ人の彼女ってことかよ?」

「はい、まあ」

「大丈夫かよ、それ多分、美人局だぞ」

「あの、心配してくれて、ありがとうございます。でも、美人局とかではないので……」

 俺は視界の隅で信号が変わったのを感じとって、大急ぎで横断歩道を渡る。

「馬鹿野郎、本当にあぶねぇんだぞ。おい、あんた! やべぇ剣持った狂った女とかもいるからよ。おい!」

 それ、多分俺の彼女ですと内心で思いつつ、近くにあった小路からコミュニティの内側へと駆け込んだ。

 白い陽光が、開けた場所があるのを示した瞬間、俺は全身が宙に浮く感覚に襲われる。急にアスファルトの地面が近づいてきて、とっさに手を突き出すが、勢いそのままに身体が何回も転がった。

 ようやく止まることができたときには、次々に集まってくるワズガルナ人の男たちに囲まれていた。彼らの表情に笑顔などなく、むしろ眉を寄せ、警戒の眼差しを感じさせた。

 俺には全く意味の分からない言葉らしいものでまくしたてる男たちは、皆が日本人に似ており、似てると感じる程度に見慣れないものだった。彼らの目は血走り、少しの余裕もないように見える。

 俺はゆっくりと上体を起こし、頬の擦り傷か何かの痛みに耐えつつ、頑張って笑顔を作った。しかし、騒いでいる中でも一番目が充血している大声の男が片足を振り上げ……やられる、と俺は思った。

 男たちの喧騒の中で、大勢の人間に踏みつけにされる自分の姿が一瞬で想像できた。もしかしたら俺は、ここでワズガルナ人の男たちの私刑によって死ぬのだろうか。言葉も笑顔も通じず、お互い訳のわからない焦燥の中で、おそらくただの誤解によって死んでいく。そんなことで死ぬのは嫌だという言葉さえも伝えられずに。

 俺が自分の生を諦めたとき、聞き覚えのある声で、耳慣れない言葉らしき音が耳に入ってきた。男達の喧騒がやみ、片足を振り上げていた男も、そっとその足を下ろした。

「たぁくん、たぁくん! 大丈夫?」

「リサ……リサか」

 リサは怒った顔で、男たちに質問しているようだった。いくつかのやり取りのあと、俺はリサの回復魔法の光に晒されながら、リサから事情を聞くことになった。

 要するに、俺は半グレの日本人たちの仲間だと思われたらしい。公園で話しかけられたときの様子を見た何人かが、俺が男に命令されて突入してきたのだと仲間を呼んだらしいのだ。

「ごめんね、たぁくん。あの不良みたいな人たちとずっとにらみ合いで、みんな気が立ってるの。ホントにごめん。許してあげて」

「ん……、ああ。結果的にリサに助けて貰えたから」

 リサは安心したように微笑む。そして、少しきつい表情で男たちに話しかける。それを聞いた男たちは、少しずつ自分の元いた場所に戻っていくように見えた。

 リサの回復魔法は大したもので、あちこち痛かったものが、すっかり元気な状態に戻った。リサに抱えられて立ち上がることもできた。

「リサ、皆に誤解されるようなことして、心配かけて、かえってごめん。異文化に接するのって、難しいな」

 俺は心に浮かび上がった言葉をそのまま声に出してしまい、すぐに後悔する。何が良くなかったかは、リサの表情ですぐにわかった。

「あの……、だけどさ。だからこそお互いにわかりあうことも大切なんだよな。俺、頑張ってみたいんだよ」

「いきなりあんな目にあって、嫌になっちゃったんじゃないの。私には強がらなくていいよ」

 俺は大きく首を横に振る。

「俺、あんなかっこ悪いことになったけど、リサとワズガルナ人の役に立ちたいんだ。だから、ほら、リサが続けてきた支援を手伝わせて欲しい」

 リサが目に涙を宿しながら、笑っている。やはり、笑顔がめちゃくちゃ可愛い。

「さて、まずは炊き出しやるんだろ? あっちに見えるのがそう?」

「うん」

 なんとなく互いに目があって、笑みを浮かべる。鎧の棘に気をつけながら、俺はリサの身体に右腕を回す。

 炊き出しの用意をしているワズガルナ人の女性たちにあいさつをして、俺も調理に加わった。日本語の下ネタばかりを覚えている少し年上の女の人にからかわれつつ、ワズガルナで一般的に食べられているというお粥のような料理を見よう見まねで手伝っていく。

「たぁくん、これ、シュレディンガーも食べられるのかな」

 俺は出来上がった料理を見て、ご飯イン味噌汁の日本料理? いわゆる猫マンマみたいだと思った。

「これに似た料理を、日本では猫マンマっていうんだ。昔、日本が貧しかったころは犬や猫用のちゃんとした餌なんて用意できなかったから、人間の残り物をこんな風にして混ぜてあげてたらしい」

「じゃあ、シュレディンガー用に少し貰ってく?」

「ああ、いや、今の日本は豊かだから、猫には猫専用の餌があるんだ。その方が健康によくて長生きするらしいから、このご飯はシュレディンガー用にはあげない方がいいかな」

「ふーん。猫専用のご飯かぁ。ワズガルナでいう、魔獣の内臓みたいなものかな。臭みが強くて人間は食べられないけど、ワズガルナの犬や猫は喜んで食べるんだ」

「へぇ。うん、日本の猫の餌も、多分獣の内臓とか肉とかをうまく混ぜたものだと思う」

「そっか。今度それ買いに行こうね」

 料理が完成した様子を見た子どもやその家族が、少しずつ集まってくる。俺はリサと一緒に、集まってきた人々に列を作らせる役をすることになった。リサを通して少しだけ覚えたクァンヒクロ語を使って、列を作り、順番を守るように呼びかける。

「オニイチャン、アリガト」

 日本の小学校に通っている子どもは、順番を待つ間、片言の日本語で俺に話しかけてきた。俺はそのたびに、ゆっくりと「どういたしまして」と言い、微笑んでみた。

 俺は、意外と子ども好きなのかも知れない。そう思うほど、炊き出しに集まった子どもたちとのやりとりは楽しかった。

 料理もあと少しとなると、先ほど俺を囲んだ男たちも列に加わった。ばつが悪そうに会釈をする者もいれば、ボソッと「ごめんなさい」という意味の言葉が聞こえることもあった。俺はとにかく笑顔でなんにもなかったように接するようにした。あれはただの誤解だと思っているからだ。もしも、リサが来るのが遅ければ、俺は身体のいたるところを踏みつけにされて死んでいたのかも知れないけれど。

 最後に残った料理を、炊き出し担当の女たちと食べる。見た目だけでなく、味もどこか日本の猫マンマを思わせるもので、懐かしいうまさがあった。

 リサの隣でクァンヒクロの女たちと食事して雑談をしてみると、言葉こそわからなくとも、リサがとても尊敬されているのが良くわかった。

「なんか、リサって偉い人なんだな」

「こう見えても勇者だからね。小国だったけど、魔王国をひとつ滅ぼしたしね」

「えっ、魔王を倒したの? 魔王って、何人もいるの?」

「あっ……、今の、機密だったかも。でも、たぁくん、誰にも話さないでくれるよね?」

「当たり前だろ」

「うん。信じてる。それに、ワズガルナの人間なら誰でも知ってることだしね。そうなの、魔王っていうのは、聖教徒でない異民族の王のことで、普通は人種も違うの。彼らは邪神の加護によって人間には使えない強力な魔法を使えて、大抵は人間の国とは仲良くすることがないの。私が滅ぼした魔王国は、クァンヒクロの大貴族の一人と手を組んで侵攻してきたから、自衛隊の力も借りて討伐したの」

「へぇ……」

 俺はリサに気取られないように、微笑んでみせた。しかし、内心はパニックを起こしかけていた。

 俺は日本で知られているように、人間の国々に害を及ぼす魔族という化け物の王が魔王で、邪悪で強大な魔王が一人だけいるのだと思っていた。それが、実は単なる異教徒の国の王のことで、何人もいて、しかも、人種も人間と同じことがある――リサは普通は人種も違うと言った。なら、人間の国と人種が同じこともあるのだろう――なんて、全く聞いたこともなければ、想像したことすらなかった。俺や、普通の日本人の知らないところで、日本は、自衛隊は、人間同士の戦争に参加していたのだ。

「たぁくん? 大丈夫?」

「ああ。大丈夫。……うん、大丈夫だよ」

 俺はリサに笑顔を見せたが、内心では動揺が鎮まることはなかった。多分、俺は青い顔になっているし、必死で気を逸らそうとして身体の震えを抑えている。

 俺が平常心を失って立ち直れない理由のひとつは、リサが、こんなに可愛くておっとりして優しいリサが、人間の国をひとつ滅ぼしたことだ。俺は、リサが化け物の親玉を倒した英雄だというイメージをずっと持っていた。しかし、実際には、宗教が違うだけの人間の国を滅ぼしたということなのか。

「たぁくん、今日はこれくらいにして帰ろっか。買い物もやめてまっすぐ。晩ご飯は宅配がいいなぁ」

「ああ、うん、そうしよ……」

 身体の震えを隠しながら、やっとの思いで立ち上がる。リサの心配そうな視線が刺さる。リサが何気なく差し出してくれた手に、震えを抑えて力んでいる僕の手を伸ばす。

 そのとき、大きな声が響いた。次には男の叫び声がして、男たちの声が次々に聞こえて騒ぎになったのが分かった。

「たぁくんはここに居て」

 リサはそう言いながら、騒ぎ声の方向へ走り始めた。

 俺は少し迷ったが、今日はリサが剣を持っていないことを思い出し、心配になって走り始めた。先日リサが警察に任意同行したのは、男たちのトラブルの場に剣を持って行ったからだ。リサは特殊自衛官だから状況的に銃刀法違反にはならなかったが、相手が身の危険を感じて警察に通報したため、調書が必要になったらしい。

 リサがまた警察の厄介になるのは避けたかった。だから、俺は運動不足の身体を引きずってでもリサを止めたい。

 そう思いながら、ようやく狭い角を通り過ぎると、ワズガルナ人の男たちが大勢集まっているのが目に入る。

 俺はその人ごみに突っ込んで、一心不乱に男たちを掻き分けて進む。リサの姿は、すぐにわかった。人ごみを抜けていったその先には、顔を青くして呆然と立ち尽くすリサと、地面に倒れている日本人の男がいた。

 息が切れて何も話せない俺は、周囲の様子を見ることしかできなかった。ワズガルナ人の男たちと、数人の日本人の男。青ざめたリサと、倒れている日本人の男。それは、今朝、横断歩道の前で俺を心配していた男だった。

「ああ、あんた、無事だったのか。良かった……」

 男は激しく咳き込み、唇の端から血を流した。 

「戻ってくんのが遅えからよ、心配しちまったよ」

 また激しく咳き込む男のティーシャツが、胸から赤く染まっていく。そして、リサの鎧の肩にある棘に、赤い液体が付着している。

 それを見て、俺は大体のことを理解した。

 そして、何をしたのだろうか。

 よくは思い出せない。

 とにかく、色々なことがあって、色んなところへ行って、警察に色々話して、終わった頃には翌日の明るい時間になっていて、ほとんどの記憶が曖昧なのに、薄色の朝の光の中で、すっかり子猫の姿になったシュレディンガーに擦り寄られたことだけは、鮮明に覚えている。




 毎日二回、かなりの量のカリカリを食べるシュレディンガーはすっかり大きくなった。子猫というより、若猫としての生命力を宿してその人生――猫生? でなし得ないことなど何もないかのような自信に満ちた眼差しで、俺を見返している。

 俺はあの日からしばらく会社を休んだ。以前はブラック発言ばかりだった上司が信じられないほど親切になり、まず有給を使わせてくれ、そのあとも病気休暇ながら社会保険から給付金を貰えるように手配してくれたのだった。

 俺は時折、警察や弁護士事務所に出かけて色々な手続きをした。それ以外はほとんど引きこもった生活をしていたにも関わらず、俺は太らなかった。逆に極度の食欲不振が続き、すっかり痩せこけてしまった。

 あの日、俺を心配して日本人数人でワズガルナ人の街に侵入した男は、リサの回復魔法で事なきを得た。そして、検察や裁判所にあてて減刑の嘆願書を書いてくれた。

 しかし、あれは事故だから恨みはないが、ワズガルナ人の不法侵入は許すわけにはいけないと言い、おそらく今日も公園に陣取っているのだろう。

 事件から数ヶ月後、半グレたちとワズガルナ人の衝突を予見しながら警備を疎かにしていたとして、責任ある立場の警察官数名が処分されたらしい。その中に、玉田警部補が含まれているのかどうかまではわからない。

 リサとは、手紙のやりとりを続けている。特殊自衛隊を退職して実家の伯爵家に帰ったリサのお腹はかなり大きくなったらしく、俺が父親になる日も近いようだ。

 子どもが無事に産まれれば、俺とリサは晴れて夫婦となる。そうすれば俺がワズガルナに住む権利が与えられ、リサの実家に転がり込むことができる。

「もうすぐ家族が一緒に暮らせるんだよ、シュレディンガー」

 ナァーと、シュレディンガーが答える。そして、興味なさそうに後ろ足で耳の裏を掻き、その動作の延長で自分の腹を舐め始める。

 今こんなに元気にしているのだから、卵の中のシュレディンガーは、間違いなく生きていた。ワズガルナのリサも、地球の俺も生きている。その確率が何パーセントなのか、死と同時に存在しているのかどうかはさっぱりわからないけれど、実際生きているものは生きているのだから、死んでいる確率がどうのなんてどうでもいいんだ。

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