第14話:天井

「いいこと、ないかなぁ」


その人は、よくそう呟く。

朝のエレベーターで。昼休みの自販機前で。定時帰りのロッカーで。


でも、僕から見たらその人にはがいくつも起きている気がする。


昇給もして、健康にも気を使って、生活も整ってる。

試験にも受かって、趣味の旅行にも行っている。

人間関係だって穏やかそうで、誰とでも気さくに話している。


「いいこと、ありますよね・・・?」


思わず言ってしまった。


「頑張ってる分、ちゃんと返ってきてるっていうか。それって、良いことじゃないですか?」


その人は少し黙って、それから小さく笑って言った。


「それっていいことなの?行動に対する結果じゃない?いいことってのは・・・もっとこう、向こうから来るもんなんじゃないの?棚ぼたというか、こっちの意思とか関係なく」


僕は少し戸惑った。


「でも、いろいろ報われてるじゃないですか。資格も取ってるし、子どもも元気で、奥さんも優しそうだし」


しかし、その人は言う。


「いや自分はずっと何かと戦ってて、得たものは全部その代償だ」って。


「君は、違うの?」


その人は心の底から素直に聞いてきた。


たしかに僕は、資格もないし、昇給もしていない。

貯金も少ないし、週末は寝てばかりで、旅行にも行かない。

なにかに耐えてる実感もない。


ただ、なんとなく日々が続いているだけだった。


返す言葉を探すうちに、僕はぽつりとこぼした。


「・・・すみません。あんまり、意識したことなくて」


僕は戸惑って、何も返せなかった。

確かに、考えたことすらなかった。


今の自分が、努力の上に立っているかどうかすら。


その人はふっと笑って、空を見上げた。


「・・・いいこと、ないかなぁ」


その横顔を見ながら、僕は少し困惑した。


自分に起きていた、ってなんだったんだ?

何もしなくても崩れずに済んでいること?


この人は、少なくとも自分より長い道のりを歩き、その途中でいろんなものを拾ってきた。


自分はどうだろう。

棚ぼたみたいな、を、いくつか思い出すことはできる。


でも、それは努力と呼べるものとは違っていた。


この人にとっての「維持する努力」の中に、自分の「いいこと」はすっぽり収まってしまうのではないか。


僕のって、天井が低すぎるんじゃないか?


そう思ったとき、少しだけ寒気がした。

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