6章

6章-1 壊れた朝、新しい世界

目を開けた瞬間、自室の白い天井が広がった。


(……ここは……)


息が浅い。まぶたの裏に、赤黒い色が残っている。

胸の奥がざらつくように重く、手のひらには——何か、ぬるりとした感触が残っていた。


(やだ……この感覚……)


ユイはゆっくりと手を見つめた。

けれど、そこには何もついていない。血も、刃も、誰の声もなかった。


それでも、脳裏にははっきりと残っていた。

誰かの叫び。自分の叫び。あの、止まらなかった手。


(……夢?)


いや、違う。

夢にしては、重すぎる。感情が、皮膚の裏にこびりついて離れない。


ゆっくりと起き上がり、隣に置かれた制服に手を伸ばす。


指先が震える。

袖に腕を通すたび、あの時の自分が重なって見える。


鏡の前に立ち、制服の襟を整えた。

ぎこちない手の動き。顔は青白く、口元には力がない。


ふと、鏡の中の自分の手が、じわりと赤黒く濡れているように見えた。


(……あ)


瞬きすると、もう何もなかった。

鏡はただの鏡で、手も制服も、血などついていない。


心臓が、どくん、と小さく跳ねた。


胸元のペンダントに手を当てる。

そこからは、もう何の反応もない。ただ冷たく、重かった。


(私はもう、リョウくんを好きでいる資格なんてない)

(普通の学校生活なんて、送れるはずがない)

(私には……何も残ってない)


目を伏せる。


たとえやり直せても、取り戻せるものなんて、どこにもなかった。


それでも——


「行かなきゃ……」

自分に言い聞かせるように、呟いた。



 ▽



「ユイさんっ!!」


叫ぶようにして、リョウは飛び起きた。


荒く呼吸する。心臓が、爆音のように胸を叩いていた。

汗で湿ったシャツが肌に張りつく。喉は渇き、手が小刻みに震えている。


目の前にあるのは、見慣れた自室の天井。

けれど、その光景がどこか“現実感”を欠いている気がした。


(……夢?)


いや、違う。

あれは、ただの夢にしては——重すぎた。


刃物の光。

崩れ落ちる誰か。

返り血を浴びたユイの手。

そして、自分の腕に走る痛み。


胸が、ぎゅっと締めつけられる。


(でも、なんで……そんな場面を、俺が)


右腕を見下ろす。

そこには、何の異常もなかった。

それでも、皮膚の奥が、じんわりと熱を持っていた。


そっと手を当ててみる。


(確か……ここに、刃が——)


その記憶は、霧のようにぼやけていて、けれど生々しかった。


(……本当に、夢だったのか?)


現実のような、悪夢のような。

感情だけが皮膚の下に残っていて、それがどうしようもなく不快だった。


ゆっくりと呼吸を整えながら、ベッドの縁に座る。


制服に手を伸ばし、シャツの袖を通した瞬間——

ポケットの中で、何か硬いものに指先が触れた。


「……?」


手が止まる。


(なにか、入ってたっけ……)


小さい。冷たい。金属のような感触。

けれど、なぜそれがあるのか、まったく思い出せなかった。


指をかけて取り出しかけるが——思い直してやめた。


(……今は、見なくていい)


無意識にそう思っていた。

制服の上着を整えながら、リョウはカーテンを開ける。


朝の光が、部屋を照らす。


けれど、どこか遠くの世界の光のようで、

今この瞬間すらも、本当に“今”なのか確信が持てなかった。


(ユイさん……)


なぜ自分が、その名前を最初に叫んだのか。

理由はわからない。けれど、魂だけは覚えている気がした。


——何かが、また始まってしまった。


その予感だけが、静かに胸に残っていた。

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