第20話 使者来たる

 その日、祠の前に立っていたのは、見知らぬ男だった。

 黒いジャケットに革靴。

 山の土にも露にもまるで馴染んでいないその姿は、場違いそのものだった。


 剛は湯を沸かす手を止めなかった。

 火の揺れが、静かに男の影を切り取っていた。


 「初めまして、九頭竜さん。

  私は“あちら”からの者です」


 “あちら”とは言わずとも、すぐに察しがつく。

 闘技場――かつての試合の舞台。

 ただ殴り、斬り、倒すための場所。


 男は靴を汚すこともいとわず、地面に膝をついた。

 礼のようにも見えるが、その目には計算があった。


 「再戦の場を設けたいという声が、あちこちから届いています。

  “九頭竜剛”の最後の姿を見たいと。」


 剛は無言だった。

 火がひとつ、薪を崩した。

 パチ、と乾いた音がした。


 男は続けた。

 「報酬は、過去最高です。

  この山一帯が買える額を用意します」


 金の話。

 剛にとっては、意味のないものだった。

 だが、その“額”の大きさは、どれだけの視線が自分に集まっているかを物語っていた。


 「ただ立っていただくだけでも構いません。

  動かなくていい。

  それでも、そこに“剛”がいれば、それで成立するのです」


 剛は静かに、薪をくべた。

 火がまたひとつ、燃え上がる。


 「昔のおまえなら、即決だったな」


 それは、いつの間にか後ろに立っていた仲介人の声だった。

 先日、町で別れたきりのはずが、

 “使者”を連れて山まで来たらしい。


 「おまえが変わったのはわかってる。

  でもよ、“九頭竜”ってのは、やっぱりあの場が似合うんだよ」


 剛は立ち上がった。

 木刀を持ってはいない。

 だが、その姿勢は、何かを断つ者のようだった。


 「……もう、行く場所じゃない」


 初めて口を開いたその声は、火の音よりも静かだった。

 だが、明確に拒絶の色を帯びていた。


 男も、仲介人も言葉を失った。

 説得の文句は準備していただろう。

 だが、今の剛の“在り方”の前では、どれも意味を失っていた。


 それでも男は一枚の封筒を置いた。

 「場所と時間だけは、ここに」


 それだけ言い残して、二人は山を下りていった。

 足音が遠のき、風が戻ってくる。


 剛は火の前に戻ると、何も言わずに湯を注いだ。

 そして、封筒を取ることもなく、ただ静かに腰を下ろした。


 火が揺れる。

 その先に、答えはなかった。

 だが、心のどこかが、再び試される音を聞いていた。

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