第19話 在ること、消えること

 青年は、次の日も来た。

 その次の日も。

 さらにまた、同じように。


 剛は何も言わなかった。

 木刀を渡すこともなければ、教えることもない。

 ただいつも通り、火を焚き、水を汲み、木の前に立つ。


 青年もまた、黙ってそれを見ていた。

 最初の数日は、何かを得ようと必死だった。

 剛の動きに意味を見出そうとし、息遣いに法則を探そうとした。


 だが、何もなかった。

 変化も、成果も、言葉すらない。


 四日目の朝、青年は問いかけた。

 「……俺がここにいる意味って、あるんですか?」


 剛は火を見ながら、答えた。

 「意味がほしいなら、他所へ行け」


 それきりだった。


 青年はその日、夕方まで何も言わずにいた。

 帰り際、祠の前でふと立ち止まり、木に向かって一礼した。


 翌朝もまた来た。

 もう、何も求めていないような顔だった。

 ただ、そこに居る。

 ただ、剛の背を見つめる。


 その日、剛がふと立ち上がり、林の奥へ歩いていった。

 青年も無言でついていった。


 小さな空き地。風が抜け、日が差し込む場所。

 剛は、立ち木の前に立った。

 木刀はない。構えもない。


 青年もまた、木の前に立った。

 そして、自分で何もせず、ただ“立ってみる”ことを試みた。


 最初のうちは、意味がわからなかった。

 何も起きない。

 風が吹き、鳥が鳴き、木が揺れる。

 だが、それだけだった。


 しかし、数分が経ったとき。

 ふと、自分の“輪郭”が曖昧になったような感覚が訪れた。


 腕の位置がわからなくなる。

 足が、地面と一体になった気がする。

 自分が“ここに立っている”という実感が、希薄になっていく。


 「……消えていく……?」


 青年がそう呟いたとき、剛が初めて言葉を返した。


 「それが、“在る”ってことだ」


 青年は、理解できなかった。

 けれど、涙が出そうになった。

 理由はわからなかった。

 ただ、自分が“誰かにならなくていい”という気配の中にいた。


 その日、山を下る道で、青年は空を見上げて笑った。

 何かを学んだわけではない。

 だが、何かが“剥がれた”。


 強くなるために来た。

 でも今は、

 強くならなくてもいい時間を生きている気がしていた。

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