第16話 闇試合の誘い

 その日、剛は町へ下りた。 薪を売り、米と味噌を手に入れるため。 それだけのはずだった。


 だが、店を出た瞬間、風向きが変わったように感じた。 空気に含まれる気配。 懐かしく、そして鈍く、湿ったもの。


 「よう、九頭竜」


 声の主は、かつての仲介人だった。 背は低く、顔は細い。 笑うときだけ口元が持ち上がる、蛇のような男。


 「山に篭ってるって聞いたが、生きてたんだな」


 剛は何も言わなかった。 ただその声と気配に、“戦場”の記憶がよみがえる。


 男は構わず続けた。 「ちょうどいい話があってな。昔の場所だ。昔みたいに暴れてくれりゃ、それでいい」


 剛は返事をしなかった。 米袋を持ち直し、その場を離れようとする。


 「おまえはただ強けりゃいい。技とか流派とか、そんなもん関係ねえ」 「こっちは、強い奴が必要なんだ。おまえは昔からそれだった」


 その言葉が、剛の足をわずかに止めた。


 仲介人は一歩、距離を詰めた。 「また“九頭竜”が戻ってきたって噂が立てば、それだけで話題になる。頼む、もう一度だけでもいい」


 剛の呼吸が、わずかに乱れる。 どこか、心の奥が揺れる。


 それはかつての場所。 かつての自分。 だが、今とは隔たりがある。


 沈黙が流れる。 仲介人が最後に言った。 「いつでも連絡くれ。おまえの席は、まだ空けてある」


 名刺も連絡先も渡されなかった。 ただ、“気配”だけが置かれていった。


 その夜、剛は火の前で長く座っていた。 木刀を持たず、構えもせず。 ただ火が燃える音と、薪の焦げる匂いを聞いていた。


 迷っていた。


 かつてなら、迷わず乗っていた。 今は、迷いがある。


 あの場所に、もう自分の居場所はあるのか。 いや、それ以前に――行く意味があるのか。


 剛は、薪を一つ火にくべた。 パチ、と音がして、火が跳ねた。


 夜の山は静かだった。 風もない。 だが、剛の中だけは、音を立てず揺れていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る