第5話 木刀の間
朝霧が薄く立ちこめる山の中。
祠の前に立つと、すでに伝承者は木刀を手にしていた。
その姿を見て、剛は自然と立ち止まった。
「今日は構えろ」
その言葉に、剛は深く頷き、木刀を受け取った。
構える。
無意識に足が開き、膝が落ち、剣先が前に出る。
同時に、胸の奥が重くなる。
構えた瞬間、自分が“縛られた”気がした。
伝承者は、構えていなかった。
足も開かず、木刀は下げたまま。
それなのに、剛は一歩も動けなかった。
目の前の空間が、異様に遠い。
距離としては三歩ほど。届くはずだ。
だが、空気が厚い。
まるでそこには、“世界の裂け目”のような何かがあった。
剛は足を前に出そうとした。
が、踏み出せない。
膝がわずかに震え、木刀の先が下がる。
「その構えでは、間に入れん」
静かに言われたその一言に、
剛は自分が“構えた”つもりで、ただ硬直していただけだったと気づく。
「構えとは、形じゃない。
踏み込める心と体が一致して、初めて立つ」
剛は黙って構えを解いた。
汗が背中を伝い、額から垂れる。
何もしていない。
それなのに、全身が消耗していた。
伝承者は木刀を脇に置き、
薪を拾い、火を起こしに向かった。
それが合図のように、稽古は終わった。
剛はその場に立ち尽くしていた。
風が吹いた。
枝が揺れ、鳥が羽ばたいた。
目の前の空間は、もはや“距離”ではなかった。
そこには、確かに“何か”がある。
斬るべき敵でも、倒すべき対象でもない。
ただ、“触れてはならないもの”があった。
それが、木刀の“間”だった。
剛はその日、木刀を一度も振らなかった。
だが、確かに“何か”を知ってしまった。
自分の中の戦い方が、少しずつ崩れていく音がした。
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