19/葛藤
あの川辺での出来事から数日後、僕はまだ自室で一人、深く考え込んでいた。あれ以来、僕はコハルを避けていた。
指先には、まだコハルの唇の感触が残っているようだった。温かく、柔らかく、少し湿っていて、そして、あまりにも親密な、あの『触感』。
僕は、触感図鑑を開く気にはなれなかった。あの唇の感触を、言葉にして記録することが、恐ろしかったからだ。それは、僕の歪んだ執着の、決定的な証拠となってしまう気がした。
(このままでは……ダメだ)
強い危機感が、僕の全身を貫いた。あの時、僕は確かに一線を越えた。それは、僕の触覚への探求という範疇を、完全に逸脱していた。あれは、ただの『調べ物』ではなかった。
(このままでは、コハルとの関係が……壊れてしまう……)
僕の歪んだ好奇心と、彼女の無垢な信頼。その危ういバランスの上で成り立っていた僕たちの関係は、あの唇への接触によって、僕の中で決定的に変質してしまった。僕がこのまま、自分の欲求に従い続ければ、コハルを、取り返しのつかない形で傷つけてしまうかもしれない。彼女の純粋さを利用し、危うい方向へと導いてしまう。その想像は、僕に耐え難いほどの恐怖をもたらした。コハルを傷つければ、彼女といることで少しだけ色づき始めた僕の世界が、また灰色に戻るどころか、もっと暗い色に染まってしまう気がした。
(なぜ、あんなことをしてしまったんだ……?)
自分に問いかける。触覚への探求心? 未知なるものへの好奇心?
いや、違う。それだけではなかったはずだ。
もし、あれがただの好奇心ならば。もし、コハルが、僕にとってただの友達でしかなかったならば。僕は、あの時、彼女の問いかけに、躊躇したはずだ。「それはダメだよ」と、言えたはずだ。彼女の無邪気さにつけ込むような真似は、しなかったはずだ。
(僕は……コハルを)
言葉にするのが怖かった。けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
(僕は、湖春が好きなんだ)
その自覚が、雷に打たれたように、僕の心に突き刺さった。単なる友達としてではない。僕の世界を変えてくれた、特別な存在として。僕の奇妙な趣味を「面白い」と言ってくれた、あの笑顔。僕の鈍い感覚を理解し、触れて伝えてくれた、その優しさ。そして、僕に「好き」だと、真っ直ぐに告げてくれた、あの時の顔。彼女が僕の世界にもたらしてくれた、わずかな色彩や音、温かい感情。
湖春が好きだから。彼女に特別な感情を抱いていたからこそ、僕は、あの時、彼女の唇に触れたいという、抗いがたい欲求に従ってしまったのだ。彼女が僕を受け入れてくれたことに、歪んだ喜びを感じてしまった。
それは、僕が今まで触感図鑑に記録してきた、どんな物への探求心とも違う。湖春という、特定の人間に対する、僕自身の感情に基づいた行動だった。
その事実に気づいた瞬間、僕は新たな恐怖に襲われた。
湖春が好きだという、この気持ち。それは、僕を正しい道へと導くどころか、僕の中の『触れたい』という歪んだ衝動と結びつき、僕を際限なく危険な領域へと駆り立てる。このままでは、僕は湖春を求め続けてしまうだろう。もっと深く、もっと多く、彼女の『触感』を。手足や服の上からのごく軽い接触、唇に指で触れること。今はまだ世間的にはまだギリギリ、仲の良い友達同士のじゃれあいで済む範疇かもしれない。だが、いつか、本当に取り返しのつかない過ちを犯してしまう。
(怖い……)
僕自身が、怖い。湖春を求める、この気持ちが。そして、その気持ちに抗えないかもしれない、弱い自分が。
僕は、机に突っ伏し、頭を抱えた。あの川辺での、湖春の唇の感触が、僕を苛む。それは、僕の探求の頂点であると同時に、僕たちの関係が後戻りできない地点に来てしまったことの証だった。
どうすればいい? この気持ちを、どうすればいい? 湖春との関係を、どうすれば…?
答えは、見つからなかった。ただ、深い後悔と、自分自身への恐怖だけが、ずっと僕の心の中で、暗く渦巻いていた。
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