20/決別

 自室の静寂の中で、僕は机に突っ伏したまま、動けずにいた。頭の中では、後悔と恐怖が、黒い渦となって僕を飲み込もうとしていた。

(僕は…なんてことを……)

 何度目かもわからないほど、その言葉が繰り返し頭の中を巡っている。

 僕は、ゆっくりと顔を上げた。窓の外は、もう夕暮れの色に染まり始めていた。僕の鈍い視覚でも、空がオレンジ色と灰色に混じり合っているのが分かる。それは、僕の心の中の、湖春がもたらしたわずかな光と、僕自身の深い闇が入り混じった混沌とした状態を映し出しているかのようだった。

 机の上には、触感図鑑が置かれている。あの唇の感触は、まだ記録されていない。けれど、この図鑑自体が、僕の歪んだ執着の象徴だ。

 ……『触感図鑑』は僕の世界そのものだった。色も音も匂いも曖昧な僕が、世界と繋がるための唯一の手段。けれど、今は、この図鑑こそが、僕を歪ませる元凶のように思えた。この歪んだ触覚への執着が、僕をここまで追い詰めたのだ。

 湖春との日々を思い出す。初めて公園で会った日。僕の奇妙な行動を「面白い」と言ってくれた、あの笑顔。一緒に鉄柵やツタを触ったこと。僕の感覚を理解して、手を引いてくれたこと。僕に「好き」だと告げてくれた、あの時の頬の赤み。彼女の声、彼女の匂い、彼女が僕の世界にくれた、ささやかな彩り。

 彼女は、僕の灰色だった世界に、光をもたらしてくれた。僕の孤独を、少しだけ癒してくれた。彼女といる時間は、僕にとって、かけがえのないものになっていた。

 だからこそ、このままではいけない。僕自身の問題だ。僕のこの、触覚への異常な執着が、湖春という存在と結びつくことで、制御不能な怪物になりつつある。このまま彼女のそばにいれば、僕は自分の衝動を抑えきれなくなるだろう。僕の愛情は、僕自身を律するにはあまりにも弱く、むしろこの衝動を加速させるかもしれない。

 僕が変わらなければならない。この歪んだ執着から、僕自身が抜け出さなければならない。

 そのためには、環境を変える必要がある。湖春から物理的に距離を置くだけでなく、僕自身が、この場所から、この日常から、離れる必要がある。新しい環境で、自分自身と向き合い、この歪んだ感覚を克服しなければ。

(そうだ……学校……)

 来年、僕は高校生になる。この小さな田舎町の高校に進むのが当たり前だと思っていた。でも、違う。

(県外の学校へ行こう)

 遠い街の学校……全寮制がいい。そこなら、誰も僕のことを知らない。湖春もいない。僕の過去を知る人もいない。新しい環境で、僕は変われるかもしれない。この、自分でも制御できない衝動から、逃れられるかもしれない。

 その決意は、僕に新たな痛みを伴った。湖春と別れること。この町を離れること。それは、僕の世界から光を奪うことのように思えた。けれど、それ以上に、僕自身が怪物になってしまうことへの恐怖、そして、変わらなければならないという強い意志が、僕を突き動かした。

 僕自身が、このままでは壊れてしまう。この歪んだ衝動に飲み込まれてしまう。けれど、それ以上に、湖春を傷つけたくない。だから、僕は行くんだ。

 僕は、固く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む感触だけが、今の僕をつなぎ止める、唯一の現実だった。

 決めた。

 県外の学校へ行く。そして、変わる。

 それは、僕がこれまで生きてきた中で、最も辛く、最も重要な決断だった。触感図鑑の世界に閉じこもっていた僕が、初めて、自分自身の問題と向き合い、未来を変えるために、大きな一歩を踏み出すことを決めた瞬間だった。

 僕は、机の上の触感図鑑を見つめた。これもまた、僕を過去に縛り付ける鎖なのだ。これとの決別も、必要だろう。

 窓の外は、もう完全に夜の闇に包まれようとしていた。僕の心の中も、深い闇に沈んでいた。けれど、その闇の底に、一つのか細い決意の光が灯っているのを、僕は確かに感じていた。それは、未来への、そして自己変革への、痛みを伴う希望の光だった。


 決意を固めた僕は、翌日、いつものように僕の前に現れた湖春に、ただ一言だけ告げた。

「来年から、県外の学校に行くことにした。だから、勉強しないと……もう、遊べない」

 余計な説明はしなかった。僕の内心の葛藤や、この決断に至った本当の理由を話せば、それは結局、彼女を傷つけることになると思ったからだ。僕の突然の言葉に、湖春は目を丸くして、言葉を失っていた。その驚きと、悲しみが入り混じったような表情を見るのが辛くて、僕はすぐに背を向け、彼女の前から立ち去った。

 自室に戻り、僕は本棚に並んでいた数十冊の触感図鑑を全て取り出した。石、木、布、金属、そして……湖春の肌の、秘密の記憶。指先で、一番古いノートの、ざらついた表紙をそっと撫でる。孤独な僕を支え、世界と繋げてくれた唯一の術だった。僕の世界そのものだったこれらのノートを、僕は一瞬だけ強く握りしめ、そして迷わずゴミ袋に放り込んでいった。

 湖春と出会い、彼女と触れ合う中で、僕の世界は確かに広がった。色も音も匂いも曖昧だった僕の世界に、彼女は光と、温もりと、そして複雑な感情をもたらしてくれた。もう、この図鑑に頼らなくても、僕は世界と繋がれるのかもしれない。いや、繋がらなければならないのだ。この歪んだ執着を断ち切るために。

 それからも湖春と顔を合わせることはあった。雑談もした、だがあれ以来、一度も触れる事も、一緒に「調べもの」に行くこともなかった。僕は勉強に打ち込むことで、湖春を僕から遠ざけていった。


 そして僕は県外の、少し偏差値の高い全寮制高校に合格した。

 進学のための引っ越しで家を出る前、最後に、湖春がもう一度、僕の家の前にやってきた。瞳には涙を浮かべて。その潤んだ瞳が、僕の決意を鈍らせそうだった。

「……センくん、たまには、帰ってくるよね? また、すぐ会えるよね?」

 彼女の声は、震えていた。僕は、彼女の顔をまっすぐに見ることができなかった。

「……うん」

 それが、僕に言える精一杯の言葉だった。嘘になるかもしれない、と分かっていながら。

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