18/唇
あの丘の上での出来事、そして僕の部屋での髪への接触。それらを経て、僕とコハルの間の空気は、微妙に変化していた。僕の内心には、彼女を傷つけてしまうかもしれないという恐れと、コハルの変化に対する戸惑いが渦巻いていた。けれど、コハル自身は、僕への信頼と好奇心を失うことなく、以前と変わらず、あるいはそれ以上に、僕に無邪気な信頼と感心を寄せ続けていた。
その日、僕たちは、近所の川辺の芝生の上にいた。夏の日差しが柔らかく降り注ぎ、草の緑が目に眩しい。草の匂いが風に乗って運ばれてくる。川のせせらぎの音が、心地よく耳に響いた。僕は、川岸に生える葦の茎の、節くれだった硬い感触を調べていた。
コハルは、僕の隣で、仰向けに寝転がり、空に浮かぶ雲を眺めていた。時折、僕の『調べ物』を覗き込んでは、何か面白いことでも見つけたかのように笑った。その笑い声が、空に吸い込まれていくようだった。
葦の感触は、僕の触覚を確かに刺激したが、僕の意識は、隣に寝転がるコハルの存在に、強く引きつけられていた。彼女の体の線。呼吸に合わせて上下する、薄いワンピース。風に揺れる髪。そして、僕の指先が記憶している、彼女の肌の、特別な『触感』。彼女から漂う、あの甘い石鹸のような香り。
(もう、戻れないのかもしれない……)
僕の探求心は、コハルの触感を知ることで、取り返しのつかない領域へと進んでしまった。このままではいけないと感じながらも、僕の触覚は、まだ知らない、コハルの体の、特別な場所の『触感』を渇望していた。それは、彼女の顔の中心にある、柔らかく、ほんのり色づいた部分――唇だった。僕の曖昧な視覚でも、その部分だけが特別な色を持っているように見えた。
その時、コハルが、仰向けのまま、僕の方へ顔を向けた。そして、僕が葦の茎に触れている手を、じっと見つめた。
「…センくん」
彼女の声は、いつもより少しだけ、静かだった。その静けさが、僕の注意を引きつけた。
「…まだ、調べてるの?」
「…うん」
僕は短く答えた。僕の視線が、無意識のうちに彼女の唇に向けられていたことに、僕は気づいていなかったかもしれない。
コハルは、しばらく黙って僕の顔を見ていた。僕の視線の先に気づいたのか、突然、ゆっくりと体を起こした。
僕が、彼女が何をするのかと見ていると、コハルは、僕の目をまっすぐに見つめたまま、少し不思議そうな顔をして、自分の唇に、人差し指をそっと当てた。
「ねぇ、センくん……ここも、調べる?」
彼女は、僕が唇を気にしていることに気づき、それを僕の触感図鑑のための探求の一環だと、純粋に解釈したのだろうか。あるいは、僕の視線から、僕がそこに特別な興味を持っていることを感じ取り、彼女なりに応えようとしたのだろうか。それとも、僕の探求が、どこへ向かおうとしているのか、彼女自身も確かめたいと思ったのだろうか。
その無邪気な問いかけと仕草は、僕の心を激しく揺さぶった。唇。それは親密で、個人的な場所だ。そこに触れることは、太腿や胸に触れた時とはまた違う、決定的な意味を持つように思えた。
恐れと、好奇心。そして、目の前の、抗いがたい誘惑。僕の中で、何かが決定的に変わってしまいそうな予感がした。理性が、抑えきれない衝動の前に、力を失っていくのを感じた。川のせせらぎの音が、遠くに聞こえる。
僕は、まるで何かに操られるように、震える手を、コハルの、その場所へと伸ばした。
指先が、彼女の柔らかく、少しだけ湿り気を帯びた唇に触れた。
触れた瞬間、僕の脳内で、言葉にならない感覚が、嵐のように吹き荒れた。世界から色が消え、音が止み、ただこの一点の感覚だけが存在する。
『コハルの唇。温かい。体の内側の熱が直接伝わるよう。湿り気。微かな潤い。柔らかさ、究極の柔らかさ。熟れた果実のよう。花びらのよう。脆さ。指先で壊してしまいそうなほどの繊細さ。滑らかさ、肌とは違う、粘膜特有の吸い付くような滑らかさ。微細な縦皺。複雑な形状。未知の地形。触れることで、彼女の呼吸、言葉、感情の源に触れているような感覚。禁断。未知』
そして、激しい、心臓の鼓動。
それは、僕が今まで経験したことのない、最も親密で、最も危険な『触感』だった。僕の触覚は、その未知の領域を探求することに、完全に没入していた。指先が、その柔らかく、湿った感触を、繰り返し確かめる。唇の輪郭をなぞり、その中心のわずかな隙間に触れる。
コハルは、目を閉じて、静かに息をしていた。彼女の表情は、苦痛でも、快楽でもなく、ただ、何か未知の感覚に身を委ねているかのようだった。閉じられた瞼が、微かに震えているのが見えた。僕の指先の動きに合わせて、彼女の唇が微かに震える。彼女は、僕の探求を、ただ受け入れていた。その信頼の重さが、僕の指先にのしかかるようだった。
僕は、自分の指先が、コハルの唇に触れているという事実に、激しいめまいを感じた。僕の心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っている。これは、もう触感図鑑のための探求ではない。これは、僕たちの関係を決定的に変えてしまう、危険な一線だった。
(僕は……なんてことを……)
後戻りできない、という感覚が僕を襲った。僕は、この無垢な少女との関係を、僕自身の抑えきれない衝動によって、決定的に変えてしまったのかもしれない。彼女の純粋な信頼と好奇心を、危うい方向へと導いてしまったのかもしれない。このままでは、僕の衝動はどこまでもエスカレートし、本当に取り返しのつかないことになるだろう。
僕の指先は、まだ、コハルの温かく、湿った唇に触れている。そこから伝わる『触感』は、僕にとって究極の発見でありながら、同時に、僕たちの関係がもう元には戻れないことを示す、消えない記憶となるだろう。
この瞬間、僕たちの関係は、決定的に変質してしまったのを感じた。もう、以前のような無邪気な関係には戻れない。僕の衝動は、僕たちを後戻りできない場所へと連れてきてしまったのだ。その恐怖が、僕の全身を凍りつかせた。
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