10/接近
あの、公園での偶発的な接触から数日経った。
僕は、あの時の衝撃を忘れられずにいた。コハルの肌の、あの信じられないほど完璧な触感。それは僕の世界を塗り替えてしまうような、強烈な体験だった。
幸いなことに、コハルはあの時の僕の奇妙な反応を気にしていないようだった。あるいは、何かを感じ取っていたのかもしれないが、それを深く追求することはなかった。ただ、少しよろけたところを支えてくれた、それくらいにしか思っていないのだろう。彼女は、その後も変わらず、僕を見かけると明るい声で話しかけてきた。その声を聞くと、僕の心臓が少しだけ速くなるのを感じた。
そして、僕が何かを調べに行こうとしていると、「私もついていっていい?」と無邪気に尋ねてきた。
僕は触感図鑑の対象を探し、コハルはただ、僕の隣にいて、僕の行動に興味を示す。その日常の中で、僕たちの間の距離は、物理的にも、心理的にも、少しずつ縮まっていった。彼女と一緒にいると、世界の輪郭がほんの少しだけ、はっきりするような気がした。
ある日、いつものように公園に向かっていた時のことだ。舗装されていない、少しだけ歩きにくい道を歩いていると、コハルが小さくよろめいた。
「あっ」
反射的に、僕は手を伸ばした。今度は、ごく自然に、彼女の手を取ろうとした。
コハルの小さな手が、僕の少し大きな手に収まった。
触れた。今度は、偶然ではなく、僕が、能動的に。
手のひらには、細かな皺がある。人生の物語が刻まれた、微細な地形。それは僕の指先にとって、未知なる、そして信じられないほど美しい風景だった。皮膚の微細な凹凸、指先の丸み、骨格の微かな形。それらが、まるで完璧な芸術作品のように、僕の触覚に訴えかけてくる。
初めて触れた時の衝撃的な輝きは、少し落ち着いたかもしれない。でも、その代わりに、もっと穏やかで、深く、そして抗いがいのある甘美さが、この触感にはあった。温かくて、柔らかくて、指先に吸い付くように馴染む、コハルの手。繋いだ手から伝わる温もりと共に、彼女の楽しそうな声や、時折見せる笑顔が、僕の意識の中に流れ込んでくる。
脳裏に、『コハルの手のひら。温かい。公園の鉄柵やツタの冷たさとは全く違う、内側から発光するような命の温かさ。そして、柔らかい。僕が知っているどんな柔らかい布よりも、比べ物にならないくらい柔らかい。まるで、まだ固まる前の、形のない光を握っているような』と、触感図鑑に書き込むべき言葉が浮かんだ。けれど、現実の僕は、彼女の手を握ったまま、平然を装わなければならない。
コハルは、僕が手を繋いだことに何の疑問も抱いていないようだった。いや、少しだけ驚いたような、そしてすぐに嬉しそうな表情になった。僕の手をぎゅっと握り返し、少しだけ弾むような足取りで歩き始めた。その軽やかな動きが、僕の目にも映った。
「センくん、こっちこっち!」
彼女は、繋いだ僕の手を引きながら、公園の入り口を指差した。その仕草が、僕にとっては新鮮だった。誰かに手を引かれて歩く感触。そして、それがコハルであること。
僕は、コハルに引かれるまま歩きながら、繋いだ手の感触から得られる情報に、密かに集中していた。彼女の体温、歩くリズムに合わせて伝わる微かな力の変化、そして、この生きている、温かい「肌触り」が放つ、言葉にできない安らぎと快感。それと同時に、彼女の楽しげな声や、時折向けられる笑顔が、僕の世界を温かく照らしている。それは、僕の世界を、少しずつ変えていく力を持っているような気がした。
また別の日のこと。僕は家の前で、触感図鑑用の道具を確認しているところだった。道に出てみようか、と思っていた矢先、隣の家のドアが開く音がした。
コハルだ。彼女も、どこかへ出かけるのだろうか。僕を見つけると、いつものようにパッと明るい笑顔になった。その笑顔が、朝の光の中でひときわ輝いて見えた。
「センくん! おはよう!」
コハルが駆け寄ってくる。その自然な行動に、僕はどう応じればいいか少し迷う。
「…おはよう」
僕は小さく返した。
コハルは僕のすぐ隣に立ち、何をするでもなく、僕の鞄の中を覗き込もうとする。その時、僕は反射的に、コハルの肩に、軽く、ポン、と手を置いた。
服の上からだったが、薄い生地を通して伝わる、コハルの肩の感触。丸みを帯びた、柔らかい形。その下の、おそらく華奢な骨格と、幼い筋肉の感触。
布越しでも、伝わってくるものがあった。温かさ。そして、生きているものの独特な弾力。それは、やはり『物』の触感とは全く違う。彼女の体から放たれる、健康的な熱と、柔らかな存在感。
一瞬の接触だったけれど、僕の触覚はそれを正確に捉えた。まるで、一滴の甘露が、僕の渇いた感覚を潤したかのように。脳裏に「コハルの肩。布越し。柔らかい丸み。温かさ。健康的な弾力。」と記録される。
僕が肩に触れたことについて、コハルは全く気にしていないようだった。いや、少しだけ体を反応させたが、すぐに僕の顔を見て、にこっと笑った。その屈託のない笑顔と、僕を見上げる瞳が、僕の心に直接響いた。
「センくんは、今日もなにか調べに行くの?」
「うん」
僕は、コハルの肩から手を離す。僕の内心の動揺や、今感じた密かな快感など、彼女は微塵も気付いていない。そして、それでいいと思った。
この触れたいという欲求は、僕だけの秘密だ。それを彼女に知られて、変だと思われたり、嫌われたりするくらいなら、こんな風に、ごく自然なフリをして、少しずつ、彼女の触感を知っていく方がいい。それは、危険なゲームをしているような、少しだけ背徳的な、でも抗いがたい魅力を持つ行動だった。
結局コハルは僕についてきて、僕たちは、一緒に街を歩いた。目的の場所へ向かう途中、少し狭い道を通ることになった。人が一人しか通れないような細い道だ。
「センくん、先どうぞ!」
コハルが、僕を先に行かせようと道を譲ってくれた。僕は先に進み、彼女が僕の後ろからついてくる形になる。
道の途中に、少しだけ段差があった。コハルが、その段差でつまずきそうになったのが気配で分かった。コハルは運動神経は悪くないのに、こういう鈍くさいところもあった。これは彼女の特質の一つで、何かに気を取られていると他への注意が極端に疎かになるのだ。集中力が高いんだろうか。
また、体が反射的に動く。後ろを振り返り、コハルの腕を、今度は少し強めに引いた。
服の上から、コハルの腕を掴んだ。彼女の腕の、細い形状。布の下の、柔らかくもしっかりとした感触。筋肉や骨の存在を、触覚でより強く感じ取る。
前回の偶然の接触や、手をつないだ時よりも、もっと強く、より広範囲に触れている。布地を通しても、彼女の肌の温かさと、生きた体温が、はっきりと伝わってくる。
僕の触覚は、その瞬間に得られるあらゆる情報を貪欲に吸収しようとする。布地の織り目、その下の皮膚の滑らかさ、筋肉の弾力、骨の固さ。それらが組み合わさって生まれる、コハルの腕の、唯一無二の触感。
脳裏に『コハルの腕。服越し。細い形。柔らかくも弾力。生きた温かさ』と刻まれる。
「わ! ありがとう、センくん!」
コハルは、体勢を立て直し、僕に満面の笑顔を向けた。その笑顔と感謝の声が、僕の罪悪感を一瞬忘れさせた。僕が腕を引いたことについて、彼女は感謝の気持ちを伝えてくれただけだ。やはり、僕の内心の密かな執着には、全く気付いていない。
僕は、何も言えずに、掴んだ腕を離した。そして、ただ前を向いて歩き続けた。
コハルは、僕の少し前を歩きながら、スキップでもしそうな軽い足取りだった。その楽しそうな後ろ姿が、妙に印象に残った。
(彼女は知らない。僕が彼女の肌に触れるたびに、どれほど強い衝動と、密かな快感に打ちのめされているかを。そして、その触感を触感図鑑に載せたいと、どれほど強く願っているかを)
それは、僕にとって、コハルとの時間を続けるための、危険な、そしてやめられない秘密のゲームだった。彼女の笑顔と、彼女の肌の触感。そして、彼女の声、彼女の匂い、彼女がもたらすすべての感覚。どちらも失いたくなかった。だから、僕は、この危ういバランスの中で、彼女に嫌われない範囲で、彼女の触感を知ることをやめられなかった。
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