11/歩調
コハルと過ごす時間が増えるにつれて、僕の世界は少しずつ変わっていった。以前は気にも留めなかった街の音や、道端の花の色にも、ふと意識が向くことがあった。彼女は毎日、家の前で僕を待っていたり、僕が外に出るのを見かけると声をかけてきたりした。そして、僕が触感図鑑のための調べ物をしていると、当たり前のように一緒についてきた。
コハルは、僕が触覚に集中すると、他のことが目に入らなくなることに気付いたようだった。
ある日、街角の古いポストの触感を調べていた時だ。鋳物の表面に刻まれた模様や、塗料の厚み、年月が作った微細な凹凸を指先でなぞっていた。その時、少し離れた場所で、子供たちの騒ぐ声が聞こえたらしい。僕の鈍い聴覚では、ただ遠くで何か音がしている、という程度にしか聞こえなかった。
「センくん、あっちで誰か呼んでるよ!」
コハルが、僕の袖を軽く引いて言った。僕は、彼女に言われるまで、その声に気づかなかった。彼女の声は、雑音の中でも僕の耳に届く。
また別の時、公園で落ち葉の積もった場所の触感を調べていた。足の裏で踏みしめる感触、指先で葉っぱをかき分ける乾いた音。夢中になっていると、コハルが僕に身体をぶつけるようにして、手に持った赤い葉っぱと黄色い葉っぱを見せた。
「ね! キレイでしょ!」
僕には、その二つの葉っぱの色が、わずかに違うオレンジ色に見えるだけだった。赤や黄色といった鮮やかな色の違いが、僕の視覚では曖昧になってしまう。それでも、彼女が「キレイ」だと示すその葉っぱの色が、いつもより少しだけ、心に残った。
それ以来、コハルは僕に何か伝えたい時や、僕の注意を引きたい時、声をかけるだけでなく、僕の体に触れるようになった。それは、僕の感覚に合わせた、彼女なりのコミュニケーションだった。
公園で遊ぶ他の子供たちの声が聞こえない僕に、コハルは走り寄ってきて、僕の腕を軽くつついた。
「センくん、みんな鬼ごっこしてるよ!」
その指先の、遠慮のない、でも優しい感触。服の上からでも伝わる、彼女の体温と、確かな存在感。それは、僕にとって新しい種類の情報伝達手段だった。耳で音を聞き取るよりも、目で何かを見るよりも、彼女の指先が僕に触れる感触の方が、ずっとはっきりと、僕に彼女の意図を伝えてくれるような気がした。そして、その接触と共に、彼女の明るい表情や声も、僕の意識に入ってくる。僕が気づかない世界を、彼女が教えてくれる。
一緒に道を歩いている時、何かコハルが見つけたものに僕の注意を向けたい時、彼女は僕の手を掴んで、そちらに引いた。
「センくん、あれ見て!」
コハルの小さな手が、僕の手を引く感触。その指先から伝わる、明るく、迷いのない力強さ。それは、僕の触覚にとって、コハルの無邪気な好奇心そのものとして伝わってきた。僕の鈍い反応を待つのではなく、行動で示す。それが、コハルなりに僕の世界を理解し、歩み寄ろうとしてくれている証拠のように感じられた。彼女が指差す先にあるものが、僕にはよく見えなくても、彼女の興奮した声と表情が、その『何か』の存在を強く伝えてくれた。僕の知らない「面白い」を共有しようとしてくれる、彼女の気持ちが嬉しかった。
僕が道端の石の触感を調べているとき、コハルは僕の隣にしゃがみこみ、僕の背中に、そっと小さな手のひらを置いたことがあった。
「センくん、面白いね」
彼女の手のひらの、柔らかくて、温かい感触が、服越しにじんわりと背中に広がる。それは、励ましでもあり、共感でもあり、そして何よりも、コハルが僕の隣にいる、という確かな実感だった。その温かさが、僕の集中を解き、彼女の存在そのものへと意識を向けさせた。彼女はただ隣にいるだけでなく、僕の世界に寄り添ってくれている。
これらのコハルからのスキンシップは、僕にとっては予期せぬ、そして少しだけドキドキする出来事だった。彼女は、全く無邪気に、友達としてごく自然な行動としてそうしている。そこには、何の悪意も、打算もない。ただ、僕という人間への純粋な関心と、僕の感覚の特性に対する、彼女なりの理解があった。
でも、僕の内心は違った。
彼女の手が、僕の腕に触れるたび。僕の手を引くたび。僕の背中に置かれるたび。僕の触覚は、その瞬間を逃すまいと、得られるすべての情報を貪欲に吸収した。
コハルの指先の形、手のひらの温かさ、肩の丸み、腕の弾力。服越しであっても、その下にある『コハルの肌』の存在を意識せずにはいられなかった。あの、初めて偶然触れてしまった時の、あまりにも完璧な肌の感触。それが、これらの『友達としての』接触のたびに、僕の脳裏に鮮やかに蘇る。
それは、図鑑に直接書き込むことはないけれど、僕の心の中に積み重なっていく、コハルに関する触感の記録だった。純粋な友情の証であるコハルからのスキンシップと、それを受け止める僕の、触覚への歪んだ執着と、密かな快感。そして、彼女が触れるたびに、僕の世界がほんの少しだけ豊かになるような、不思議な感覚。
コハルは、僕との距離が縮まったことを喜んでいるようだった。彼女は、以前よりもずっと気軽に僕に触れるようになり、それは、僕を信頼してくれている証のようにも感じられる。そして、僕もまた、コハルからの接触を、最初は戸惑いながらも、内心では密かに待ち望むようになっていた。それは、危険な道へと僕を誘う、甘い誘惑だった。
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