9/接触
その日もまた、僕は触感図鑑の新しいページを飾る物を探していた。コハルが、当然のように僕の隣にいた。彼女は、僕の奇妙な探求にすっかり慣れたようで、面白そうなものを見つけると「これは?」と指差したり、自分も触ってみたりした。その無邪気な様子を見ていると、僕の心は少しだけ穏やかになった。彼女の声や笑顔が、公園の空気を少しだけ明るくしているように感じられた。
今日は、公園の隅にある、大きく枝を広げた古い木の幹を調べることにした。長年風雨に晒された樹皮は、場所によって様々な触感を持っているはずだ。地面に近い部分は、湿り気を帯びて苔が生え、柔らかく、少し滑りやすい。幹の上の方に行くにつれて、樹皮は硬く、乾いて、深く刻まれた皺が指に引っかかる。
僕は、木の幹に額を押し付けるようにして、目を閉じ、指先をゆっくりと滑らせていた。皮膚を通して伝わってくる、木の生命の歴史。時間の流れが触感として刻み込まれている。
コハルは、僕の真似をするように、幹の下の方に手を置いていた。彼女の指先は、僕の指先よりもずっと白く、細くて、幹のゴツゴツとした感触の上に、まるで雪が積もったかのように繊細に見えた。
「ねえ、センくん! この上の方の、なんかボコボコしてるとこ、すごいよ!」
コハルが、幹の上の方を指差しながら言った。その声が、やけに大きく響いた。少し背伸びをしないと届かない場所だ。彼女は、幹に寄りかかるようにして、指先でそのボコボコを確かめようとした。
その時だった。コハルの足元にあった小石に、彼女のサンダルが引っかかったらしい。一瞬、バランスを崩し、小さく「あっ」という声が聞こえた。
体が、勝手に動いた。
コハルが倒れる前に、僕は咄嗟に手を伸ばした。彼女の細い腕を掴もうとした。
そして、僕の指先が、コハルの肌に触れた。
二の腕の内側。服で隠されていない、その白くて、羽のように軽い滑らかな肌。
世界が、止まった。いや、触覚以外の全ての感覚が、一瞬で遠のいた。音も、光も、匂いも、全てが意味を失い、ただ指先の情報だけが、僕の全てになった。
指先から、強烈な情報が、一瞬で全身を駆け巡った。これまでの、石や木、布や金属のどんな触感とも違う。全く新しい、僕の知らなかった世界の真実を知ったような感覚。
温かい。信じられないほど、柔らかい。弾力があって、でもすぐに指の形を受け入れるように少し沈み込む。表面は、僕が今まで触れてきたどんな滑らかなものよりも、遥かに滑らかだった。絹ではない。ベルベットでもない。例えるなら、生まれたばかりの蝶の羽に、そっと触れたような、あるいは、磨き上げられた真珠のような、あまりにも繊細で、完璧な滑らかさ。
そして、その滑らかさの中に、無数の情報が隠されていた。微かに感じる、肌の呼吸のような、生きている証拠。体温の熱。そして、僕の鈍い視覚では捉えられない、肌理(キメ)の細かさ。それは、顕微鏡で覗いた雪の結晶のように、完璧で、規則的な美しさを持っているに違いない。指先が、その見えない美しさを、脳髄に直接語りかけてくるようだった。
あの、雨の日に見た濡れた絹のような印象は、全く間違っていなかった。いや、それ以上だ。僕がコハルという存在に抱いていた、白い光のような、清らかで、幻想的なイメージそのものが、この肌の感触として、指先から僕の内に流れ込んできたようだった。
僕は、掴んだコハルの腕を離すこともできず、ただ立ち尽くしていた。心臓が、聞いたことのない速さで脈打っている。ドクン、ドクン、と、僕の触覚を通して直接感じられるようだった。頭の中が、真っ白になる。快感? 驚愕? それとも、何か別の、もっと複雑な感情?
「……センくん? 大丈夫?」
コハルの声が聞こえた。遠のいていた聴覚が、彼女の声によって引き戻される。僕の硬直した様子に、彼女の瞳に心配の色が浮かんだ。僕の顔色がおかしいことに気付いたのだろうか。僕は、慌ててコハルの腕から手を離した。汚れたものを触ってしまったかのように、反射的に自分の手を引き戻す。
「あ、うん。ごめん」
喉から絞り出した声は、酷く掠れていた。コハルは、不思議そうな顔で僕を見ている。その表情が、いつもより少しだけはっきりと目に映った。彼女は、僕の反応に戸惑いつつも、僕を気遣うような視線を向けている。彼女は、僕が触れたことが、僕にとってこれほどまでに衝撃的な出来事だったとは、微塵も思っていないだろう。ただ、少しよろけた自分を、センくんが支えてくれた、その程度にしか思っていないはずだ。その無邪気さが、僕の心に重くのしかかる。
触れてしまった。彼女の肌に。
あの肌触りを、僕は知ってしまった。
後悔と、抗いがたい快感、そして、コハルに何か気付かれたかもしれないという不安がないまぜになって、僕の頭の中は混乱していた。
気づいたら、僕は走っていた。公園を出て、家に向かって走っていた。コハルが後ろから何か言っていたような気がするけれど、聞く余裕はなかった。足の裏で地面を蹴る感触だけが、僕を現実世界につなぎ止める唯一の情報だった。
自室のドアを閉め、鍵をかける。荒い息を整えながら、僕は机に向かった。手が、微かに震えている。
触感図鑑を開く。新しいページ。そこに、今、僕が感じたばかりの、あの強烈な触感を記録しなければ。言葉にするのは難しいだろう。今まで集めてきた、どんな『物』の触感とも違う。
鉛筆を握る。指先は、まだコハルの肌の感触を覚えているようだった。温かくて、柔らかくて、そして、信じられないほど滑らかで……あまりにも完璧で、まるで幻想のような肌触り。
僕は、図鑑の真っ白なページに、震える手で書き始めた。
『コハルの肌(腕)。温かく、柔らかい。滑らかさは、生まれたての羽、光そのもの。微かに呼吸を感じる。生命の触感。未知。究極』
簡単な言葉しか出てこなかった。それでも、その言葉を書き記すことで、あの瞬間の感触を、永遠にこの図鑑に閉じ込めておけるような気がした。それは、僕の触感図鑑の中で、最も特別で、最も『禁断』に近いページになるだろう。
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