3/鉄柵
別の日の午後。僕は自室の窓辺に立っていた。部屋の三角窓は小さくて、僕の顔を全部出すことはできないけれど、片手くらいなら外に突き出せる。今日は雨は降っていなかった。窓から差し込む光は、僕の視覚では少しぼやけて見えるけれど、肌に触れる温度ははっきりと感じられた。少し湿り気を含んだ、穏やかな空気の感触。
触感図鑑の次のページを、何で埋めようか考えていた。他の、安全で、そしてまだ僕の図鑑にない触感。何か、この街にある、古くて、あまり人が気に留めないもの。長い時間をかけて形作られた、独特の肌合いを持つもの……。
ふと、窓の下から声が聞こえた。
「センくーん!」
明るく、弾むような声。まただ。彼女の声は、なぜか他の音より鮮明に僕の意識に入ってくる。階下を見下ろすと、思った通りコハルが立っていた。肩までの黒髪が、今日の明るい光の下で微かにきらめいているように見えた。白いワンピースではないけれど、明るい色の服を着ている。その淡い色が何色かははっきり分からないけれど、その明るさが目に留まった。彼女は僕を見上げて、満面の笑顔で手を振った。
僕は、少し戸惑った。こうして、誰かが僕に声をかけてくるのは珍しい。どう反応すればいいのか、一瞬迷った。けれど、コハルの屈託のない笑顔に、何か張り詰めていたものが緩むのを感じた。僕は、小さく、ぎこちなく手を振り返す。
コハルは、僕が反応したのを見て、さらに嬉しそうに言った。
「センくん、何してるの? 外には行かないの?」
何を話せばいいのだろう。正直に、図鑑のことを話すのは、やはり気が引ける。彼女は、僕のこんな奇妙な趣味を知っても、面白がってくれるだろうか? いや、もしかしたら、この子なら……そんな考えが一瞬よぎったが、やはり無理だろうと思い直す。
「……ちょっと、調べたいことがあって」
僕は、曖昧に答えた。言葉を選ぶのが苦手だ。
「調べたいこと? なあに? なにを調べるの?」
コハルは、目を輝かせて問い詰めてきた。その瞳の輝きが、僕の曖昧な視界の中でも、きらりと光った気がした。その好奇心に満ちた声は、僕の鈍い聴覚でもはっきりと届いた。隠し通すのも難しいか。それに、今日調べに行こうと思っていたものは、そこまで秘密にする必要もないものだった。
「……公園の、古い鉄柵……の触感」
僕は、蚊の鳴くような声で答えた。言いながら、自分で自分が変なことを言っているのは分かっていた。普通の人は、鉄柵の触感なんて気にしない。やっぱり、変だって思われるだろうな。
しかし、コハルの反応は、またしても僕の予想とは違った。
「へえ! 鉄柵? 面白いね! 私もついていっていい?」
「面白い」? またその言葉を聞いた。僕のやっていることを、変だと一笑に付すのではなく、面白いと言ってくれる。そして、一緒に行きたいって? 戸惑いを感じた。でも、特に強く拒絶する理由もない。それに、誰かと一緒に何かをするというのは、どんな感触がするのだろう? 彼女と一緒なら、何か違うものが見つかるのかもしれない。そんな期待が、少しだけ頭をもたげた。
「別に、いいよ」
僕は、そっけなく答えた。本心では少し驚いているし、どうなるんだろうという気持ちもあるけれど、それを表に出すのは苦手だった。
「わーい! じゃあ、あとで行くね!」
コハルは、満足そうに笑うと、弾むように駆け出した。
十数分後、僕は公園の入り口でコハルと落ち合った。一緒に公園の中へ入っていく。隣を歩くコハルから伝わってくる、微かな体温と、服が擦れる音。そして、彼女から微かに香る、石鹸のような、甘いような匂い。それが何の香りかは判別できないけれど、心地よい気配として、僕の鼻腔をくすぐる。それらが、僕の世界に新しい情報をもたらしている気がした。
目的は、公園の奥にあるブランコや滑り台の遊具エリアを囲む古い鉄柵だ。それは、おそらく僕が生まれるよりもずっと前からそこにあった。近づくにつれて、その存在感が大きくなる。
目の前にした鉄柵は、所々が錆びつき、剥がれた塗料の下から金属がむき出しになっていたり、手垢で黒ずんでいたりする。僕は、小さなメモ帳と鉛筆を取り出した。
指先で、鉄柵の表面をなぞる。まず、錆びた部分。ザラザラとして、少し湿り気を感じる。指を強く押し付けると、赤茶けた粉が微かに皮膚に付着する。まるで乾燥した土のような感触の中に、金属特有の冷たさが混じっている。次に、塗装が剥がれた金属の地肌。ここは滑らかで、ひんやりとしている。太陽の光が当たっている部分は、少し温かい。手垢で黒ずんだ部分は、ねっとりとした、少し粘り気のあるような感触だった。一本の鉄柵なのに、こんなにも多様な触感がある。僕は、その感触を一つ一つ、脳裏に刻みつけ、メモ帳に簡潔な言葉で記録していく。これは、まだ図鑑に記すための記録ではなく、あとで記録する際に今の記憶と感触を引き出すためのものだった。
コハルは、僕がやっていることをじっと見ていた。その眼差しは、ただ見ているだけでなく、僕の世界を理解しようとしてくれているように感じられる。そして、おずおずと、自分の指先で鉄柵に触れた。
「……ほんとだ。なんか、ザラザラしてるとこと、つるつるしてるとこがあるね」
コハルは、僕ほど集中しているわけではないけれど、それでも面白そうに、手が鉄錆で汚れるのも構わず鉄柵の感触を確かめている。彼女の指先が、僕の指先に近づいてくる。僕たちの手が、鉄柵の上で、僅かな距離を置いて並んだ。
楽しそうに、古い鉄柵の冷たい感触を指先でそっと確かめるコハルの姿。その横顔は光を孕んで、淡い光の色をしているように見えた。僕の世界にはない、鮮やかな色彩や、きらきらとした輝き、たくさんの良い音や香り、そして美味しいもので満ちているのだろうな。そんな風に、ぼんやりと、しかし確かな違いとして感じられた。彼女がいると、僕の世界も、ほんの少しだけ、その光に照らされるような気がした。
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