4/距離

 公園の古い鉄柵の周りを、コハルと僕はしばらくの間ぐるぐると何周か回った。僕はメモ帳に書き込みながら、コハルは面白そうに指先で鉄柵の感触を確かめながら。少し肌寒かったけれど、体を動かしていると気にならなかった。

「ね、ちょっと疲れたね! あっちのベンチで休もうよ!」

 コハルが、少し離れた場所にある古い木製のベンチを指差して言った。僕は、まだもう少し鉄柵を調べていたい気持ちもあったけれど、コハルの明るい声に誘われるように頷いた。


 そのベンチは、二人掛けとしては少し狭いものだった。子供が使うことを想定しているのだろう。公園の片隅に忘れられたように置かれていて、表面の木は日焼けと雨でカサカサに乾き、触ると微かにザラザラとした感触がした。

 僕がベンチの端に腰掛けると、コハルは迷うことなく僕の隣に座った。

 二人の間の距離が、ぐっと近くなる。服と服が触れ合わないか、少しだけ緊張した。コハルの体温が、空気を通して伝わってくるような気がした。鈍い嗅覚でも、コハルから何か微かに、でも確かに良い香りがするのを感じた。石鹸のような、甘いような。それがどんな種類の香りなのかは分からなかったけれど、僕の意識は、その心地よい気配に引きつけられた。

 隣に座ったコハルは、ベンチに両手をついて、空を見上げていた。厚かった雲は少しずつ薄くなり、曇り空なのに、彼女の横顔は明るく見えた。いつもより、その輪郭がはっきりしているように感じた。

 僕は、何をするでもなく、コハルを眺めていた。彼女の肩までの黒髪は、雨の日の濡れた絹のような光沢はないけれど、太陽の下で柔らかい質感に見えた。その髪の先が、彼女の白い首筋にかかっている。

 コハルの首筋。そこだけ、他の服で隠された部分よりも、ひときわ白く、滑らかに見えた。僕のぼやけた視界でも、その肌の陶器のような質感、柔らかさが伝わってくるようだった。陽の光を受けて、肌表面に微かに浮き出る細かいうぶ毛のようなものまで、見えそうで見えない、その曖昧さが、かえって僕の触覚を刺激する。

 あの白さ。あの滑らかさ。あの、きっと柔らかいであろう感触。それは、教会石壁の重みでもない、絹の吸い付くような冷たさでもない、錆のザラザラとした脆さとも全く違う。生きている人間の、温かい肌の感触。しかも、まだ幼い、未成熟な果実のような瑞々しい肌の感触。

 触れてみたい。

唐突に、強い衝動が胸を突き上げた。指先で、コハルの白い首筋にそっと触れてみたい。その肌の温度、柔らかさ、滑らかさ、そして、その表面にきっと存在するであろう、僕の知らない無数の微細な凹凸を、指先で感じ取りたい。

 僕の触感図鑑に、この未知の肌触りを記録したい。

 これまでの触感図鑑の対象は、物だった。けれど、コハルは人間だ。触れるということは、彼女に気付かれるということだ。そして、それはきっと、普通の人がしないことだ。何よりも、僕の方が年上で、コハルは僕よりずっと幼い。年上の僕が、子供である彼女の肌に触れること。それは、何か、やってはいけないことのような気がした。心の中で、警報が鳴るような、そんな感覚。

 触れたい、という抗いがたい衝動と、やってはいけないという理性の声が、僕の頭の中でぶつかり合う。指先が、微かに震えるのを感じた。コハルは、何も知らないで空を見上げている。無邪気な彼女の隣で、僕だけが、一人、暗い衝動と罪悪感の淵に立たされているような気がした。

 このままここにいたら、何をしてしまうか分からない。この衝動を、彼女に知られてはいけない。彼女を、この暗い感情から遠ざけなければ。

 僕は、唐突に立ち上がった。

「……帰ろうか」

 僕の声は、少しだけ震えていたかもしれない。コハルは、僕の突然の行動に驚いたように振り返った。

「え? もういいの? まだ来たばっかりだよ?」

 彼女は不思議そうに言ったけれど、僕は何も答えなかった。ただ、公園の出口の方へ、歩き出した。コハルは、僕の背中を見て、少し迷った様子だったけれど、僕の様子がいつもと違うことを感じ取ったのか、やがて慌てて立ち上がり、僕の後を追いかけてきた。

 後ろから聞こえるコハルの足音と、少しだけ息が上がったような声。その音が、妙に大きく聞こえた。僕は、彼女に気付かれないように、指先を強く握りしめたまま、前を向いて歩き続けた。

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