2/水面

 雨が止んだ。


 空はまだ厚い雲に覆われていたけれど、雨粒が地面を叩く音は止み、代わりに水滴が軒先や葉っぱから落ちる雫の音が、静かな世界に響いていた。

 雨音に紛れて聞こえなかった、小さな水の音。それが、妙に耳に残った。

 僕は、近所の公園にいた。雨上がりの公園は、誰もいなくて静かだった。地面にはいくつも水たまりができていて、それぞれが曇った空を映している。僕は、その中でも一番大きな水たまりの前にしゃがみこんだ。

 指先で、水たまりの表面にそっと触れる。微細な圧力をもって皮膚に伝わる表面張力の感触。その薄い膜を破ると、ひんやりとした水の温度が指全体に広がる。水深は浅く、すぐに固い地面にぶつかる感触があった。底には泥が溜まっているのか、指を動かすとヌルヌルとした感触がする。水たまりの縁をなぞると、アスファルトの粗い粒が指に引っかかる。雨上がりの水たまり。その中に、どんな触感が隠されているのだろう。僕は触感図鑑に加える新しいページのために、集中して指先を動かしていた。

 普段、こんな風に地面にしゃがみこんで何かをしている僕に、話しかけてくる人はほとんどいない。クラスメイトは、僕を『少し変なやつ』だと思っていることを知っている。

 視覚や聴覚が少し不確かで、人と話すのが苦手な僕は、あまり周囲に溶け込めずにいた。僕の世界は、他の人たちが見ているような鮮やかさや、賑やかな音に満ちていない。だから、彼らが熱狂するような話題にもついていけないし、彼らの「当たり前」の感覚を理解することも難しかった。どうせ、僕のやっていることなんて誰も理解しないだろう。そう思うと、少しだけ、厭世的な気持ちになる。

 だから、背後から澄んだ声が聞こえてきた時、僕は少しびっくりして、ほとんど反射的に振り返った。その声は、なぜか他の音よりもはっきりと、僕の耳に届いた気がした。

「ねぇ、そこで何してるの?」

 そこに立っていたのは、先ほど家の前で見かけた、あの白いレースのワンピースの少女だった。

 雨は止んでいるけれど、肩までの黒髪はまだ少し湿っているように見える。

 大きな瞳が、興味深げに僕を見つめていた。その瞳の奥に、僕には捉えきれない複雑な色が揺れているように感じる。そして、どこか、僕の孤独を見透かすような、静かな深さがあった。

 僕は、咄嗟に何と答えるべきか迷う。正直に話しても、きっと「ヘンなの」と思われるだけだろう。いつものように、ぞんざいに答えて、早くこの場を終わらせてしまいたかった。

「水たまりに触ってるだけだよ」

 そっけない返事だったと思う。彼女は、僕の答えに少し首を傾げた。やはり、理解されないか。そう思った次の瞬間、彼女は予想外の言葉を口にした。

「へえ、水たまり? 面白そう! 私も触っていい?」

 え、と思った。驚きで、喉が詰まるような感覚になった。僕のやっていることに、「面白そう」と言ってくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。

 この子は、他の子とは違うのかもしれない。そんな予感がした。戸惑いながら、僕は小さく頷いた。

 彼女は、僕の隣にそっとしゃがみこんだ。白いワンピースの裾が、濡れた地面につきそうになるのも気にせず。

「わ! 冷たーい!」

 彼女は躊躇なく、自分の指先を水たまりに入れた。僕とは違う、無邪気な手の動かし方。彼女は最初に見かけたときの印象とは違って、とても元気で、明るい女の子のようだった。

 彼女は水面を指でつついたり、小さく波紋を作ったりした。僕の指先が水たまりの底の泥の感触を探っているすぐそばで、彼女の指が水面を滑る。その距離感に、僕は少し緊張した。

「ね、この黒い粒々は何?」

 彼女は、水たまりの底にある泥や砂利を指差しながら、無邪気に僕に問いかけた。僕は、たどたどしく説明した。これは土が溶けて、とか、雨で流されてきた砂利で、とか。僕が触感図鑑のために集めている情報だとは言わなかった。ただ、そこにあるものの物理的な状態を、僕なりに言葉にしようとした。

 彼女は、僕の説明を真剣に聞いてくれた。僕の言葉の一つ一つを、大切に受け止めてくれているような気がした。そして、何度も水たまりに手を入れ、底の泥をすくったり、表面の波紋を指で作ったりして、楽しそうに笑った。その笑い声は、僕の鈍い聴覚でも鈴が鳴るように、明るく響いた。

「ね、私、コハル! あなたの名前は?」

 彼女は、水滴のついた指先を少しだけ振りながら、元気いっぱいに言った。

「……セン」

 僕は、蚊の鳴くような声で答えた。明らかに年下の女の子相手に、少し情けない気もしたが、これが僕という人間だ。

「センくん! 私ね、今日この街に引っ越してきたの! 見た? さっき、大きなトラックが止まってたでしょ? あれ、私たちの荷物なんだよ!」

 コハルは、興奮した様子で身振り手振りをして話し続けた。僕が名前を言っただけのそっけない反応にも、彼女は全く気にしていないようだった。その明るさと、淀みない言葉の波に、僕はただ圧倒されていた。

「よろしくね、センくん!」

 そう言って、コハルは僕に向かって、小さな手を差し出した。握手を求めているのだろう。

 ドキリ、とした。差し出されたコハルの手。雪のような白い肌。その感触を、図鑑に加えたいという衝動が、一瞬脳裏をかすめた。けれど、すぐに別の感情が湧き上がる。戸惑い。照れ。そして、何より、地面の泥に触れていた僕の手は汚れていた。この汚れた手で、彼女の綺麗な手に触れてはいけない、と思った。それに、人と握手をするなんて、滅多にないことだ。どう反応すれば、変だと思われないだろう?

 僕は、差し出されたコハルの手から視線を外し、自分の手を見つめた。そして、彼女に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。

「ごめん、手が……汚れてるから」

 すると、コハルは自分の手を見て、「あ!」と声を上げた。僕は自分の手が汚れているから、と言ったつもりだったが、コハルは、コハルの手が汚れていることを指摘されたと思ったのだろう。

「そっかぁ! うんうん、いいよいいよ!」

 彼女はすぐに差し出していた手を引っ込めた。そして、にこっと笑った。その笑顔は、僕のぼやけた視界の中でも、太陽のように眩しく感じられた。僕のぎこちなさや、汚れた手を全く気にしていないように見えた。その屈託のなさが、僕の心を少しだけ軽くした。

「ね! もう友達だよ! センくん!」


 僕たちは、雨上がりの水たまりの前で、友達になった。奇妙な僕の行動や、ぎこちない反応を、彼女は変だと思わなかったらしい。いや、もしかしたら変だと思ったのかもしれないけれど、それよりも、彼女の好奇心と人懐っこさの方が、ずっと大きかったのだろう。

 楽しそうに、水たまりの薄い膜を指先でそっと揺らすコハルの姿。その横顔は光を孕んでいるようで、僕の世界にはない、鮮やかな色彩や、賑やかな音、そして甘やかな香りで満たされているのだろうか、と、そんな漠然とした、しかし確かな対比として、胸の奥に広がった。

 そして、ほんの少しだけ、彼女の世界の欠片が、僕の世界にも流れ込んできたような、そんな気がした。

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