第30話 井坂署長の思い
一度秋津家に戻った多華子に、突然の訪問者がやってきた。
黒塗りの乗用車から降りて来たのは、日本橋署の井坂署長だった。
秋津家の一室で、井坂は仏壇に手を合わせている。そこには秋津守一と妻の久江の位牌が並んでいる。
顔を上げた井坂に、後ろから多華子が声をかけた。
「井坂さん、よろしかったらお茶でもいかがですか?」
振り返った井坂は目を細め「いただきます」と答えた。仏壇がある部屋には大きな座卓が置かれている。多華子は慣れた手つきでお茶を淹れると、座卓の上に湯呑みを二つ置いた。
「守一と久江さんには、すっかりご無沙汰してしまって」
井坂はそう言ってお茶を口に運んだ。秋津守直一家がこの大きな家に越してからは、井坂が一度も守一に手を合わせに来ることはなかった。
「いいえ。来てくださってありがとうございます」
多華子は井坂に微笑んだ。
「甲斐から報告を受けました。多華子さんが家を出ると聞きましてね、急ぎ話した方がいいだろうと思い、こうしてお邪魔したというわけです。あまり時間がありませんので、長居はできませんが」
「お忙しいのに、申し訳ありません。実は……井坂さんにお願いしたいことが」
言いにくそうにしている多華子を察してか、井坂は笑顔で手を上げ、多華子の話を制した。
「分かっています。うちの者には話しておきますから、いつでも我が家へいらしてください」
「……よろしいんですか?」
井坂は何もかも分かっていた。多華子を預かると言ってくれた井坂に、多華子は何度も頭を下げた。
「遠慮はいりませんよ。それより……多華子さんが無事にお犬参りを終えて帰ってきてくれた。私は多華子さんの顔を見て安心しました」
「安心……?」
「実は、多華子さんからお犬参りに行くと手紙をもらった時から、胸騒ぎがしていました。多華子さんはもう帝都に戻らないつもりかもしれない。甲斐を警護役として同行させたのは、多華子さんを見張らせる為でした。甲斐には話していませんでしたが」
多華子は無言で井坂をじっと見た後、ふっと微笑んだ。
「お気づきだったのですね」
「長年、人の生き死を間近で見て来た男の勘です。多華子さんがお犬参りに行くと決めてから、多華子さんは妙に積極的になったでしょう。旅の準備に、お金の工面……一人でやるのは大変なことです。それをやり遂げた多華子さんの真の願いは何なのか。前向きな願いならいいが、もし違っていたらと思うと……」
井坂は言葉を区切り、仏壇を見た。
「私は守一の娘を見守ると決めたのです。多華子さんが幸せにならなければ、守一に会わせる顔がない。多華子さんが自分で死を選ぶなどということは、絶対に防ぎたかった」
多華子は膝の上で手を揃え、井坂に頭を下げた。
「申し訳ありません。でも甲斐さんに……あの方に私の馬鹿な考えを止めていただきました。甲斐さんには感謝しています」
「どうです? 甲斐は。いい男でしょう」
井坂の言葉の意味を図りかねた多華子は、困ったように笑った。
「え、ええ……井坂さんのおっしゃる通り、とても頑丈な方で……」
「あの男はちょっとやそっとじゃ折れない男です。心も体もね。甲斐は昔惚れた女に死なれたことがあったようでね。それからいくら周囲が縁談を持って行っても、決して首を縦に振りませんでした。あの男は少々冷静さに欠けるところはありますが、熱意のあるいい警官です」
多華子は井坂の話を聞きながら頷いている。甲斐が井坂に信頼されている警官だと知り、嬉しい気持ちだ。ふと見ると、井坂は口元に笑みを浮かべ、意味ありげに多華子を見つめている。
「私の勘違いでなければ、多華子さんと甲斐はお似合いの仲に見えるが……どうです?」
多華子の顔が一気に赤くなった。
「え……あの……どうしてそんなことを……?」
井坂は耳まで真っ赤になった多華子を見ながら豪快に笑った。
「甲斐の報告を聞いていて、もしやと思ったのですが……当たりでしたか」
「あの! 私たちはまだそういう関係では……甲斐さんは警官として、しっかりと警護をしてもらっていました」
多華子は甲斐とフルーツパーラーに行く約束をしたことが知られたら、甲斐が処分されてしまうのではないかと焦っていた。だが井坂は多華子が慌てている顔を見て、むしろ嬉しそうである。
「安心してください、私が甲斐を処分することはありませんよ。それよりも二人がそういう仲ならば、今後のことについても是非相談に乗らせてください」
「は、はい……」
恥ずかしそうに多華子は俯く。
「いやあ、守一のお嬢さんが私の部下と……感無量とはこのことです。守一もきっと喜ぶことでしょう」
多華子が顔を上げると、目を細めた井坂がじっと仏壇の上に掛けられた守一の写真を見ていた。
「井坂さん。あなたが見守ってくださったおかげで、私は今まで生きてこられました。ありがとうございます」
多華子がお礼を言うと、井坂は多華子を見ながら笑顔で頷いた。
秋津家を後にした井坂は、乗用車の後部座席で新聞を開いていた。
秋津守直の疑惑が書かれた記事を読み、井坂は顔を上げる。
「これで少しは、守一の無念が晴らせたか……」
「何かおっしゃいましたか?」
運転手が井坂の独り言に反応する。
「いいや、何でもない」
「は……失礼しました」
揺れる車の中、井坂はぼんやりと窓の外を眺めた。
その数日後、多華子はイチと一緒に秋津家を出て、井坂家に居候することになった。その後も新聞記事は秋津家の醜聞を競うように書いていた。奈良岡の事件とは関係のない話まで記事にされ、百合香が多華子をいじめていた話や守直が過去に起こした仕事上の揉め事など、様々なことが好き放題書かれた。
秋津商店が目ざましい勢いで事業を拡大していたのを、苦々しく思っていた者が実は多かったのだろう。ここぞとばかりに秋津商店の悪い話が出てくるのは、商売敵からのタレコミもあったようである。数々の醜聞は、日本橋の「秋津屋」の売り上げに影響が出るほどであった。
中でも特に熱心に記事を書いていた東帝新聞は、秋津百合香と都築俊作の婚約話がなくなったことを真っ先に伝えた。
都築家は秋津守直が兄の死に関わっている疑惑が世を賑わせたことを問題視した。表向きの理由はそうだが、美しかった百合香の顔に大きな傷がついたことが、婚約破棄の大きな理由になったことは間違いない。
百合香は退院後、家に引きこもった。自分の醜い顔を人に見られることを嫌がり、女学校へも行かず、友人にも会わなくなった。顔には麻痺が残り、口がひきつるようになった。百合香は鏡を嫌がり、部屋にあった大きな鏡台は撤去された。
秋津家は火が消えたように静まり返っている。家を訪問する客もめっきり少なくなり、目が覚めるような鮮やかなワンピースを着て屋敷内を歩いていた百合香の姿を見ることもない。
奈良岡肇は逮捕後全て罪を認め、傷害罪で起訴され、有罪となった。秋津百合香の処罰感情が強く、初犯だったが実刑となり、刑務所に収監された。
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