第31話 最終話 再会

 それから三か月が経ったある日、銀座にあるビヤホールに多華子は急ぎ足で向かっていた。季節はすっかり冬で、多華子の吐く息は白い。銀座の雑踏を抜け、ようやく目的のビヤホールに着いた。煉瓦造りの建物で、銀座ビヤホールと書かれた大きな看板が掛けられている。


 店は多くの客で賑わっていて、あちこちから笑い声が上がっている。煙草の煙にむせそうになりながら店内の奥に向かう多華子を待っていたのは、月島だった。

「ごめんなさい、少し迷ってしまって……」

 多華子は外套の下にワンピースを着ていた。月島はくわえていた煙草を慌てて消すと、多華子を見て目を細めた。

「構いませんよ。僕は逆に早く着いてしまったんで、先に飲んでました」

「それなら良かったです」

 テーブルの上には、ほとんど空になったガラスのビールジョッキと灰皿が置かれていた。


「多華子さんのワンピース、とても素敵ですね。よく似合ってますよ」

「あ……ありがとうございます。居候先の奥様に生地をいただいて、作り方を教えていただいたんです」

「へえ、自分で作ったんですか? 大したもんだなあ。売り物だと思ってましたよ」

 月島は驚きながら身を乗り出し、多華子のワンピースをじっと見た。

「いえ、細かい所はまだまだ荒くて……月島さんにお見せできるような出来ではないんですけど、どうしても今日までに間に合わせたかったんです」

 多華子は恥ずかしそうにワンピースに触れる。月島はそんな多華子を見ながら微笑んだ。

「多華子さん、今はどちらにお住まいです?」

「私は今、日本橋署の井坂署長のお宅に居候させていただいてるんです」

「ああ、お父上のご友人でしたよね」

「ええ。新しい住まいを見つけるまでの間、お世話になってます。井坂さんのお宅にはイチの家族もいますから、イチもすっかり犬たちと仲良くなって」

 井坂家に居候している多華子は、家事を手伝ったり犬の世話をしたりしながら新居を探している状況だ。井坂家にはイチの母犬と兄弟犬もいて、イチは遊び相手に事欠かない。


「それにしても、甲斐さん遅いなあ」

「そうですね、仕事が終わったらすぐに着替えて行くと言ってたんですけど……」

 多華子は入り口にちらりと目をやる。

「やれやれ、警官は忙しいとは言え、今日は大事な約束の日だってのに」

 月島は呆れたように笑った。


 甲斐がまだ来そうにないので、多華子もビールを注文して先に二人で乾杯することになった。

「……」

 多華子は初めて飲むビールに思わず顔をしかめる。月島は多華子の顔を見て思わず吹き出した。

「やっぱり飲みなれないと、そうなりますよね」

「すみません、少し驚いてしまって……でも、美味しいです」

 多華子は続けて二口目を飲んだ。味は癖があるものの、シュワっとした喉越しはラムネのようで悪くない感覚だ。

「あまり飲み過ぎないように気をつけてくださいね。まあ、仮に飲み過ぎても大丈夫か。甲斐さんが送ってくれますもんね」

 月島は含みのある笑顔で多華子を見た。


「そう言えば月島さん。東帝新聞に載っていた月島さんの連載小説、読みましたよ」

「え? 読んでくれたんですか? 嬉しいなあ」

 月島は照れくさそうに笑い、頭をかいた。

「お忙しそうだと思っていたら……小説を書いていたんですね」

「まあ、そうですね。すみません、ずっと連絡してなくて……ちょっと忙しかったもんですから」

「いいんです。お元気なのか心配していたんですけど、お仕事が決まって安心しました」

 微笑む多華子に、月島は急に神妙な顔で懐から封筒を取り出した。


「これは……?」

 月島に封筒を渡され、多華子は首を傾げる。

「少ないですが、お犬参りで僕の旅費を出してもらった分です。すみません、全額というわけにはいかないですけど、残りは必ず後で……」

「これはお返しします」

 多華子は笑顔で封筒を月島に返した。

「そういうわけにはいきませんよ」

「いいえ。私はあの時、月島さんを雇うと言ったでしょう? お金のことは気にしないでください。月島さんには旅の間、色々とお世話になりましたから」

 月島は戸惑っていたが、多華子は頑としてお金を受け取ろうとしなかった。渋々、月島は封筒を懐にしまうと、背筋を伸ばして多華子に向き合う。


「多華子さん。僕はずっとあなたにお礼を言いたかったんです」

「ですからお金のことはもう……」

 月島は首を振り、話を続けた。

「僕はずっと人生から逃げてばかりで、小説に向き合うことからも逃げていたんです。あの時上野駅で、多華子さんに一緒に青森に行こうと言われて、僕の人生は変わったんです。あなたと出会わなければ、僕はずっとあのままだったでしょう」

 多華子は月島をじっと見つめた後、困ったように微笑んだ。

「……月島さんにお礼を言っていただくほどのことを、私はしていません。私はあの時、汽車に乗り遅れることばかりを心配して、月島さんを強引に私の旅に巻き込んでしまったんです。私は自分のことしか頭にない、勝手な女なんです」

 月島は笑みを浮かべながら身を乗り出した。

「多華子さんがあの時何を思っていたとしても、あなたの行動が僕の人生を変えたことに変わりはありません。だからお礼を言わせてください。あなたは僕の恩人です」


 多華子は真っすぐに自分を見て微笑む月島を見ながら、胸が熱くなった。たとえあの時の行動が自分本位なものだったとしても、それがきっかけで誰かの人生が変わることもある。月島広太郎の人生を変えたのが自分だと言われ、多華子は恥ずかしいような、誇らしいような気分になった。

「……月島さんにそう言ってもらえて、お犬参りに行った甲斐がありました」

「そうですね、あれは楽しい旅でした」

 二人で笑い合っていると、ようやく甲斐が店内に入って来た。キョロキョロしながら、ようやく月島と多華子の姿を見つけると笑顔でやってくる。


「悪い悪い、遅くなった」

 甲斐は外套を脱いだ。警官の制服から着替え、和装姿だ。脱いだ外套を椅子にかけ、多華子の隣に座った甲斐はようやく落ち着いたのか、息を吐いた。どうやら相当急いで来たようである。

「甲斐さん、もう多華子さんと先に始めてたよ」

 そう言いながら、月島は女給を呼び、甲斐のビールと自分のおかわりを頼んだ。

「腹減ったな、何か食うものも頼んでくれよ」

「それじゃあ、サンドイッチは? それともライスカレーにするかい?」

「両方頼むよ。多華子さんは?」

「私は結構です」

「甲斐さん、相変わらずよく食べるねえ。それじゃあ僕はソーセージをもらおうかな」

 月島がにっこりと女給に微笑むと、女給は艶っぽい笑みを月島に返し「お待ちくださいね」と去って行った。


「甲斐さん、お仕事お疲れ様です」

「今日は早めに帰るつもりだったんだけど、なかなか帰れなくてさ」

 多華子と甲斐が目を合わせる姿を、月島は笑みを浮かべながら見ている。

「別に構わないよ、多華子さんと二人で楽しんでたしね。ね? 多華子さん」

「勝手に多華子さんを口説くんじゃねえぞ」

「口説いたりしないよ、多華子さんは甲斐さんの恋人なんだから」

「お前、何で知って……」

 慌てた甲斐は多華子を見る。多華子は固まった笑顔で「私は何も……」と首を振った。


「聞かなくたって分かるよ。青森から帰る間もずっと二人でこそこそ見つめ合ったりしていたじゃないか。悪いけど僕は男女の仲を見抜くのは得意なんだからね? まあ……本当に恋人同士だったとは思わなかったけど」

 月島は飄々と答えた。

「お前、カマをかけたのか……全く……」

 甲斐は気まずそうに頭を抱え、ちらりと多華子に目をやった。多華子は恥ずかしそうに笑いながら月島に話す。

「すみません、月島さん。実は今日、このことを話すつもりだったんです」

「いえいえ、謝ることはないですよ。おめでたい話じゃないですか。で? 多華子さん。新居を探してるって話してましたけど、ひょっとして甲斐さんと一緒に暮らす家のことですか?」

「あ……あの……」

 身を乗り出し、興味津々といった顔で聞いてくる月島に多華子は戸惑う。


「ああ、そうだよ。俺たちは夫婦になるつもりだ」

「驚いたな、もうそこまで決めてるのかい」

 はっきりと言い切った甲斐に、今度は月島の方が戸惑った。

「多華子さんはいずれ井坂署長の所を出て、新しい家を探さなきゃならねえだろ。だったらいっそ籍を入れて、俺と一緒に暮らす家を探そうってことになったんだ。井坂署長もその方がいいと賛成してくれてる」

「そういうことか。それはめでたいね! 新居は日本橋?」

「いや、あの辺りは家賃も高いし、秋津家から離れた場所の方がいいだろうから別の所にするつもりだ」

 そう言って甲斐は多華子を優しい目で見る。既に二人の間で結婚話はかなり進んでいるようで、甲斐は楽しそうに「イチもいるから、それなりに広い家じゃないとな」と月島に話した。


 ビールとサンドイッチ、ライスカレー、ソーセージが並び、ようやく三人はガラスのジョッキを掲げて乾杯をした。


「はー、美味い! ……それで話の続きだけどさ、俺たち内々に結婚式もやろうと思ってるんだけど、月島にも来て欲しいんだよ」

「え……僕に?」

 月島はビールの泡を口につけたまま、ポカンとした。

「月島さんにはぜひ、来ていただきたいんです。秋津家の人間は呼びませんし、近しい人のみ呼ぶつもりなので……お願いできますか?」

「多華子さん……もちろんですよ! いやあ、僕を呼んでくれるなんて嬉しいなあ! 警察官の結婚式に呼ばれるなんてなかなかない機会ですからね! あ、でも僕が行っても平気かな? 前に逮捕されたことがあるけど……」

 心配そうに声を潜める月島を、甲斐は豪快に笑い飛ばした。

「妙な心配すんな。ちゃんとした格好して来いよ?」

「分かってるよ!」

 月島は嬉しそうに笑い、ビールを美味そうに飲み干した。


「本当は、奈良岡さんも結婚式に来ていただきたかったんですけど……」

 ふと多華子が呟いた言葉に、甲斐と月島は一瞬黙り込んだ。

「……まあ、仕方ないよね。一年だっけ? 刑務所」

「良く知ってるな」

「そりゃあ新聞に色々書かれてるしね。反省しているとはいえ、うら若き女性の顔に治らない傷をつけたんだから、しっかり罪を償わないと。気の毒だよね、このせいで百合香さんの婚約もなくなったわけでしょ?」

「そうだな……」

 甲斐は浮かない顔で呟き、横の多華子を見た。複雑なのは多華子も同じだ。奈良岡に同情すべき点があったとしても、百合香に深い傷を負わせ、彼女の人生を壊したことは大きい。


「先日、奈良岡さんに差し入れを持って行ったんですけど……なんだか顔がすっきりとしていて、お元気そうでした。出所したら船橋の親戚を頼るつもりだと。もう日本橋に帰るつもりはないと話していました」

「まあ、日本橋にはもう帰れないでしょうからね……とにかく元気そうで良かった。今度、僕も差し入れを持って会いに行こうかな」

「そうしてください。月島さんが面会に行ったら、奈良岡さんも喜ぶと思います」

 なんとなくしんみりとした顔で、月島と多華子は頷き合った。


「そう言えば、東帝新聞の記者に聞いた話だけど、秋津百合香の元婚約者、もう別の女性との婚約が進んでいるみたいだよ? しかも同じ華族の令嬢だとさ」

「都築子爵の息子だっけ? ……随分早いな」

「顔に傷がついた女性を捨てて、別の令嬢と婚約なんて勝手なものだよね。まあ元々秋津百合香との婚約だって金目当てだったんだろうけどさ」

 多華子は百合香の話になり、テーブルに目を落とす。仲の悪かった従妹とは、病院以来一度も会っていない。恐らく今後も会うことはないだろう。

「もう秋津百合香の話はいいだろ。それより月島、東帝新聞で連載始めたんだって?」

「そうなんだよ。もう読んでくれた?」

「いや、まだ読んでねえ」

「なんで読んでないんだよ。読んでよ!」

「悪い、ちょっと忙しくてさ。新聞はとっておいてあるから後で読むって……」


 甲斐と月島が言い合いをしている間、多華子はぼんやりと百合香のことを思い出していた。どこから掛け違ったのか、百合香は多華子を馬鹿にするようになり、秋津家からのけ者にした。守直とその妻は百合香が一番で、兄の子である多華子をないがしろにして育てた。綺麗なワンピースも豪華な着物も、全て百合香だけに与えられ、多華子は安物ばかり。部屋も狭くて日当たりの悪い場所。暴力などはなかったものの、あの家で多華子は透明な存在だった。秋津家で輝く太陽は百合香であり、多華子はその影であった。


 多華子は百合香の境遇を思った。誰にも咎められることがなく、我がまま放題に育ち、奈良岡を下僕のように扱い、最後は奈良岡に最も大事な顔を傷つけられた。どこかで百合香が自分の行いを振り返っていたら、奈良岡に恨みを買うことはなかったはずだ。


「――さん、多華子さん!」

 月島の声に多華子はハッとなった。

「ビールのお代わりはどうです?」

「あ……ごめんなさい! ぼんやりとして。私はもうやめておきます」

「それなら、コーヒーでも頼みましょうか?」

「そうですね、お願いします」

「俺はもう一杯ビールをもらおうかな」

 男たちは更にビールを頼み、多華子は温かいコーヒーを頼んで、三人の楽しい再会は続いた。




 ビヤホールを出た三人は、店の前で別れを惜しんでいた。

「新居が決まったら、遊びに行くよ」

「来てもいいけど、居座るつもりじゃねえだろうな?」

 訝しんでいる甲斐に、月島は声を上げて笑う。

「いくら僕でもそこまで厚かましくないよ。僕も新しい家を探しているところなんだ。引っ越したらぜひ遊びに来てよ。多分狭いと思うけど」

「はい、引っ越し祝いを持って伺いますね」

 多華子は月島に微笑んだ。


「それじゃ、僕はこっちだから」

 月島は甲斐と多華子に別れを告げた。

「おう、また飲みに行こう」

「月島さん、またお会いしましょう」

 甲斐と多華子が並んで立ち、月島に手を振る。月島は二人が寄り添っている姿を見て目を細めた。

「そうだ、言い忘れてた。今度の新作、お犬参りを題材に書こうと思ってるんだ。君たちのことを書いてもいいかい?」

「別にいいけど、変なこと書くなよ?」

 甲斐は困ったような顔で多華子と目を合わせる。

「月島さん、新作も楽しみにしてますね」

「今度の作品は傑作になりそうな予感がしてるんですよ。では、また」

 月島は軽く手を上げ、颯爽と歩いて行った。


「絶対変なこと書くんだろうなあ、あいつ……」

「私たちのことを書かれるの、なんだか恥ずかしいですね」

 二人は見つめ合って困ったように笑い、月島と逆の方向へ歩いた。甲斐は自然に多華子の手を握り、多華子もその手を握り返した。

 二人の姿は、銀座の雑踏に消えて行った。




 月島は家の中で、文机に向かっている。まっさらな原稿用紙に、インクをつけたペン先を置き、意を決したように文字を書き始めた。


『お犬参りの主役は、犬である――』


         完

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