第29話 お別れ
多華子は顔に緊張の色を浮かべ、手に小さな花束を持ち、百合香が入院している病院にやってきた。
正面玄関の前に集まっている新聞記者の群れを見て、早速甲斐は表情を曇らせる。
「ほら、やっぱり俺が着いてきてよかった。あいつら、秋津百合香の取材で来てるんでしょうね」
「そのようですね……」
玄関前には警備らしき男が立っているので中には入っていけないようだが、記者たちは玄関前に群がって誰かが来るのを待ち構えているようだ。
二人が正面玄関に近づくと、早速目ざとい記者が駆け寄って来た。
「秋津多華子さんですね? 東帝新聞の桂木です。百合香さんのお見舞いですか?」
桂木と名乗ったこの男は、多華子が旅に出た後に百合香の写真を撮る為に秋津家を訪問していた男である。その後も都築家やあちこちで秋津家の醜聞を探っていたこの男は、当然多華子の顔も知っていた。
桂木が多華子に近づくと、他の記者たちが一斉に多華子に群がって来た。
「お前ら、近づくんじゃねえ! 行きましょう、多華子さん」
慌てて甲斐は多華子を記者たちからかばうように前に立ち、病院の中へ入ろうと急ぐ。
「多華子さん、百合香さんが襲われたことに対するお気持ちは?」
「奈良岡肇と百合香さんが恋仲だったっていう話はご存知でしたか?」
「一言お願いしますよ!」
「多華子さん、これでお父様の仇が取れたとお考えですか?」
最後の言葉に、思わず多華子は険しい表情で振り返る。見ると東帝新聞の桂木が、ニヤニヤした顔で多華子を見ていた。明らかに多華子を挑発している。
「……父のことは、関係ありません」
「多華子さん! 相手にしちゃ駄目だ」
甲斐は桂木を睨みつけ、多華子の身体を抱えるようにして無理矢理病院の中へ入った。多華子はホッとして振り返る。記者たちはまだ玄関前で何やらわめいているが、とりあえず中にいれば安全である。
「こりゃ、帰りは裏口から帰らせてもらうしかないですねえ」
記者がわめく声を聞きながら、甲斐はため息をついた。
多華子は緊張した顔で百合香の病室の前に立つ。花を抱え、深呼吸をする多華子の肩に甲斐はそっと手を置いた。
「俺はここで待ってますから。何かあったらすぐに飛んで行きますよ」
多華子は甲斐の顔を見た。甲斐は多華子を安心させるように笑顔を浮かべている。その顔を見て落ち着いた多華子は甲斐に微笑んだ。
「行ってきます」
病室に入ると、ベッドから体を起こしている百合香と守直、百合香の母がいた。
「何をしにきたの? 多華子姉さん」
百合香は多華子を睨みつけた。
「なぜそこにお巡りがいる?」
守直は扉の外で立っている甲斐の姿を見て眉をひそめた。
「記者の方に捕まると面倒ですので、警護をしていただいています」
多華子はそう言って甲斐と視線を合わせた。
「お邪魔はしませんのでご心配なく。では」
甲斐は静かに扉を閉めた。これで病室の中は秋津家の人間だけになった。
多華子から見舞いの花を受け取った百合香の母は「花瓶の水を変えてきます」と言い残して病室を出て行った。多華子の表情を見て何か深刻な話になると察知したようだ。母親もいなくなり、三人だけになった病室の中に重い沈黙の空気が流れる。
「……思ったより元気そうで、安心しました」
「これが元気そうに見えるって? 私の顔を笑いに来たくせに、よくもまあしらじらしくそんなことが言えるわね」
「そんなつもりはありません」
多華子は首を振り、百合香の顔を見つめる。新しい包帯で巻かれたその顔は殆どが隠れている。相当大きな傷なのは明らかだ。
「多華子。見舞いに来てくれたのは有り難いが、百合香はこの事件で深く傷ついている。悪いがこのまま帰ってくれ」
守直の態度は「迷惑だ」と言いたげだ。だが多華子はこのまま帰るわけにはいかなかった。
「こんな事件のあとで申し上げにくいのですが、叔父様。今朝の新聞記事はご覧になりましたか?」
守直は多華子の言葉に目を泳がせた。
「それが何だ?」
「東帝新聞の記事はもう読まれましたか?」
まっすぐに多華子は守直を見る。
「……いいや、知らんな」
ぷいと守直は多華子から目を逸らした。
(読んでいるわ)
「叔父様、私は奈良岡さんから、お父様が亡くなった時の話を聞きました」
「お前、何を言い出すんだ……」
守直の目が驚きで大きく広がる。百合香は「何の話?」と父に尋ねるが、守直は答えない。
「叔父様の口から話してください。私は今更、叔父様の罪を世間に訴えてどうしようとは思っていません。私はただ、叔父様に一言謝っていただきたいだけです」
「何なのよ、多華子姉さん。お父様の罪って何のこと?」
百合香は多華子がじっと父を見据えるように立っている姿を見て、不安そうにしている。
「多華子、外で話そう。ここは百合香もいるし……」
「娘に話せないことだと、お分かりなのですね」
守直はたじろいだ。今まで自分に逆らうことのなかった姪が、少しも怯まずに言い返してくることに戸惑っていた。
「私はお犬参りで、願いを叶えました。その願いとは、両親と話をすること……私はお父様と話して、あの日のことを全て聞きました。奈良岡さんは私に謝罪してくださいました。私は全て、知っているのです」
「……そうか」
言い逃れできないと悟った守直は、小さく呟いた。
「なぜあの時、お父様を見捨てたのですか? すぐに助けていれば、お父様が亡くなることはなかったのに!」
多華子は絞り出すように叫んだ。今までずっと心の中に閉じ込めていた、心の叫びであった。
「……秋津商店は兄さんが跡を継ぎ、私はそれを手助けしていた。だが商才はどう考えても私の方が上だ。私が経営した方が全て上手くいく。実際にそうだっただろう」
「だから……お父様を見殺しにしたのですね」
「待って……お父様、守一伯父様を見殺し? どういうこと? 伯父様は事故で亡くなったんじゃなかったの?」
百合香はベッドの上で動揺していた。
「百合香、違うんだ。これにはわけがあって……」
「守直叔父様、これ以上取り繕うのはやめてください。先ほども申しました通り、私はこのことを今更蒸し返すつもりはありません。ただ、私に一言謝っていただきたいだけです」
守直はじっと多華子を見て、苦悶の表情を浮かべていた。そして多華子に向き直ると、膝をがっくりと折り、床に伏せて頭を下げた。
「すまなかった、多華子。兄さんを死に追いやったのは自分だ」
多華子は床に頭をつけている守直をじっと見た。すっきりする、とかいい気味だ、などの感情は一切湧かなかった。ただそこにあるのは、薄くなった叔父の頭頂部だけだ。
(十二年も経ってしまった)
多華子が思ったのはそれだけだ。長い時間を秋津家で過ごし、彼らの顔色を窺いながら暮らしてきた。だがそんな生活はもう終わりだ。
「……頭を上げてください。もう結構です。私は金輪際、あの家に帰るつもりはありません」
「出ていくというのか。一人でどこへ行くつもりだ」
顔を上げ、驚いた顔で守直は多華子に尋ねた。
「どこへ行こうと、叔父様にご迷惑をおかけするつもりはありません」
そう言って多華子は百合香の方を向いた。
「百合香。奈良岡さんのしたことは、決して許されることじゃないけど……奈良岡さんはあなたのことを心から愛していたと思うわ」
「私を愛していた……? それならどうしてこんなことをしたのよ!」
「それは……私にも分からないわ」
多華子は首を振った。奈良岡の心の中は、彼にしか分からない。だが奈良岡にとって、百合香が世界の全てだったのは間違いない。百合香が多華子の邪魔をしようと奈良岡を青森へ行かせたことが、結果的に奈良岡の目を覚まさせることに繋がったのは皮肉だった。
「それでは、失礼いたします」
多華子は守直と百合香にお辞儀をして、病室を出た。扉の外では甲斐が待っていた。
「お帰りなさい、多華子さん。大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫です」
心配そうに尋ねる甲斐に、多華子は笑顔で答えたのだった。
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