13.届かない夜 -雪貴-
日本を旅立ってから、
一ヶ月が過ぎようとしていた。
言葉の通じない生活に、
当初戸惑っていた俺自身。
英会話のみなら、
何とかついていける語学も
この場所では、ドイツ語・フランス語・イタリア語と
講師陣それぞれが、
自分の母国で稽古をつける。
通訳が仲介して行われるレッスンも
微妙に訳し方のニュアンスが違うのか
思い通りの意志の疎通が難しい。
一年間お世話になる、
ホームステイ先の惣領家は
イギリスの名門家と縁深い家柄らしく、
会話の殆どイギリス英語。
もって狭いアパートを想像していた
滞在先は、広すぎる空間だった。
唯ちゃんが心配するだろうし、
俺も唯ちゃんが気になるから
何度も何度も送り続けるメール。
唯ちゃんからも
時間差でメールは届くものの、
電話をしてもすれ違いばかり。
唯ちゃんのことは気になりながらも
せっかくの留学。
少しでも多く、自分の身に吸収したくて
まずは語学の勉強から必死に始める。
時折、惣領家に顔を出してくださる
大先輩兼、理事会メンバーの伊集院紫音
【いじゅういん しおん】さま。
紫音さまが、
僕の語学指導も受け持ってくれた。
ホームステイ先に準備されていたのは、
ベーゼンドルファーインペリアルのみ。
あのコンクール本選で演奏した
名器がレッスン室に安置されている。
「雪貴、エルが呼んでる。
早くレッスン室に行こう」
そうやって俺に話しかけてくれるのは、
神前悧羅学院に出身、DTVT所属。
ホームステイ先の主でもある、
惣領国臣さん。
この家のピアノがインペリアルだけなのは、
国臣さんとインペリアルの縁が深いから。
国臣さんと共に訪れたレッスン室。
エルディノさんのレッスンは、
唯ちゃんの比じゃなくて、
留学前にあれだけ唯ちゃんの鬼レッスンを成しえた
後でも、ついていくのがやっとの状態だった。
使い込まれた楽譜を一冊ずつ。
俺の前に取り出しては、
一頁から順番に、最後の頁まで弾かせていく。
途中、一音でも音を違えたら
その楽譜は最初から演奏しなおし。
最初は楽勝だった楽譜も、
鬼レベルへと近づき、
今では、楽譜の中に綴られた音符で
【排除されるべき音】を推測して、
必要のない音のみを演奏せずに弾ききる
そんな楽譜へと進化していく。
演奏している小節よりも、
何小節も前に意識を向けて、
脳内で瞬時に、
必要のない音を排除していく。
そんなウォーミングアップの
鬼レッスンの後は、
今度は国臣さんや紫音さまとの合同練習。
次から次へと出されていく
課題曲に、ついていくのがやっとの状態で
一日中、音楽三昧、ピアノ三昧の日々。
一日の練習が終わっても、
寝る時間までもが、
ピアノの音に占拠されている有様で。
ようやく今日の練習が終わって、
レッスン室をぐったりとなりながら
後にする。
レッスン三昧の日々は、
腕を腱鞘炎にしていく。
「お疲れ様。
雪貴、明日は第三楽章を頭から
連弾するから、予習しておいて」
別れる間際に、鬼の一言。
「はいっ。
有難うございました。
部屋に戻ります、国臣さん」
無邪気に微笑みかける、
ピアノの貴公子に、
溜息をついて部屋へと戻った。
留学先で通学するようになった
神前悧羅学院の提携校。
学校の宿題にペンを進めながら、
携帯電話を見つめる。
電話を手に取って発信するものの、
唯ちゃんが電話にでる気配はない。
ただAnsyalのサウンドが
鳴り続けるだけで、
暫くすると留守番電話へと
変わってしまう。
ダメか……。
唯ちゃん、元気にしてる?
再び、メールを送信して
勉強に向き合いかけた時、
携帯が震える。
日本からの着信。
唯ちゃんからかもっと
期待を込めて
電話を受ける。
「もしもし」
「おっ、居た。
何、そっち今何してるの?」
電話の主は、
親友である音弥。
「何って今ピアノ三昧の
時間から解放されて
学校の宿題中だけど」
「大変そうじゃん」
「まぁ、ほどほどにわね。
それで、今日はどうかした?」
「雪貴のご機嫌伺い。
唯ちゃん、定例便。
ってか、新学期から大変そうだよ。
社会の本浦が産休に入って、
変わりに来たのが、
土岐って言う男。
自己紹介早々、宣戦布告か
唯ちゃんとは昔付き合ってたとか、
言い出してさ、クラスの奴ら怒らせて」
音弥のその一言に、
俺自身もピキっと怒りゲージが上昇する。
「それで?
唯ちゃんはなんて?」
「何、唯ちゃんから雪貴きいてないの?
てっきり知ってると思ってたけど」
「電話、捕まらないから。
唯ちゃんは元気してる?」
「とりあえず表向きは。
土岐ってヤツが来てから、
なんかいつもと違った感覚って言うか。
雪貴、なんか知ってる?」
何か知ってるって言われても、
答えられるはずもないけど、
音弥のその言葉に、
不安だけは大きくなっていった。
「音弥、唯ちゃんの事頼むよ。
連絡、有難う。
今から唯ちゃんにメールしてみるから」
「うん。
じゃ、お前も頑張れな」
「そっちも宜しく」
親友との電話を終えて、
そのまま唯ちゃんへと再度メールを打った。
★
唯ちゃん、音弥から聞いた。
社会の臨時で来た
土岐って何者?
唯ちゃんの元カレって
言ったらしいけど、
どういうこと?
★
詮索するようなメールで
やめなきゃなんて思いながらも、
気になった不安は、
それを取り除けるまで
付きまとい続けるわけで。
メールを送信して暫くすると、
再び、俺の携帯が震えた。
今度こそ、唯ちゃんかも?
そう思って電話に出た
俺の耳に届いた声は託実さん。
「雪貴、忙しいところ悪い。
そっちは楽しいか?」
そうやって切り出した託実さんが
告げたのは、百花さんが妊娠したこと。
そして近いうちに、
結婚式をすると言うこと。
その結婚式に参列してほしいと言う
連絡だった。
「結婚式、帰りますよ。
俺も見たいですから。
それより託実さん、
今、百花さんいますか?
唯ちゃんが捕まれば一番なんですけど」
そう告げるものの、
唯ちゃんは今日は捕まらなくて、
暫くすると、百花さんの声が聞こえた。
「何、雪貴君どうかした?
唯が捕まらないって、
連絡つかないと心配かもだけど、
雪貴君の留守中は、
しっかりと私と託実で監視しておくから」
「あっ、あの……。
百花さんって、
唯ちゃんと何時からの友達なんですか?」
少しでも手がかりが欲しくて、
すがる思いで問いかける。
「私は大学かな。
Ansyalがきっかけだもん」
「その時って、
唯ちゃん彼氏とか居たんですか?
今、学校に唯ちゃんの元カレって自己紹介した
土岐悠太ってヤツがいるみたいなんです」
そう告げた途端に、
電話の向こうの百花さんのトーンが一気に変わる。
「何?土岐って言った?
アイツが唯の学校に着任したの?」
声高く告げるその言葉に、
緊張感が増す。
「わかった……。
唯の方は私が考えるから、
とりあえず雪貴君は気にしないで
留学に専念するといいわ」
それ以上は聞き出すことも出来ず、
電話は切断される。
音弥の言葉が気になりながらも、
止まることがない時間は、
何時もの朝を迎える。
同じようにピアノ漬けの日々。
だけどピアノはデリケートな楽器で、
俺の不安をダイレクトに音色へと
表していく。
唯ちゃんを思えば思うほど、
不安になっていく俺の心。
レッスンに集中できなくなってきた俺自身。
「雪貴、君が集中できない理由は何?」
ついには国臣さんにも
指摘されてしまうほどで。
どれだけ手を伸ばしても
愛しい人に届かない夜。
不安な闇の中、
ただ光を見つけたくて
もがき続けてた。
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