「靴紐の法則」



僕の友人に、「靴紐がほどけた日は警戒すべきだ」という哲学を持っている男がいる。


彼の名前は田上(たがみ)で、別に探偵でもなければ哲学者でもない。ただの会社員だ。あまりに普通すぎて、たぶん街中で彼とすれ違っても、次の角を曲がる頃には顔を忘れてる。だが彼は、靴紐には一家言あった。


「靴紐がな、勝手にほどけた日は良くない。必ず何か小さな不運が起こるんだよ」


例えば、電車で隣に座った人がガムを噛みながら電話してるとか、弁当に入ってるはずの唐揚げが忘れられてるとか、いつも開いてる自販機がメンテ中だったりとか。


「全部、ただの偶然じゃないのか?」と僕が訊いた時、田上は静かに首を振った。


「それを言ったら、世の中のほとんどのことが偶然だろ。けどな、人間ってのは、意味を探さずには生きられない生き物なんだよ」


だから彼は、靴紐がほどけた日には会社に行く前に缶コーヒーを買う。「バランスを取るため」だそうだ。プラマイゼロに戻す儀式。結果的にそれで気が紛れて、何も起こらずに一日が終わることもある。


面白いことに、僕も最近、靴紐がほどけるとちょっと不安になるようになった。誰かが信じてる小さなジンクスって、妙に伝染力があるんだよな。マスクをしてない人が近くにいると咳が出るのと、ちょっと似ている。


この前、靴紐がほどけた日に思いきって会社を休んでみた。誰にも何も言わず、昼から映画館に行って、ポップコーンを両手に抱えながらエンドロールを眺めてた。帰り道、晴れてた空にぽつぽつと雨が降り出して、靴もズボンも濡れたけど、なんだかすごく自由な気分だった。


「不運」って、たまには悪くない。



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