ヨ話綴リ
てふてふ
第1夜 アマミヤ『トイレの花子さん』
投稿者: アマミヤ (ID: NFS00147)
日時: 1986年7月15日 23:47
件名: 夜の校舎の女
俺はアマミヤ。都内の定時制高校に通う、高校生だ。
知ってると思うが、定時制ってのは……まあ簡単に言えば夜間学校ってやつ。
昼間働いてる奴とか、いろんな事情で昼に学校に行けない連中が夜に集まって勉強する場だ。
校舎は築数十年の古びた鉄筋コンクリート造り。
昼間は普通科の生徒が使っていて、俺たち定時制は夕方から夜にかけて同じ教室を借りている。
クラスには自分より年上の同級生も珍しくないし、仕事終わりで駆けつけてくる奴も多い。昼間の高校とは生徒の雰囲気もどこか違っていて、独特の空気がある。
昭和も60年代に入ったが、この学校はどこか昭和30年代で時間が止まってるような雰囲気がある。
廊下の床板は磨り減って軋むし、天井の蛍光灯は薄汚れてやけに暗い。壁のペンキは所々剥げてひび割れてるし、夜になると妙に静かだ。
昼間は生徒たちの声で賑やかなのに、夜はしんと冷え込むような静けさが校舎中に漂う。
俺はそんな雰囲気が嫌いじゃなかった。昼間の喧騒よりも、静かな方が落ち着く性分なんだ。意外だろ?
だけど、そんな夜の校舎で、最近どうにも説明のつかない奇妙な出来事が起こり始めた。
例えば、誰もいないはずの廊下から人の気配を感じたり、空の教室で物音がしたりだ。
最初は気のせいかと思った。
だが、同じようなことが何度か続いて、これはただ事じゃないぞと感じ始めたんだ。今日は、その話をさせてもらおうと思う。
きっかけは、先月の半ば頃だったか。
梅雨の雨がじとじと降って、蒸し暑い夜だった。
授業が終わったあと、職員室に提出物を出しに行って、それから帰り支度をしていた。校舎にはまだ何人か残っていたが、時間はもう夜の9時近くだ。
先生たちもぼちぼち戸締まりの準備を始めていて、昇降口のほうからは帰り支度をする気配が遠ざかりつつあった。
定時制は授業が遅くまであるから、帰る頃にはとっぷり日が暮れている。廊下の電気も半分くらい消されて、ところどころ薄暗かった。
俺は鞄を肩にかけて廊下を歩いていた。
ふと、尿意を催したんで、帰る前にトイレを済ませておこうと思った。
校舎のトイレは古くて薄暗い。
更に夜なんて、用を足すのも気が引けるぐらいだが、背に腹は代えられない。
男子トイレに入ってさっさと用を足し、手を洗おうと洗面台の鏡の前に立ったときだった。
――誰かの視線を感じた。
ゾクリとして背筋が粟立つのを感じる。
嫌な感じだった。
俺は鏡越しに背後をそっと見やった。
誰かいるのか?
最初は何も見えなかった。
だが次の瞬間、鏡の奥、少し開いたトイレの扉の隙間に、何か白いものが横切った気がした。
人影……?
思わず振り向いたが、背後には誰もいない。静まり返った男子トイレに、俺の荒い息遣いだけが響いている。
気のせいか――そう自分に言い聞かせて、もう一度鏡に向き直った。
そのときだ。
鏡の端の方、洗面台のすぐ後ろあたりに、黒い髪の女が立っていた。
「うわっ!」
思わず声をあげて振り返る。
だがやはり何もいない。
心臓が早鐘みたいにドクドクと波打っていた。
今、確かに鏡に映ってた。若い女が、俺のすぐ後ろに……嘘だと思うだろ?
嫌な汗が額ににじむ。
頭が混乱して、しばらく鏡を見ることもできず硬直していた。
だが意を決して「もう一度だけ」とゆっくり鏡に目をやる……そこには、俺一人しか映っていない。
震える手で水を止め、急いでトイレから出ようと足を踏み出した。
その瞬間、「コツ……コツ……」という硬い音がどこかから聞こえてきた。
踵で床を叩くような音。派手な女子なんかが履くヒール靴の音だ。
こんな時間に、女子生徒や女の先生が廊下を歩いているのか?
俺はそっとトイレの扉から顔を出し、廊下を左右にうかがった。薄暗い廊下には誰もいない。
だが耳を澄ますと、確かに聞こえる。
コツ……コツ……と規則正しく響いていた音は、やがて遠ざかり、階段の方へ消えていった。
ぞっとした。嫌な予感がした。
その夜は正直言って眠れなかった。
頭の中で何度もあの鏡に映った女の姿がちらついて、瞼を閉じると背後に気配がするような気がしてならなかった。
……情けない話だが、布団にくるまって小さくなりながら朝を待ったんだ。
翌日、学校に行っても昨夜のことが気になって仕方がなかった。
授業中も上の空で、ふと廊下の方に視線をやっては、またあの足音が聞こえやしないかとびくびくしていた。
放課後、思い切って同じ定時制に通う顔なじみの先輩に声をかけてみた。
その先輩は俺より年上で、社会人経験もある落ち着いた人だ。
校内の噂話にも詳しそうだったから、もしかしたら何か知ってるかもしれないと思ったのだ。
俺は人気のない廊下で小声で切り出した。
「あのさ、佐藤先輩。変なこと聞くけど……この学校でさ、夜中に女の人を見たとか、そういう話って聞いたことない?」
佐藤先輩は意外そうな顔をして首をひねった。
「女の人? 夜中に? この学校でか?」
「いや……もし何でもなかったら忘れてくれ。ただ……昨日、帰り際にさ、誰もいないはずの廊下でハイヒールの音を聞いた気がして。鏡に女が映ったようにも見えて……俺、疲れてんのかな」
自分でも情けないと思ったが、黙ってることもできなかった。
半笑いで話す俺に、先輩はしばらく考え込むような顔をしていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……おまえ、それ、もしかすると“トイレの花子さん”かもしれないな」
「花子さん?」
俺は聞き返した。
花子さんといえばトイレの怪談話で有名だが、普通は小学校とかで子供の霊だろう。
「ああ、この学校にもな、いるんだよ。トイレの花子さんみたいな幽霊の話が。一部の間で噂になってる。もっとも、現れんのは子供じゃなく大人の女だって話だがな」
俺は息を呑んだ。
大人の女の幽霊……昨日俺が見たのと一致するじゃないか。
「すんません。その噂、詳しく聞かせてもらえませんか」
佐藤先輩は腕組みしながら、ゆっくりと思い出すように語り始めた。
「俺もこの学校に入ってから誰かに聞いた話なんだけどな。10年くらい前、この学校で女性教師が亡くなったらしい。場所は……確か旧校舎の女子トイレ。自殺だったとか……」
旧校舎というのは、今俺たちが使っているこの校舎のことだ。10年前といえば昭和51年(1976年)か。
その頃はまだ俺はガキで、もちろん、この学校とは縁もゆかりもない。
しかし校内で教師が自殺――にわかには信じがたい話だ。
「それ、本当なんですか? 教師が学校で自殺なんて、大騒ぎになりそうですけど」
「さあな。ただ噂じゃ、その教師の霊が今もこの校舎に出るってんだ。夜のトイレで物音がするとか、廊下にハイヒールの音が響くとか。お前が言ったようにな」
やはり……昨夜のあれは俺の幻覚なんかじゃなかったのか。先輩は続ける。
「実際に見たって話はそう多くはないが、一部の生徒や教師の間では知られてる。もっとも大っぴらには話されないけどな。気味悪がられるから」
「その亡くなった先生って、どんな人だったんですか?」
「さあ……俺も直接知ってるわけじゃない。名前は忘れたが、若い女性教師だったとか。確か、社会科の先生だったって聞いたかな」
若い女性社会科教師――それ以上の詳細は先輩も知らないようだった。
だが10年前にこの学校で女教師が亡くなっていたという事実だけで、俺の頭の中はいっぱいだった。昨夜見た女は、その先生の幽霊なのか?
佐藤先輩は苦笑いして肩をすくめた。
「ま、幽霊の正体見たり枯れ尾花って言うしな。疲れてただけかもしれんぞ? あんま気にすんなよ」
俺は曖昧に頷いたが、内心ではますます疑問と興味が膨らんでいた。
10年前の女教師の死――もしそれが単なる噂じゃなく本当にあったことなら、詳しく知りたい。そして昨夜の出来事との関係を確かめたい。
幽霊なんて非科学的だと笑うやつもいるだろう。
俺だって、昨日まではそう思ってたさ。
でも、自分の目で見ちまったんだ。否定しようがない。
こうなったら、その女教師の死について調べてみるしかない。俺はそう心に決めた。
それから数日後の放課後、俺は校内に残って用務員の田中さんを探した。
田中さんは昼間から夜にかけて校舎の管理をしている中年の男性で、物静かな人だ。掃除道具を片付けている彼を見つけ、俺は意を決して話しかけた。
「田中さん、ちょっとお時間いいですか」
田中さんは、ほうきを持ったまま振り返った。
「どうしたんだい、アマミヤ君」
「少し、学校の昔のことをお聞きしたくて。あの、10年くらい前にこの学校で女の先生が亡くなったって本当ですか?」
俺の問いに、田中さんの表情が一瞬固まった。彼はゆっくりほうきを降ろすと、あたりに人がいないのを確かめるように周囲を見渡した。
「……誰に聞いたのか知らんが、その話はあまりしない方がいい」
低い声でそう言う。
やはり事実なのか、と俺は胸の鼓動が速くなるのを感じた。
「すんません、でもどうしても気になって。実は先日、夜の校舎で女の人の姿を見た気がして……それで……」
田中さんはしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたようにため息をついた。
「そうか……。お前さんも見たのか、あの人を」
「やっぱり、本当に出るんですか? その亡くなった先生の幽霊が」
田中さんはゆっくりと頷いた。
「ああ、出るよ。私も何度か夜巡回しているときに、階段の踊り場で見かけたことがある。最初は人が残っているのかと思って声をかけたが、すっと消えてしまってな……背筋が凍ったよ」
ゾクリとする。やはり目撃者が他にもいた。「その先生って、どんな方だったんですか? 田中さん、ご存じですよね」
「ああ……10年前にも私はここで用務員をしていたからな。あの時のことは忘れもしないよ」
田中さんは遠い目をして語り始めた。
「亡くなったのは松浦先生という、若い女性の先生だった。年は確か25か26。社会科を教えていてな、面倒見が良くて生徒にも慕われていたよ。亡くなる前夜も遅くまで校内に残っていた。私が見回りを終えて帰るとき、職員室の明かりが点いていてな……。熱心な人だったから、遅くまで答案用紙の確認なんかをしていたのかもしれん」
松浦先生――これが幽霊の正体だろうか。田中さんの話は続く。
「ある朝、清掃のために女子トイレに入った同僚の用務員が、中から首を吊っている松浦先生を見つけたんだ。場所は3階の東端の女子トイレだった」
首を吊っていた……やはり自殺ということになるのか。俺は息を呑んで耳を傾ける。
「大騒ぎになったさ。すぐに警察も来て色々調べていた。結局、公式には松浦先生は自殺……ということになった」
「公式に? それってどういうことですか?」
田中さんは言いにくそうに言葉を選んだ。
「当時、松浦先生が自分で命を絶つような理由は見当たらなかった。明るくて責任感のある人だったし、悩んでる様子もな。だから職員たちは皆ショックでな……中には他殺の可能性を疑う者もいたよ」
「他殺……!」
俺は思わず声を大きくしそうになり、慌てて抑えた。
「じゃあ、その松浦先生は、誰かに殺されたってことですか?」
「しっ、声が大きい」
田中さんは慌てて辺りを窺った。
人気のない廊下に俺と田中さんの声だけが響く。
「証拠は何もない。ただ当時、噂があったのは確かだ。松浦先生は実は殺されたんじゃないかってな。だが警察は他殺の線はないと判断した。詳しい事情は教えてもらえなかったが……ただ、職員たちの間では妙な噂もあってな……松浦先生は当時、同僚の男性教師と何か揉めていたらしいとか。実際、事件のあとすぐに他校へ転勤した先生が一人いてな……まあ偶然かもしれんが」
「それって……」
田中さんは首を振った。
「憶測で物を言ってはいかん。いいか、噂は所詮噂だ。本当のところは誰にもわからん。ただ……」
「警察が隠蔽したとか……?」
「さあな。ただ、私ら用務員仲間で話したのは、どうも不自然だってことだったよ。例えばな……」
田中さんは声を潜めた。
「死んでいた時、あの先生、靴を履いたままだったそうだ」
「靴?」
俺は眉をひそめた。靴を履いたまま首を吊った……?
「遺体を発見した同僚が言っていた。トイレの個室の中で首を吊っていたんだが、足が床につくかつかないかくらいの状態で、履いていたはずのハイヒールが片方だけ脱げて落ちていたらしい。もう片方は足に履いたままだった、と」
奇妙な情景が脳裏に浮かんだ。片方だけ靴が脱げて足が揺れている女性の死体……。
胃のあたりがきゅっと縮む。
「それって……自殺だとしたら変ですよね。普通、踏み台か何かに上がって首を吊るなら、靴は両方とも脱げるとか……だって、ハイヒールって脱げやすいんでしょ? いや、わかんねえけど……」
「何とも言えん。ただ、何か揉み合ったような跡があったとか、そんな噂もあったよ。だが公には全て闇に葬られた。学校としても外聞が悪いからな、なるべく穏便に処理したかったんだろう」
田中さんは深いため息をついた。
「それ以来、夜遅くまで残ってると女の人の足音が聞こえるとか、鏡に誰か映るとか、用務員の間でも噂になってな……私も用がない限り三階の女子トイレ付近には近寄らんようにしている」
「松浦先生は……殺されたのかもしれない、か」
俺は拳を握りしめた。
当時の関係者は皆それを疑いつつも、公にはできなかったということか。
「お前さんも、深入りはするなよ」
田中さんが忠告する。
「そんな昔のことをほじくり返しても、良いことはない。幽霊には気をつけなさい。見えても関わらんことだ」
俺は頷いたものの、心中穏やかではいられなかった。
もし本当に松浦先生が殺されたのだとしたら、その無念が幽霊となって彷徨っているのかもしれない。
そして俺に何かを訴えようとしているのではないか……そんな気がしてならなかった。
俺は松浦先生の死の真相を確かめるため、さらに調査を続けることにした。
田中さんの話で概要は見えてきたが、もっと客観的な記録を確認したかったんだ。
週末、図書館に出向いて新聞の縮刷版を漁った。
昭和51年当時の新聞をめくっていくと、確かにそれらしい記事が見つかった。
昭和51年6月15日付の地方紙の記事だ。
『○○区立高等学校で女性教諭が変死』と見出しにある。俺は息を呑んで記事を読み進めた。
記事によれば、6月14日深夜から15日未明にかけて、○○区内の高校(俺の通う学校だ)の校舎内で、社会科教師の松浦○○さん(当時25歳)が首を吊った状態で発見された。
発見者は校員(用務員)で、警察の調べでは現場の状況から自殺と見られる――そんな内容だった。
詳しい事情については多く語られていなかったが、「遺書は見つかっておらず、松浦教諭の死因について警察は慎重に調査中」とも書かれていた。
続報を探したが、目立った記事は見当たらない。そのまま事件は「自殺」として処理されたのだろう。
やはり公式には自殺……だが田中さんの話と突き合わせると、不可解な点がいくつも浮かび上がる。
遺書が無かったこと、明るく快活だった人物像、そして現場の不自然さ……。
当時疑問を抱いた人間は少なくなかったはずだ。しかし真相は闇の中、か。
俺は図書館を出るとき、なんとも言えないもやもやした気分だった。
真実を知りたいという思いと、深く関わってはいけないという恐れ。その両方が心の中でせめぎ合っていた。
真相を究明したい。
しかし俺は高校生だ。学生にできることには限りがある。
今さら警察に駆け込んだところで、幽霊の証言など信じてもらえないだろう。
学校に訴えても、当時隠蔽されたぐらいだ、取り合ってもらえるはずもない。
結局、真相を知る手がかりがあるとすれば、当の松浦先生ご本人……幽霊となった先生自身に聞くしかないんじゃないか――そんな考えが頭をよぎった。
常識で考えれば馬鹿げているよな。
だが、俺はすでに常識では計れないものを見てしまったんだよ。
だから、放っておけなかった。
もし松浦先生の霊が本当にこの世に残っているなら、何か訴えたいことがあるに違いない。
俺一人でどうにかできる問題じゃないのは分かっている。
だがせめて、先生の無念に耳を傾けることくらいはできるんじゃないか……そんな風に考えてしまったんだ。
それからしばらく、俺は意図的に夜の校舎に残るようにした。
授業が終わってもすぐには帰らず、自習室で勉強するふりをしながら人が減るのを待った。
心臓はバクバクしていたが、不思議と怖さより使命感のようなものが勝っていた。
もっとも、緊張で手に汗が滲んで、勉強どころではなかったぜ。
廊下で物音がするたびにハッとして周囲を窺う始末で、内心は恐怖と期待でぐちゃぐちゃだった。
そしてある夜、チャンスが訪れた。
午後10時近く、ほとんどの生徒が下校し、校内はひっそりとしていた。俺は意を決して三階東端にある例の女子トイレに向かった。
廊下には人気がなく、薄暗い蛍光灯の下で自分の足音だけが響いている。
夜の校舎に一人きりという状況だけでも心細いのに、これから幽霊に会おうというのだから正直言って震えそうだった。それでも足を進め、女子トイレの前に立つ。
普段男子生徒の俺が女子トイレに入るなんて、普通はあり得ないことだが、今は非常事態みたいなもんだ。
誰も見ていないことを確認し、俺はそっと扉を押して中に足を踏み入れた。
中はひんやりと冷たい空気に包まれていた。
古びたタイル張りの床と、壁に並ぶ鏡。
電気をつけようとスイッチに手を伸ばしたが、躊躇してやめた。薄暗いままの方が、彼女は現れやすい気がしたからだ。
闇に目が慣れてくると、ぼんやりと内装が見えてくる。
個室がいくつか並んでいるが、どれも戸は開いたままだ。もちろん人影はない。
俺はかすれそうな声で呼びかけた。
「……松浦先生、いますか……?」
水滴が一つ、ポタリと床に落ちる音がした。他には何の応答もない。ただ自分の鼓動の音がやけに大きく響く。
もう一度口を開こうとしたその時――。
背後の鏡に何か動くものが映った気がして、ハッとして振り返った。
だが誰もいない。
代わりに、開いていたはずの一番奥の個室の扉がいつの間にか閉まっていることに気づいた。
確かに先程見たときは全て開いていた。
なのに今見ると、一番奥だけぴたりと閉まっている。嫌な汗が額に滲む。
いつ閉まった?
それとも最初から閉まっていたのか?
いや、見間違いじゃない。俺は勇気を振り絞り、その個室に歩み寄った。震える手でドアを押そうとする。しかし――。
ギィ……と音を立てて、ドアがゆっくりとひとりでに開いた。
「……!」
喉が引きつって声も出ない。
耳鳴りがして、自分の鼓動ばかりがやけに大きく響いていた。
中は暗くてよく見えない。
だが鼻をつくカビ臭さとともに、かすかに鉄錆びたような匂いが漂ってきた。
目を凝らすと、個室の天井近くに何かぶら下がっているのが見えた。
ロープ……?
いや、首を吊った人影――。
暗闇の中、ぼんやりと女の人の足が見えた。
スカートの裾から伸びた両足のうち、片方には黄色のハイヒールが履かれたままだが、もう片方は靴がなく、ストッキング越しの足が虚しく揺れている。
――田中さんが言っていた光景そのものだ。背筋に氷の刃が走る。
次の瞬間、窓のないはずの個室の中で、白い顔がこちらを向いた。
それは女性の顔だった。
青白く、目が虚ろで、首が不自然に傾いている。
松浦先生……なのか?
「ひっ……!」
俺は情けない声を出して、後ずさった。
途端に足元がもつれて尻もちをつく。
ズボンがタイルの水で冷たく濡れた。
個室の中の女は、ギラリと目を見開いた。
暗闇の中でもはっきりとわかる。
彼女はこちらを見ている――。
「ま、松浦先生……ですか……?」
震える声で問いかける。
しかし女は答えない。
ぎこちない動きでゆっくりと吊るされたまま揺れている。
長い髪がふわりと宙に広がり、歪んだ唇が何かを呟いているようだ。
「……た……す……け……」
かすれた女の声が、確かにそう聞こえた。
「助け……て……」
俺はハッとして立ち上がろうとするが、膝ががくがく震えて力が入らない。それでも必死に問い返す。
「助ける……? 俺に何を……どうすればいいんですか?」
女の唇はまた動いた。
しかし声にならない。
代わりに、「ギギギ……」というロープの軋む音が耳を劈いた。
耐えきれず俺は耳を塞いだ。
やめてくれ……!
叫びたいのに声が出ない。涙のような汗が頬を伝う。
すると、不意に音が止んだ。
恐る恐る目を開けると、個室も鏡も何もかも元の静寂に戻っていた。
あの女の姿も、消えている。
俺は荒い息を整えながら、その場にへたり込んでいた。
全身から力が抜け、立ち上がれない。
今のは……幻じゃない。
本当に見たんだ、松浦先生の霊を。彼女は確かに「助けて」と言っていた……。
どうやって助ければいい?
やはり無念を晴らすことだろうか?
どれほどの時間そうしていたか分からない。
ようやく足に力が戻り、震える膝を叱咤して立ち上がった。
これはもう俺一人ではどうにもできない。
先生の無念を晴らすなんて、高校生の俺にできるはずがない……だが――
俺は振り返って鏡を見た。
鏡の中の自分は生気のない顔で汗に濡れていた。その隣に、一瞬誰かが立っているように見えた気がした。
長い髪の女が……。
「っ!」
思わず目を背け、次に見たときにはもう俺一人だった。
幻覚じゃない、あれはまだいる。
俺がこの場を離れても、ずっと。
俺はふらつく足取りでトイレを飛び出し、階段を駆け下りた。
背後から追ってくるものがあるような気がして、振り返る勇気もなかった。
ようやく校舎の外に出て夜風を浴びたとき、俺は膝から崩れ落ちた。
吐き気がこみ上げ、胃の中のものをぶちまけそうになるのをこらえた。
静かな夜だった。
校舎の上階の窓は暗く、あの場所で起こった出来事が嘘のように思える。
それでも、俺は知ってしまったのだ。松浦先生の霊は確かに存在する。
彼女はまだこの世に留まって、助けを求めている……。
俺にはどうすることもできなかった。
震える手でペンを握りしめながら、ただ胸の中で「すみません……」と何度も呟くしかなかった。
その後、俺はなんとか平静を装って日常を過ごしている。
あの夜以来、校舎で怪異に遭遇することは今のところない。
しかし夜の廊下で足音を聞く度に、あの足音ではないかと心臓が跳ね上がる。
トイレの鏡を見るたびに、背後に人影が映っていないかと身構えてしまう。
最初のうちは顔色が悪いとクラスメートに心配されたほどだ。
もちろん理由は話せないから、「寝不足でさ」と笑ってごまかしたが。
松浦先生の死の真相は、結局闇の中だ。
幽霊が現れたからといって、それで犯人が名乗り出るわけでもない。
証拠もなく、事件は永遠に自殺として処理されたままだろう。無力な俺には、どうすることもできないのかもしれない。
仮に本当に彼女が誰かに殺されたのだとしても、その犯人は何の罰も受けないままこの十年間を過ごしてきたことになる。今もなお、どこかで普通に暮らしているのかと思うと、なんともやりきれない。
ただ、ひとつ言えるのは――俺の通う学校には本物の幽霊がいるということだ。
俺はそれをこの目で見た。
信じるか信じないかは任せるが、少なくとも俺にとっては紛れもない現実だ。
長々と書いてしまったが、以上が俺の体験した話だ。
正直言って、まだ頭の整理がついていない。
夢だったんじゃないかとさえ思うが、あれは紛れもなく現実だった。
誰かに聞いてほしかった。
松浦先生という一人の教師がここに存在して、そして今もなお声にならない声で何かを訴えているということを。
こうして文章にすることで、少しでも供養になるのかどうかはわからない。
ただ俺は、彼女のことを忘れない。
そして皆にも心の片隅に留めておいてほしい。
夜の校舎で響くハイヒールの音を聞いたら、それは彼女が助けを求めている印かもしれない……ということを。
俺の拙い長文を最後まで読んでくれてありがとう。
もしかしたら後味の悪い結末だと思うかもしれない。でも現実なんてそんなものだ。
すべてが綺麗に解決するわけじゃない。
不可解なまま、謎を残したまま、人生は続いていく。
校舎の薄暗い廊下を今もハイヒールの音が遠ざかっていく気がする。
その音の主が安らかに眠れる日は来るのだろうか――それは、まだ誰にもわからない。
ヨ話綴リ てふてふ @tafutafu555
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