七 「私が欲していたものだ」

 蓉子は投げ棄てた典籍をひろう。散り際のはなびらを掬いあげるように、嫋やかなてつきだった。典籍からは微かに、あまやかに鼻腔を刺す毒の馨りがした。


「……サソリマムシも、施しようね。《薬》と為るか、《毒》と為るか」


 雅明はその毒蟲むしたちが、蓉子なら妙な《薬》に為せると解っていたがゆえに、禁書とも想えるこの典籍を渡したのだろう。


「なかなか手には入らない毒だろう。……大陸の奥地で賜れる妙薬だ」


 雅明の云う通りだ。


 蝮こそ広く生息しているように想えるが、蝮でさえ都の外れの竹藪やぶ呼吸いきを潜めるほどだ。ましてや蝎のたぐいは、砂漠や湿地などという、そう弥和国では多くない、否、皆無にも均しい地に生きている。決死の覚悟で海原を渡らねば、様相をみることも叶わないだろう。


「……これがどれほど薬に為せるか、ね」


 紙一重の差だ。蓉子が指先まで神経を擦り減らして為せば薬に、いい加減に為せば毒になる。ただそれだけの差だ。


「……大陸の智慧ちえ、薬。私が欲していたものだ」


 宵空の静謐にひびをつけるように、女の悲鳴があがった。廻廊から、病臥に悶え苦しむ声がする。


「どうやら、また医が駈りだされるようね」


 妙薬を御身に擁き、蓉子は屛風を潜った。



    ◇



「私が要るでしょう」

「姫様!! ああ、良かった……さねが、突如として倒れてしまって」


 場は荒んでいた。

 花籠のつぼみはなびらに触れていたことは想像に難くなく、夜霧よぎり、さねの単衣ひとえには、数多のはなびらが、最期の舞を遂げたかの如く散っていた。薄紅の華の乱舞が海となり拡がっている。


 さねは夜霧にからだを支えられながら、だがしかし、虚ろな眼で何処かを眺めていた。

 なによりは、単衣の布帛から覗く白い素肌に、動静の血を想わせる朱と碧の筋が奔っている。朱の筋は血の痕にもみえ、廃れた人形に疵がついたかの如く、鬼胎さえ憶えた。


「治せますか?」


「ええ。幸いにも、薬があるの。……でも、これで御終いね。離にある霊薬たちは、今宵尽きるわ」


 まずは、と触診をする。

 朱と碧の筋はほのかな熱を帯びており、爛れていた。紡がれた糸が結ばれるように脈打つ筋をなぞると、さねが黒ずんだ唇を開き、「……お、母上……」と声を零す。


「妹君……は、違、うので、す……私が、割り、ました……咎め、られる、のは、私……だ、から、どう、か、妹に……拳を、振るわ、ない、で、くださ、い……」


 錯乱が始まった、と蓉子は目を細くした。

 今、さねの瞼には、吾子の愚行を咎める母か、乳母の様相がみえているのだろう。彼女の脳が、今この場で、叱られていると勘違いしているのだ。


私を、壊して、くださ、い、、、、、、、、、、、、……」


 蓉子は手をとめる。が、彼女は間もなくまた動いた。


(今はどうにもならない、だから考えるな。意識が戻ってから、じきに話しだす)


 夜霧が咳をする。呼吸いきが重くなったのか、口許をおさえたので、蓉子は手巾を渡し、丹唇くちびるをなぞって訓える。


(瘴気にれたんだな)


 さねのか細い腕に、薄紫の細糸が纏わりつく。瘴気だ。路傍の草を枯らすほどの害をもたらし、ひとが吸うと鼻の奥を刺されるような痛覚に襲われる。


 夜霧は毒に耐性はあるが、普通のにんげんと比べたらの話だ。

 譬えるなら、草で皮膚が気触れにくいというところである。


「姫様、有難う御坐います……恩に着ます」


 蓉子はただうべない、さねの《毒》に向き直る。


「……ってね、さね。すぐに好くなるから」


 蓉子は離に急ぐ前に、香を焚いた。瘴気を薄く、無毒にする香だ。己が離れている間、夜霧に看てもらうためであった。


 離に駈けこみ、僅かしかない《薬》たちに手を伸ばす。

 典籍の無地の頁を千切り、砕いて粉にした。


 絡生根カラミショウコンの粉、風蘭蜜フウランミツを陶磁の碗にいれ、双つが融けあうほどにかき混ぜる。甘い馨りと香ばしさが混ざり、言い得て妙な清香が離を包む。


 蝎の紙を振り撒き、また混ぜる。量には細心の注意を払わねばならない。薬となるその僅かを確かめるのだ。

 紫露シロの結晶を三つ置き、刻を読み円くする。ただ刹那だけ、物質が固形化するのだ。この瞬間をたがえれば、毒と為る。


 絹の織物を想わせるなめらかな布帛に包みこみ、昏く冷えた場処で寝かせた。




「また調薬か」


 碧い月を映した泉水いけに波紋を浮かべながら、雅明が花鯉ニシキゴイを弄ぶ。

 外に出た蓉子は呆れ、溜息をついた。


「ひとのいえでよくもまあ、のうのうと遊べるわね」

「僕の邸に鯉は泳いでいないから、興味深かっただけさ」

「鯉なんて、京にもいるわよ」


 雅明は泉水に濡れた袖の端をゆらしながら、蓉子へと歩み寄る。


 紫陽花の葩に宵の露が落ちた。玉兎つき歔欷きょきを想わせるゆらぐ水晶は、葉の小径を伝い、音もたてずに地へとつく。散った水晶に想いを馳せながら、いずれは碧と紫の花も散り、壊れる運命だと物想いに耽った。ハスも、サクラも、いずれは胤を蒔き散る。


「――雅明は」


 紡がれた細い糸を解くように、蓉子が唇を割る。


「己を壊して、と望むひとを、みたことがあるの」


 雅明は首肯する。

 そして、遠い故事むかしばなしを語らうように、懐かしむように、話しだした。


「幼い頃だった。兄も、姉も、両親もが壊れた少年がいた」

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