六  陰陽師の《毒》

 藍の絹に砂金を散らせたような宵の空に融けるように、真っ白な月がらんらんと昇った。叢雲が靉靆あいたいする最中に鈴の音が立つ。


(……鈴)


 大陸についての典籍に読み耽っていた蓉子ようしは、かんばせを上げ、開けた御簾の方へと眼をやる。濡羽色の狩襖かりぎぬに身を包んだ、隻眼かためのみの陰陽師が軟らかく地に降りる。


「……前から想っているのだけれど。鈴の音は、何処から鳴っているの」


「さあね、僕が知ったことではないよ。世には秘さなければならぬ事象がある、と蓉子も解っているだろう? 秘すれば華、口はわざわいの元だ」


 利口な蚕豆そらまめは吠えることなく、円いあぎとを奇麗に閉ざしていた。己の棲み慣れたやしきを憶えているのか、木目のはしる床にふうわりとした柿色のからだを預けて、眼をほそめている。


「そうか。大陸について……どうだい。其処の典籍で事足りるかい?」


「足りたら困らないわよ。……なにを読んでも、不確かな智識しか載っていない。事跡の途上で途絶えた巻帙が多いのは解るのだけれど、それでも――」


 雅明は蓉子の辭が終わるのを俟つことなく、篇章らしき巻物を持たせる。


「僕の邸に置いてあったものだ。君が悦ぶだろうかと想って、持ってきたんだけれども、どうかな」


 蓉子は目を瞠る。その表紙には、このほどでは見聞きすることもない旧い漢字が綴られていたからだ。加えて、漢字一文字の姓と、平安京にはない役職。大陸のものと判ずるのに、そう時間はかからなかった。


「……どうして、こんなものが」


「知ろうとすることは良いことだけれども、知りすぎることは感心できないね。まして、どうして僕の邸にそれがあるのかは、今はさして肝心なことではない。頁を捲ってもいいんじゃないか?」


 瞬きする間だけだった。雅明のひとみに、触れることさえ躊躇われる《毒》が宿った。触れればそのとき、神経の一筋までをも痺れさせ、内よりからだを蝕み殺めていくような、それでいて、刹那の間は、手を伸ばしてしまいそうな。


「……なにを秘めている。私は易く人を疑うからね」

「畏ろしいひとだなあ、そんなに狐のように人を睨めなくてもいいんじゃないかい?」


 蓉子は軽薄に微笑を零す彼を一瞥いちべつし、目を伏せて歎息した。

 頁を捲ると、眩暈で気が狂いそうなほどの漢字が、こまやかに、すきまなく綴られていた。墨の色は褪せることなく、さらりとした紙の上を奔っている。


「≪昔者、天地未判、陰陽未分。靈氣凝而成山、毒氣聚而成海。神農嘗百草、不盡其苦≫――」


 蓉子は目録を読み進める。狂気じみた禁書の御呪いだ。蓉子は墨の溜まった紙の端に親指を重ね、間もなく投げ棄てた。

 雅明は動じず、ただ虚ろな表情で床に視線をむける。


 蓉子は雅明の胸ぐらをつかみ、壁に押しつけた。


「……どうしてこんな、くだらない毒を撒いたの」


 蓉子は触れて気がついたのだ。

 この典籍の墨にはマムシの猛毒が、紙にはサソリの猛毒が、惜しげもなく使われている。乾いてもなお、時が経ってもなお、褪せない毒が。

 燃やして始末しようと想えば、煙に含まれる毒を吸い、重篤な症状を引き起こすであろう、猛毒だ。


「毒を盛ろうとしたの」

「……貴女は《毒を滋養と為す》のだろう? この智識は貴女への《滋養》になるよ」

「患者には《毒》でしかないわ」


 なぜこのような碌でもない典籍を、わざわざ贈ったのか、兎にも角にも解せない。まして、あらゆる《毒》を解する蓉子に、易く看破されないわけがない、というのに。


「どうして。ねえ、理由を教えて」


 雅明は口の端をゆがめ微笑わらった。


「旧くに大陸で、《毒》を《薬》と為した事象ことを存じているかい」


「流石に。何処の邦にもあることよ、特に大陸には蠱毒こどくというものがあったからね。毒が、生きる糧という時代よ」


 宵月に揺蕩う幻の蝶が、月魄げっぱくを想わせる光を纏う。さながら、帷子かたびらに帯を締め、舞い融ける雪だ。からだの毛に霜が降りそうなすずやかな風が吹く。


「……ほら、僕があげたのは《薬》だよ」

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