十  陰陽師、犬を飼う

 回顧録は終わりて、いま現在。


 蒸籠せいろ片附かたづけていると、ふいに冬の音と春の音が交ざって聞こえる。

 庭園の梅枝うめがえつぼみがあるのをみれば、春はそう遠くないとおもい知る。れど、残雪ゆきむ音は、冬であった。

 これら残雪がみな水となり泉水いけへと流れ、梅の莟も花になろうとするころは、二十四節気で雨水うすいという。


(薬草と毒草の繁盛さかりだ)


 嬰孩しんせいじでありながら鳥兜トリカブトませられ、あり得ないほどの滋養を手にいれた姫君は、春を好く。

 花鳥風月でもなく、あけぼのでもなく、あふるる有毒な花蜜かみつうたう季節だからだ。


 桜明さくらあき女御にょうごは、着々と恢復かいふくに向かっている。じきに大和歌わかんだり歌唱うたったりできるようになるだろう。会話も問題なくできるようになるはずだ。

 であれば、優先すべきは雅明まさあきである。


「眼をつぶって」


「なんで?」


「いいから瞑って」


 蓉子ようしが持ってきたのは眼帯である。

 雅明まさあきの右眼をみて、蓉子ようし口唇くちびるみしめる。


手後ておくれだ)


 眼薬を差せばしのげはする。

 だが、それは左眼にかぎった話になっていた。


「ねえ、右眼はえる?」


「どうだろう。視えないかも。けれど、ここまで視えなくなったのは、いまに始まった話でないから、もうすこし早くせなかったぼくの自業自得だね」


「ずいぶん謙虚ね。でも、左眼はたすかるわ。眼薬を差せばね」


 眼帯で右眼を被覆おおい、左眼に眼薬を差した。

 それから。


「この塗り薬を全身に塗って。もし自分だけでは塗れそうもないなら、私の父上に手伝ってもらえると」


 へえ、と、雅明が口唇くちを弧にして、眼を細めた。


「君じゃないんだね」


「急にどうした、私がやるわけないでしょう。指頭ゆびさき毒蛾ドクガ鱗粉りんぷんと同じ毒があって、塗り薬の効能を相殺そうさいしてしまうから」


 はぁ、と蓉子ようし歎息たんそくする。どういうおもいを胸のうちかかえているのか、正直なところ、いけ好かない。

 本気で疑問におもっていたのか、それとも。


(後者だろ)


 衝立ついたての向こうに容姿すがたを消して、顕微鏡の置かれた房室へやすわる。

 タンほろびかける直前、約百年前だったか、さらなる大国との貿易や交流を求めて、にしにしへと船舶ふねを進めていた時期とき弥和国みやまとのくににもあった。その際に辿たどり着いたとある帝国が使用していた、光学顕微鏡というものの材料とつくり方をおそわり、持ち帰ってきたのがはじまりとわれている。

 医学界では革命ともいうべき出来事だが、医学界にかぎったはなしだ。大和歌わか大和絵やまとえ雅楽ががく舞踏ぶとうたしなむ貴族たちや帝族たちは気にもとめない。


 雅楽なんぞ舞踏なんぞ、どうでもよい。

 最低限の教養として、大和歌わかだけはたたきこまれた。だが、そこで培った文字の教養は、大和歌わかよりも、論叢ろんそうの方で役立っている。


 ──雅明まさあきは、右眼の視力を失った。

 左眼も、えるといえば視えるが、職務にさわることは想像にかたくない。


(宮中で犬は飼える……か)


 利口な犬を飼って、眼の代わりにすれば、雅明もすこしは楽だろうか。



    ◇



「えっと、犬、だよね」


「そう。犬、よ」


 牛車の音に混じって、犬が寒天さむぞらえた。

 そう──犬、だ。

 簡単にうと、豆柴である。貴族たちの間で、愛翫あいがん用に飼われる種類の犬だ。ろく飼育そだて方をも知らずに好き勝手に飼う者が多いので、ころりと生命いのちを落とす個体がいまだ多い。それゆえに「犬とはこうだ」という迷信は消えないでいる。

 その、犬だ。


「えっと、犬。犬、犬。……どうして?」


「まあ、貴男あなたの眼の代わりと云えばいい」


 眼の代わり? と、雅明まさあきくびかたぶける。やはり犬は『愛翫』という認識でしかないらしい。


(愛翫って、『がんぐ』ってなんだ、翫って。生命は、いきものは、遊ぶものではない。なにもわかってない、ほんとうに、どうしようもない)


 白雲くも天道たいよう被覆おおい隠す。


「ただでさえ狭まった視野がぼやけているのはあぶないでしょう、危険をしらせるための犬よ。そのために調教したから、下手なところで吼えたりはしないわ」


「じゃあ、さっきのは……?」


牛車ぎっしゃの走る音が聞こえた、かれる危険を察して吼えた、それだけ」


 確かに先刻さきほど、牛車が垣根の前のみちを通ったばかりだ。

 仮にも視界の外から来た牛車に轢かれそうになったとき、吼えてくれば、危険を察知できる。片眼では遠近感をつかみづらいから尚更だろう。


「……偉い、な」


「ちゃんとした調教をしないといけないから。宮中で野犬が増えていて、其処彼処そこかしこわながあるらしいわね」


「そこに引っかかって、石をげられて追い払われる犬をよくみるとも」


(殺さないだけがせめてもの救済すくいとでもおもっているのか? ふざけてる)


 よくそのくちで、生命いのちだの、飼育だの、覚悟だの、ほざけるものだ。


っておくけれども、相手は、ただひとりでは生きられない《生命》だから、責任持って世話をできないようならすぐ引き戻す」


「……だろうよ。飼い主の都合で放置された犬が脱走して野犬になるんだろう?」


「宮中に行ったことがないかららないけれど。むしろ貴様おまえの方が現実を識っているんじゃないの」


 ずっとやしきもったまま敷地外になど出ない蓉子ようしは、宮中のことをほとんど識らない。

 というか、姫君たるもの、本来なら男兄弟にも素貌すがおさらさず、外に出ず、衝立ついたて越しの会話をし、扇子おうぎかくし、単衣ひとえの色目と教養で勝負するものだ。当然、かんばせなど、みえもしない。邸の外に出ることもない。

 白昼堂々、なんのためらいもなく、庭園で素貌すがおを、血も繋がらない異性に曝している蓉子ようしの方がおかしい。


 姉妹のいる雅明まさあきでも、袖で口許を隠すほどだ。


わかった。三日間、飼わせて。それで問題なければ」


「それが最適解だとおもう。飼育て方も碌に識らずに初っ端から飼って、ほうったりてたりで野犬を増やすようなら、めあげるから」


 ほんとうにやりかねないとおもい、雅明まさあきは苦笑した。猛毒の鬘草ツルクサくびを絞められそうではある。


冗句じょうだんじゃないね、やらないから安心して」


 豆柴は「蚕豆そらまめ」と名称なづけられた。

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